睡蓮のひとりごと(仮)

睡蓮のひとりごと(仮)

ひとりごと、むにゃむにゃ

なんとなく、腹黒い部分のブログも書いて楽になろうとしましたが、下書きで留めておく。

 

書いているうちに別の書きたいことがあったので。

 

まだ書くのか、という植物の話だったりして。

 

12ヶ月のベランダというのを考えていて、そのうち冬について大体揃ったかもという。浪費の記録、というか最近揃えてました。

 

11月:さっき書いたベトナムコリアンダー(380円+税)

12〜2月:原種水仙(300円)

2〜4月:スノードロップ(86円×2)

3〜4月:クレマチスペトリエイ(昨年購入、多分400円くらい)、クロッカス(今あるやつ、一球50円くらい×3)

4月以降は種まきでなんでも育つので浪費はしているけれど書かない

 

クレマチスジングルベルというのを購入していてうまくいけば冬の間中咲くのですが金額的に上記より高いため現実を見たくなくてお値段は秘密。ただしメルカリで一般価格よりはとっても安く購入。

 

スノードロップと一緒にやはりお値下げのチューリップとヒヤシンスがあり、それも育てる予定(それぞれ80円くらい)

 

前職を辞めるまでの間。辞めさせられる職場に出勤しなくてはいけないのと先のことが怖くて、現実逃避で出社の日には寄っていたホームセンター、ビバホーム。うちの青いコリドラスを見つけたのもこのホームセンターのアクアショップで、最初はそれが目当てだったんですが。苗物が安いことがわかり。お値下げ品だと本当に60円とか80円とか、そういうのが出ていて。しかもなぜか、あれ欲しいなあ、と思って普通には簡単に手に入らないような苗がそのタイミングであったりするので不思議。

 

今は、交通費かかるし、駅に着いただけで辛い記憶を思い出してしまうのでなるべく長時間居ないように、かつ、周りのお店は寄らないようにしているのだけれど。

 

特に。スノードロップは本当はメルカリにしようかなって思っていたのですが、なんとなく、行きたくないけれど行きたいというような状態で行ったら「あった!」って感じでした。球根は、今まであんまりないのでうまくいくかわからないですが、花が咲かなくても溶けてしまわない限りはその翌年にトライできる、というのがあり。

 

そういう育て方とか調べていると何時間でもやってられます。だから、あ、私これが好きなんだなって。昔は。植物図鑑とか専門書とか読まないと情報が入らなかったんですが、いまはインターネットで調べられるので、でも子供の頃も植物図鑑を何時間も見ているの好きでした。喘息がひどくて学校をお休みして外に出られない日が多かったので。庭に出ても寒さで喘息起こしてしまうので、植物図鑑をずっとみていたりしました。余り物のトレーシングペーパーをもらってずっと映していたので花の絵だけは書ける。

 

今の時代だったら、ビデオを見せるとかYouTubeだったり、病気で外に出られない子供の過ごし方はそうなのかもしれないけれど、考えたらビデオなかったんです。幼稚園とか小学校低学年の時。で、一冊の植物図鑑を端から端まで読んでいる。

 

入院するとピンクレディセット(りかちゃん人形みたいなやつ)で図鑑は持っていかなかったから不思議。

 

植物はチリつもで、いかに安く買っても結局浪費しているんですが。昨日「お金のブロック」みたいなものを考えていて、お金がなかった、とか、買ってもらえなかった、ではなくて、「自分の欲しいものを買ってもらえなかった」「自分が選んだものは浪費だと文句言われた」というあたりなんだなと思って。何も不足していなくても、欲しいものを我慢したり後悔したりすると、欠乏感になってしまい、マインド自体が貧しくなってしまう、そうなると仕事も不満を持ちながらやってしまって辞めることになるし、変なタイミングでお金がなくなったり。

 

「そんなものは無駄遣い」というのは価値観の違いでしかなかったりして。それがよくスピ系でいう「お金のブロック」なのかなと。お金のブロックは価値観の違いだったり自分を大事にすることだったりするのかなと、昨日お布団の中で考えていました。

 

と言いながら。植物に関しては結構自分で言い訳言い訳だったりするんですが。ベトナムコリアンダーとか、あとベランダにある植物は食べられる物が多いし、特にこれからはハーブ系で食べられるお花のものもたくさん植える予定。その流れでトリカブトの種子の出品を見た時買ってみようかとか落ちているときは考えましたが、出品者さんに迷惑がかかりますので。

