きりぎりすを、読んでいる。
太宰治の短編集だ。
昔、よく読んだ。ショックを受けたり勇気づけられたりした。
大学生当時の自分がひいた下線に、笑ったり今でも唸ったりしながら。

太宰の中期の作品は宝石だと思う。
ページを繰っていて、ページを繰れない。
このセンテンスに、今ページを繰ってしまえば当分出会えないのかと思うと、
そうなる。
晩年などの初期作品や人間失格、斜陽などの後期よりも、輝いて見える。

「作家は平気で歩いて居ればいいのです。五十年、六十年、死ぬまで歩いていかなければならぬ。『傑作』を、せめて一つと、りきんでいるのは、あれは逃げ支度をしている人です。それを書いて、休みたい。自殺する作家には、この傑作意識の犠牲者が多いようです。」

8年前に引いたアンダーライン。
そして今日の。

「自分はどうしても誠実な人間になり切れなかったから、せめて罪滅ぼしに一生、、、」
「東京はセル、をまた言った」

メジャーリーグ、プレーオフの陰で。
合併するオリックスから嘉勢投手が戦力外通告を受けた。
なんだか淋しい。

僕が高校生の頃、野球部の応援で嘉勢投手を見た。
臀部の大きい事、これが同じ高校生だとは思えなかった。
当時北陽高校のエースで四番、甲子園にも出場した。

ドラフト1位、契約金一億円。
オリックスに入団後、キャンプでの嘉勢投手の映像を見て
さらにびっくりした。
あのでかいお尻がプロの選手達の輪に入ると、なんとも貧弱に映ったのだ。
プロ野球というのはすごい所だなと実感したのを覚えている。

それから、幾年か。
あまり一軍では活躍されなかったようだが、
2年ほど前、投手兼野手の異色のプレーヤーとして
テレビで何度か紹介されていた。

戦力外通告。
嘉勢敏弘さんの第二の人生が実りあるものとなりますよう。
そしてしばらくはゆっくりと休んでください。
今までおつかれさまでした。

10月10日。
一年前の今日、出演していたドラマ「ヤンキー母校に帰る」の第一回放送日だった。
10月10日夜10時放送。
緑山スタジオ控え室でみんなとワイワイ言いながら第一回放送を見た。

今は少し、毎日が空々しい気持ち。
張り合いもない。
自分で決めた事とはいえ、俳優は休業中だし、
毎日仕事して家に帰ってきて眠るだけの生活。
叫びだしたくなる家路もたしかにある。

でも、後悔しない選択なんて果たしてあるだろうか。
切り捨てた生活を時々思い遣り胸を痛めつつも、
それでも今ここに立っている事が間違いじゃなかったと、そう思えるよう頑張って暮らしたい。

2004年10月10日。
来年の今頃、僕がどこにいるのか。
不安だけれども、ちょっと楽しみでもある。

夜中に爪を切る。
カチ、カチと何かが断定されるような音。

子供の頃、爪は噛んでチギっていた。
チギった爪は並べて食べていた。
足の爪は体を屈めて噛んだ。
お兄ちゃんの足の爪を食べた事だってある。
時々、食べた爪や飲み込んだガムが胃の中から溢れ出る夢を見た。

爪がどこから伸びてくるのか分からなかった。
爪先からか、内側の白いフチドリからなのか。
カッターナイフで傷をつけて”どこから伸びるかの実験”をした。
たいていいつも、傷は消えていた。

カチカチと、夜の部屋に響く。
爪切りを駆使しながら、切り落ちたひとかけらを口に入れてみた。
細かく噛み砕きざらざらにして飲み込む。
不潔だろうが、ひどい味はしない。
十何年ぶりで爪を食べた日、今日のあの苦しさを忘れずに。

最近、祖父の事をよく思う。
父親と出歩く事が多くなったせいだろうか、
僕の父がその背中を見て育った、祖父という人をあまりに知らない自分に気づいた。

記憶の中の祖父。
小学生だった頃、夏休みと正月にはよく父に連れられて祖父のアパートを訪ねた。
当時の僕にとって、祖父を訪ねるというのはとりわけ退屈な行事だった。
話もうまく見つけられなかったし、遊んでくれる人でもない。
しかし、お年玉の「大口取引先」であったので、行かないわけにはいかなかった。