 

これで言い訳している時点で、まだ完全回復ではないのだなと思います。すこしずつで。

療養のつもりでのんびりしてみて、本当は2月中だったけれど3月も引き続き。。。

 

面接会とかオンライン面談とかは受けたりしていて、いわゆる「年齢の割に高望み」ではあるけれど、それができる間はというのと、うまくいかなくてもしばらくはなんとかなるような方法をとって。甘いのかなと思いながら、今まで我慢してきた分だと割り切ったりしています。

 

ただ、休んでみて鬱だったというのはすごくあって、自分の雰囲気がすごく怖いとかなんか怪しいから落ちていて、誰でもいいところに受かっていたような気もするので。特に直近は。ここを選んだ自分が悪いと思うほど。ブラックとかではないんだけど、法律的に手続きがグレーというか。ハローワークでも離職票の書き方が違ってはいないけれど微妙ですね、なんかおかしいですね、と言われるような状態だったので、知識がなければ思いっきり泣き寝入りするような状態。なので派遣は不合理と世の中でなっているのだと思います。

 

最近。ときどき2時面接まで行けるようになって、受からないけれど何かコメントをもらえたり、そういうことが増えてきたので自分の異常性が休んだことで和らいでいると思います。

 

あとは。結構ネット記事の自分の体験談とかニュースとかで見ると、私たちの年代がしばらく休んでみる選択肢をとっていたり。内部告発した人が正しかったけれど結局退職になってとか、諦めているのではなくストレスでおかしくなって、家族からそんな状態ならば生活苦しくても仕事辞めてくれた方がいいとか、違法なこととか不当に得をするのが当たり前というところでは離れて精神的に健康になるという部分なのかなとか。

 

休んでみて。よく寝るのと好きなことをするというのをしていて、予算はないのでできる範囲なんだけど。ベランダのガーデニングやアクアリウムはまあ遊んでいるようなものだけれど、気付いたのは、「料理を楽しむことができるようになっている」「部屋が過去一片付いている」というところ。これはびっくり。もったいなくて使わないとか、そういうのが多くて収納がない、物が多すぎ、断捨離しなきゃとか思っていたけれど、片付けてみたら全然片付くじゃん、なんなら捨てようとしていたものは使うべきものじゃないと。

 

ガーデニングから、のんびり始めて、最初は起きられなかったのが朝日を浴びる習慣になったのがいいんだと思います。あったかくなったし、冬は日が短いと明らかに日当たりが悪くなる、季節ごとで日当たりが露骨に違う部屋なのでそれもあるとは思うけれど。起きて、インスタントコーヒーにお湯をいれて、ベランダに出る、絶対朝日を浴びる。

 

鬱の治療にはいっぱい書いてあることで。

 

冬は寂しかったけれど、一日一日、植物って誰かしら様子が違うのですね、そのくらいの変化が何もできない時はちょうどいい。はっきり言って枯れ木状態で購入したクレマチス挿し木苗、本当に枯れているのではと心配したけれどしっかり芽が出てきまして。昨年小さい苗で買って花など咲かないのではと思ったペトリエイも蕾がいっぱい。食べた後のみかんの種から生えてきたみかんの木、これは昨年の酷暑で犠牲になったメダカさんたちを埋めていたせいか魂の木みたいになっている。

 

音楽に必死にしがみついてきたからわからなかったけれど、私こんなに植物好きだったんだとわかりまして。切花ではなく、植物の生育であったりそういうところだなと。職業訓練でお花の学校に行ってものすごく違和感があったけれど、お花好きなはずなのになぜ?って、それが切花ではないことがわかったり。切花好きな人って性質が違うのかもしれないなと。

 

そういう意味で。本当は高校生の時に周りに相談できたり、大きな出来事がなければ、こちらに進んで音楽は趣味でもよかったのかなあとか。やはり父が亡くなったことで、精神的ショックでうまく判断できなかったりなげやりになったりというのがあったり、自己憐憫ではなくこれからどう立て直すのかという意味で考えてみる。母や兄と性質が違うのは、あんまり人の評価とか人より優位に立つとかお金がどうこうというところに執着がないところ、時代的なものもあるけれど、人に自慢できるような、人より上になるような生活を望んでいるだろうと勝手に思われていたんだけれど、そういえば、高校生の時思っていたのは「会社員だけはきっと無理」って思っていたんだなと。