古い四畳半、アブラムシがうようよといた部屋。
ネピアの空き箱にお金を隠していて、そこから一万円札を一枚引き出して包んでくれた。
お年玉をもらうともうすぐにでも帰りたかった、でももらってすぐというのは気まずいだろうと子供心にも分かって、ずっと時計ばかり見ていたのをなんとなく覚えている。
祖父が死んだ時、僕は学校の遠足を休んだ。

父に聞いた、父の父の話。

村瀬秀吉。
横浜生まれ、8人兄弟の末っ子。
名前は太閤秀吉からもらったそうだが「ヒデキチ」と読む。

船大工だった祖父は金を作り、東京に家を買った。
まだ30そこそこだった祖父には彼なりの人生設計があったろう。
しかし突然に、それは破られる。
出征。

船大工だけに海軍だった。
まだ戦争が激しくなる前の頃、台湾や中国、アジア各地を軍艦で周った。
アメリカとの戦争が始まる頃、除隊して故郷に帰ってきた。
一水兵であるよりも一隻でも多くの軍艦を作った方がよいとの国の判断だったのだろう。

祖父の除隊を、家族は懼れていた。
除隊を知らせる手紙が外地から届いた時には狼狽したらしい。
祖父の父親、銀次郎(僕の曽祖父にあたる)が、東京の家を勝手に売っ払ってしまったのだ。
あの秀吉さんの事、帰って来て家のない事を知ったらキレて何をするか分からない、親戚一同はそう口々に噂した。

だが、家がすでに他人の物になってしまっていると聞いた時、
祖父は何も言わなかった。暴れもせず、怒りもせず。
村瀬一族の心配は杞憂に終わった、かに見えた。

祖父の頭に何がどんな風に浮かんでいたのかは分からない。
ただ祖父は、のこぎり一本を持って他人の手に渡ったかつてのマイホームに押し入り、家人の目の前で大黒柱を一本切り倒し、そして持ち帰ったのだ。

大黒柱一本。
大黒柱一本分の、何だったのだろうと思う、祖父の。
時代への怒り、父への憤り、思い出、人生に対してあまりに盲目である事への恐怖…様々な感情。

これから少し、僕のおじいちゃんを辿ってみようと思った。

沈みがちなこの一週間。
もう終わりにしようと思う。
こんな時、いつもなら。
いつか行く旅を夢想する。

ミ マセナ ド マラ (人殺さずば 食を得られず)
ゴムバ マコル ナ ディクバ マッア (寺遍歴せねば罪業消滅せず)
ミ セゲセゲ ゴムバ コルゲコルゲ (人殺しつつ 寺巡りつつ)
ジュ ジュ オムマニペメフム(行け行け 南無阿弥陀仏)

この言葉で、チベットの虜に堕ちた。
聖山カイラス巡礼者の残した詩だ。
そこには数少ない真実と、許しがある。
いつか行くだろうか、「宇宙の中心」カイラスへ。

秋分の日に。
東京から送った荷物が大阪に届く。
以前に送った物と合わせて段ボール10箱ほど。
片付けようとするが、からまわり。

もう動かないパソコン、昔の台本、ファイル写真、服パンツ靴下、鉛筆メモ帳。
それぞれがあまりにかけ離れていて、一つの箱に収まらない。
足の踏み場もない部屋に立ち尽くす。
日が暮れて電灯をつける。
散らばったそれぞれにかわいい荷物達を見下ろしながら、
お前達パーテンションを切り過ぎたハードディスクみたいだね、と笑う。
あまりにバラバラで、拠り所がない。

1996年3月22日上京、2004年9月22日帰郷。
荷物の山に埋もれ座りこんで、昨日のコーラを飲みほす。
まだ気持ちがバラバラで、これを整理するのには少し時間がかかりそう。
来年春の出発に向けて、しっかりしなければ。

今日は秋分の日。
そして南半球では、春分の日。