 

しかし。ベランダにマニアックな植物が増えてきたり。冬のうちに押さえておいた種子も結構マニアックというか。メルカリで個人の方が育てた種子や苗が手に入ることを覚えてしまい。普通のものは送料考えると割高なんだけどそれでも300円とかなんで。100円単位で節約するような何かはあるんだけれど随分ブロックも外れてきた気がします。

 

昨年冬がちょっと寂しい感じだったので。今から冬のことを考えて一月とか二月に咲くもの、通年何かしらお花が咲いている状態と考えて揃えるとまた別の楽しみがあったりして。

 

先日期日前投票に行く時に気になっていた「ベトナムコリアンダー」というのを買ってしまった。「ノコギリコリアンダー」と勘違いしてタネを入手したのだけれど昨晩気になって調べたら全く別物、ベトナムコリアンダーはタデ科、タデ科ってそだてたことないなというのと、ハーブ苗はメルカリより見つけた時の方が安いので、と自分に言い訳して買ってしまった。バクチーより強いパクチー味であり、11月に花が咲くらしい。そしてセリ科のコリアンダーと違って多年草、屋外で冬越し可能、期日前投票の時に見たより5倍くらいに成長しており、成長したところで苗は値下がりしても値上がりすることはないので。

 

ありがちなハーブだとこんなに売れ残ってくれないのだけれど、さすがにマニアックなんだろうと思います。

 

単に書いて整理したいから書いているブログ。

先日あまり行かない場所を歩いていて。

 

ふっと気づいた、家族というものが安定していないと絆とかそういうものを感じづらいよねと。

 

3月1日、前日にはイランの戦争のニュースがあり。その前の選挙があり。私たちの子供たちが、ということを言われてもいまいちピンと来ない自分がいる。大事な家族に大変なことがあったら大変という戦争の感覚がないのかもしれない。

 

自分の家族というよりはすれ違う知らない人だったり、いつも優しくしてくれる住んでいる街だったり。

 

若干引いてみている自分がいるとふと気づき。

 

それで。大事大事と扱ってくれる人、一緒にいて安心できる友人ができて、とりあえずやっと、自分自身の存在も大事なんだなと。自分を大事にするという感覚をなんとか体に馴染ませようとしているところ。

 

なんとなくだけど、実家の家族の方が普段接している人たちよりも遠い気がしたり。

 

そうは言っても子供を愛しているものだからという何かが何にもないのは、私が感覚的におかしいのか、何か育つ上で問題があったのかは子供だったからわからない。先日お医者さんに行って「自分が家族の支配を異常に恐れていること」がわかって、何か普通ではない家庭だったのだろうなと。いつも書いている通り、父とおばあちゃんはいたので全くではない。

 

ただ、大事にしてくれない恋人だったり友人でも耐えられてしまい、自分を大事にできない職場を転々とし、そういう何かから抜けるには、とっても大事と扱ってもらうことは大切だったんだよね。それでいてまあ、会えなくなったら仕方ない、人間だからいつか死ぬし、死ななくても会えなくなることはあるしと思ったり。

 

私の病気が依存しやすい病気ということもあり依存を極力排除したら逆に距離感が遠くなった気がします。

 

とにかく、いい方向に向かおうということで。仕事も探しているけれど、とにかく数をこなして1件1件の対応力がよろしくないということだったと気づき。期待して裏切られて悲しんでメンタルやられるような。あとは、いわゆる研修のようなものはしても教育はしないとか、ある程度出来上がった何かを安く雇いたがっているのかなと思ったらきちんと考えてから仕事に就かないと、とも思えたりして。

 

文句を言いたいというよりは、そういう扱いの人は優先できないよ、という人の見極めであったりして。

 

余程でないと出会わないのだけれど、本当に自分の価値観が正しいという人だと無意識に雑に利用していい人間というのを嗅ぎ分けるのだなというのは先日もあったりした。話を聞いていると、本人は大変な苦労をしてきたつもりでも社会の経験値が低くて他責なので「なんでわかってもらえないんだろう。周りが悪い」で終わっちゃう人は長く人と付き合わない分こちらにものすごい距離感で近づいてくるなあと。すごくマイルールだなと思って話を聞いていたりした。

 

すぐに離れた方がいい人の特徴というのをYouTubeでやっていて当てはまると思ったのが、自分を満足させろ、そうしたら怒らないでいてあげるし、自分が気分がいいならあなたは幸せなんだというもの。

 

で、最近気づいたのは、とにかく会えれば嬉しいし、嫌がることをして嫌われるのは嫌だ、一緒にいて楽しく過ごしたい、そういうこと。

 

前者に当てはまってしまうのはメンヘラだったりして。

 

怒られないようにビクビクするのではなくて、自分らしく生きて喜んでくれる人、うまくいったら一緒に喜んでくれる人、当たり前なんだけれど、うまくいったら何もしていないのに見返りだったりお返しを求めてくる人もいるので。

 

そのきっかけがあったら随分と快適に過ごせるようになってきたりして。

 

もう少し、生きてみるかなとか。

 

そんな感じです。

 

ここまで書いてきたあんまり良くないこともこの答えを見つけるための修行だったと思えば。

 

そんなこと思います。

以前より揺さぶられることはなくなってきたけれど。

 

戦争が始まってしまい。イラクがいいのか悪いのかはわからないけれどネタニヤフは相変わらず好きじゃない。

 

ネタニヤフ自体がユダヤ教の力を持っている人に動かされているのだろうし、キリスト処刑の時のピラトに重なるところがあったり。

 

何かでネタニヤフが手を緩めようとしたことがあったが、イスラエル世論がそれを許さなかったため止まらなかったというような、何の話か忘れたけれどやはりキリストを処刑した民族なのだなと。イスラエルやユダヤ教全てではなく。それによって何か得をしているというのは新約聖書にあった「堕落した教会」という何かのような気がします。使徒が手紙を送るところから始まるものが多くてその時点で本題に入る前に読むのに飽きてしまうことが多かったが、今になってそういうことだったのかと思います。

 

教会や学校で聖書を読む際にはここは前置きとして本題に入るように、聖書では細かく部分に数字が振ってある。聖書自体は実家に置いてきてしまったのでざっくりした記憶しかない。結局私はキリスト教徒ではないです。

 

キリスト教、イスラム教とも救い主は来ているのにどっちも無視していまだに救い主を待っているのがユダヤ教、というのが私の見方なんですが、正義感の方が罪悪感がない分歯止めが効かないという先日ニュースでみた言葉がその通りだと思ったり。選民思想により何でも自分たちが正義となるのが危険。という意味では自己愛国家なんだと思いますが。

 

誰が悪いというより、モーゼの話の前に創世記があって、ヤハウェは人を一人しか作らなかったはずという部分で選ばれた民というのが納得できず。ノアの時も堕落した人間は全て洪水に流して殺すというとんでもないことをしているので、で、ノアが「もうしないでね」って祈っているはずなので。

 

ちなみにお釈迦さまも神様の子供だったように思うのでこの辺りはバベルで言葉を散らした各言語の国での各救い主であったのではないかと思います。

 

あと、自分で空想のように考えていくと楽しい部分ではありますが、史実だというけれど、そもそも創世記の時代に客観的に事実を見て書いた人がいない、というか印刷技術の発達などがかなり後の時代となると、手書きで書き写したものを教会が司るものが集まる人に教えていた、神とペンで書き記すという何かもいつの時代かわからないということを考えると。証拠があって一部史実だとしても、それはどこか繋ぎ合わせたものでユダヤ人が本当に選ばれた人間かどうかはわからないということです。

 

なんであれ、その周辺の宗教の人はそこが基準なのでなんでもいいけれど。

 

それでいくと。日本神道は八百万の神、つまり神様がいっぱいいる宗教、これが他に何に当たるかはわからないのだけれど、ギリシア神話なんかはそうだと思います。なので日本人の本来の考え方は「神様はいっぱい」なわけで。無宗教で神様はいないわけではなくて、神様はいっぱいいて、しかも人間臭くて失敗する、暴れるスサノオだったり引きこもるアマテラス、火の神様を産んで死んでしまうイザナミだったり黄泉の国に迎えに行って結局逃げて帰ってくるイザナギだったり、ある意味情けない神様だったりするわけで。あと、神様でも死んでしまったりするわけで。あれ?

 

なので他の宗教についても対立しない限りは許容性があるのではないかと思います。

 

聖書に関しては。その神様の一切に関して議論するなというのがあり、そういう意味ではイスラム教の方が忠実だったりして。

 

ただ、口伝も守っているので指導する存在、キリスト教でいう牧師様とかそういうものが存在してしまったりして。ハメネイさんなんかはそういうことだったんじゃないですかね。

 

神道も。悪用されて日本も戦争に突き進んだわけで、そこを昭和天皇が自分が人間であると言ったこと、あと、アメリカが神道をつぶさなかったことがその後の長い平和につながったわけで。イスラエルがイスラム教を迫害したらいつまでも平和にはならないでしょうね。どれも神様と認めて相手の領域に手を出さないというのが平和なんだけど、相手の領域に手を出したがるのは個人的な付き合いとしての自己愛性人格障害の人も同じ、自分の基準を相手に要求するので相手が服従するか滅びるかしか無くなってしまう。

 

そういうところを見抜いていたのがヒトラーだったのかもしれないと。

 

私自身は。とにかくお布施とか面倒だし教会に通うのも人と関わりたくないのでというよくわからない理由で無宗教なのだけれど、ホ・オポノポノの考え方が八百万の神に近いのかなとか、潜在意識の話もそうです。神様は自分の中にいる、ヒューレン博士の著作の図だとどちらかというと父なる神の考えに近いのかなと思う時もあるけれど、アメリカ人だし、神様は自分の中にいて自然の中にいる、自分は自然の中で生かされた存在のような。

 

ハメネイさんがどんなにイヤな人だろうが人が死んでいることには変わりないわけで。

 

神社とか八百万の神とかそういうのがもう少しわかりやすい話で伝わったりするともう少し平和になるのかもしれないですが。あと、差別とか被害者意識があると攻撃に罪悪感がなくなるのがイスラエルがいい例と考えると。差別がと叫んでいる人たちは実は攻撃性が強いと考えたらいいのかなと。先日話題になっていたことも、マイノリティだ差別だというのがありますが、母親に対する差別だという言葉で独身女性が逆差別じゃないの?って思うことは今までよくありました。

 

自然神。

 

春が来て、大丈夫か心配だったいくつかの新芽が出てきて、花が咲いたり花芽が膨らんだりしています。これらは時が来ないと芽吹かないわけで、風だったり太陽だったり、さらには宇宙や雨雲や、そういうたくさんの自然神がなければみられない風景。冬の寒さを越えて春が来ないと芽吹かないものもあります。あと、挿し木もしているのだけれど、昨年秋から枯れもせず、かといって成長もせずというものがあり、ちょっと根っこの出る気配が半年して出てきたり。まだ挑戦していないけれどクレマチスの種子は蒔いて早くて半年とかでやっと発芽というものもあるらしく、神様がそういう性質に作ったんだなと思います。

 

私も。なにか焦ってあれこれしようとして自分の性質に背いてしまっていた気がして。世の中も景気が悪くて焦って自然な性質に逆らって争いになっている気もしますし。一方黙示録などの記述を見ると人間の長い歴史にインプットされたなにかのサイクルなのかもしれないとか。ホ・オポノポノのデータ消去の話でいけば戦争はバグだから、戦争とか争う心や気持ちに感謝して、もういらないです、ありがとう、さようならというのがいいかもしれません。

 

決して政治がとかどこの国がという何かではなく、それぞれの人の心や気持ちに対して、私は私自身の怒りや悲しみに対して、感謝し手放すことが大事なのかなと思います。

表向きのブログを更新して、本音は言えないものだなと思って。

 

なんであれ音楽は聴いてもらわないと意味がないわけで言えないこともある、というのがわかっただけいい。

 

書いている内容から、どうしても来てしまう人はいるのだけれどだいたいプロフィールが似ていたりして、そういうものだなと思いますが。

 

特に女性に多いのだと思いますが

 

みんな同じ

 

誰でもできます

 

これは言わない方がいい。

 

まあ、似た人が来るからいいのだけれど万が一で根本が違う人については一歩間違うと傷つく何かであったりします。黙って閉じられないモヤモヤした何か、ということ。

 

女性に多いと言ったのは、結局父親が悪くて母親に共感できるものという、女性は共感の生き物、昔は女性の方が地位が圧倒的に低かったし教育という面では男性と同等にというのは難しいので多くの割合で母親と分かり合えるだけです。

 

実際には。母親の虐待というのは多いらしいのだけれどそれは世の中が無かったことにしたいだけで、立ち直れなかった人が犯罪を犯す、という感じのニュースをみていたたまれなくなった。被害者がそんな悲惨な家庭があるとわからず責任を問うているのだけれど無理なものは無理、もともと愛情を一切もらわなかった上に裏切られた子供というのは運が悪いと一生苦しむ。

 

「毒になる親」の副題「一生苦しむ子供」。見たニュースの少年はおそらく一生苦しむ子供だと思う。

 

 

私も今月になって、全部ぶん投げて休むとなってから不思議と落ち着いたのだけれど、理解したというよりはどうでも良くなったという方が正しい。自分の人生を生きるという何か。

 

母親との関係を見直せば輝けるようななにか、それは誰にでもは通用しないということ。

 

ないものはないと認めないと、自分でどこを怪我していてどこを治すのかというのが違ってしまうという。

 

自分がずっと治療に対して、休養に対して拒否していたのは、まず音楽を全て止める、という「一番大事なものを取り上げる」だったからで。

 

情報が取りやすくなってわかったこと。

 

まず質の良い睡眠を取る。そこからできることから始める、というのが方法。仕事を先にできるようにして好きなものはできたらあげるというのは治療としてはありえないことだったりする。

 

食事ですら、食べられない時は食べられなくていいというものもあるようで。栄養は取るべきだろうけれど出されたものに喜びも感じずに安心できずに食べるというのはよくないし、食事の時間が苦痛というのもよろしくない。楽しみがない時に「美味しいものを食べる」というのは重要。美味しいと決めるのは、値段でも、手作りか否かでもない、本人が美味しいと思って食べられるかどうかだったりする。

 

多分。音楽を休むべきだったかもと思う時はあるけれど。当面のスケジュールをこなしてから、元気になったらまたできるからと早く元気になろうねと励まされて休むのであればありだったと思うのだけれど。ライブキャンセルの罪悪感であったり、信用を失うことで人がいなくなるという恐怖だったり、いつ元気になれるかわからないとか仕事を探さないと、ということが果てしなくあれば悪化してしまったんだと思うし、本当にやめたら取り返せなかったと思う。

 

はっきり言って人としてダメな時でもあまり突っ込まずに接してくれたライブハウスがあったから、父親みたいな感じだったんだと思う。

 

今は。ベランダのある家なので。動けないと認めてからは起きられる時に起きて、ベランダに出て、寒くて気は進まないけれど土や植物に触ると。不思議とあれこれ作業をして。枯れた葉っぱを除いたり、水の具合を見たり。メルカリで安く買ったクレマチスが芽吹いていて今はそれがとっても嬉しい。ずっとチェックしていたらお値下げになって、枯れ木みたいな状態で届いたけれど新芽が日々大きくなる。

 

多分。土や植物の持つ自然の力が私に力を与えているのだけれど、もう一つはおばあちゃんの影響かなと。

 

暇だと近所の苗ものたくさん置いてある園芸店に行って、浪費だと言われていたけれどお店の人と話して苗を数個買って、だと、そんな浪費でも無かったんだと思います。昨年切花をやって思ったけれど、苗ものの方が全然安いなと。庭園のような公園に行って帰ってくるだけの日もあった。そんなに浪費はしてないし、何も買わないでお喋りするのは失礼だからという礼儀もわかった気がする。昔否定されていた経験が実は良かったと活きるときもある。

(浪費だと騒いだ人が誰かは伏せたい、これが私の話の主語がないというクセの原因なのだけど)

 

やってしまいますがね、目当てのものがなければ何も買わずに帰ってくる、みたいな。

 

小さいお店は見て帰る、は、やらないようにしている。

 

自分だけが得しようとしてはダメなんだなと、わかってきたりする。

 

種まきの先行で少し蒔いているけれどいくつか発芽したら嬉しいなと。秋まきはうまくいかないものが多くてその春蒔きなのでダメ元だったりする。おまけで寒い地域からいただいたものは、東京ではうまくいくかどうかなと思い寒い時期に蒔いてみた。

 

結果はどうあれ変化になるので多分書くと思う。

 

こちらは裏側なので写真は載せたいけれど使いません。

 

そのうち。生活も安心してできるように、なる早で、とは思いますが焦らずです。