睡蓮のひとりごと(仮)

睡蓮のひとりごと(仮)

ひとりごと、むにゃむにゃ

あまり、人に記事に興味はないのだけれど。

 

さっきのブログを書き終えて、たまたま目にしたブログでちょっと納得というかインスパイアされたものがあり、もし自分のことかなで削除して欲しいなとかあれば連絡あれば消すのでこっそり教えてください。

 

基本的に、子育てとかママとかそういう人のブログは苦手なんだけれど、苦手な理由もその人のブログでわかったというか。

 

こう、おしゃべりに付き合わないと、付き合い悪いなとか、なんで先に帰っちゃうんだろうとか。

 

子育て大変とか家族の愚痴で盛り上がりたいという人がいそうだなって、ちょっと主婦の中に入って場違いだったことがあるけれど。それって個性なんだけれど、そのみんなで盛り上がりたい人の方が女性は多数派なのかもと、しかし、面倒だなって思ったら私だけではなかったかもと。

 

大変とか愚痴とかって、外向いている人で、自分で作り上げることが楽しくない個性の人(disっているわけではない、私が理解できないだけ)、共感して欲しい人なんだけれど、そういう人って女性は共感を求める生き物とかひとくくりにしたがるけれど、そうじゃない人もいる。共感を求める人が多いというだけのことだと思う。

 

全ての女性が、共感脳ではないということ。

 

それって、教育もあるのだろうけれど、私の中高時代は、みんな個性的で自分で勉強する人ばかりだったので自分を出して話し合う難しい話が多く、いじめにもならないし、共感とかもそんなになかったんじゃないかなあって。

 

あくまで、ブログを見たからではなく、自分の経験として。自分がミスったから仕方ないけれど、お花の学校でほとんどが主婦から就職を目指しているようなところに入ると、みんなそうですよねみたいなこととか、みんな家事大変ですよねとか専業主婦認められないですよねとか「ですよね」が多い。

 

なんだ、「ですよね」って、そうじゃないけど、と、周りを見ると、とても素直な顔でみんなうんうん頷いたり、時に涙を流したりして、場違いだと思ったわけです。

 

そういう人はそういう人で集まるのだけれど、そういう人たちの方が同化したいので「そうですよね」って言わせたいわけで。地域性もあるのだろうけれど。それで落ち込んでいた部分もあるけれどちょっとスッキリした感じ。

 

私は。子供も家庭も結局持てなかったし、今の子育て世代からするとどちらかというと「おばあちゃん」の域に入っているけれど。昔は井戸端会議という。これをやっている間に家事をすればいいじゃんみたいな、東京だったから短めだけれど、地方だと村八分にされるのかもしれない。その職業訓練も井戸端会議感がある。先生がそうだから仕方ない。

 

でも、別に、井戸端会議が苦手な人なんていくらでもいるし、その井戸端会議の中では「料理作るの大変で」とか「掃除が大変で」とかいうんだけれど。料理を作るのが楽しみな人だっていると思うし、ハンドメイドで子供のもの作るのが楽しい人だっているかもしれない。私も似たような感じで、形あるものは作れないけれど、曲やアレンジやボーカリゼーションを一人で考えたりするのが好きだから音楽をやっている。

 

それを、出来上がった姿をみて、私も賞賛されたい!みんな賞賛されたくてやっているんでしょ!!「ですよね」なんだよね。

 

賞賛を求める以外の目的でやっている人がいるわけがない、みたいな。

 

だから、インスタにあげたり、お仲間を作ることに喜びを感じていたりして、やっぱり「ですよね」だったりして、そちらの方が同化は求めてくるはず、賞賛してくれる人をとにかく増やすことが喜びだから、共感してくれないと困るし、井戸端会議に時間を長く割いてくれる人が必要なんだけれど。それって社会的な変化かなとも思ったり。

 

男女問わず、だけれど。「会社員です」という人がいるし、子供にも「会社員になってほしい」という人がいるけれど、それ、変だよねって実は思っている。

 

何の会社で、どんな仕事をして、その人がどういう人なのか、なので。

 

私があちこち仕事してきたからかもしれないけれど。

 

例えば、外資系電子部品メーカーの設計さんだったら、図面が読めて書けて部品を作る構造を知っている、英語で設計の打ち合わせができるとか、それが営業さんだと、ある程度部品の詳細はわかって売り込めるだけの交渉力、設計の人がやりたくないお金や取引の話。

 

食品メーカーの国際部営業さんなら、海外にどんなものが売れるかと貿易のルールを知って取引できる、これが開発部門だと化学とか食品に詳しくて成分の研究や商品開発ができたり、そこの人事なら、どんなスキルや勉強をしてきた人間が会社に貢献できるかを見極めるし、経理なら外貨取引や帳簿の付け方、決算の出し方まで、分業しているので、同じ会社員を長くやればやるほど、専門分野は変わってくる。

 

正直これって。会社員だろうが役員だろうが派遣だろうがバイトだろうが、経験は違ったりするのに何故か属性が「会社員」になることが不思議で仕方ない。けれど、会社員という言い方がものすごく増えている。

 

そして、食品の研究所とか部品の設計は理系、経理や人事は文系だったり(理系の人が入ることもあるけれど)、そういう得意分野が根本的に違ったりするのに、何故か最近それをすっ飛ばす。これが不思議。

 

それが、最初の方に書いた、主婦の井戸端会議の「ですよね」だったりするのかなって。

 

いや、べちゃべちゃ話さなくたって、子育てはできるはずなんです。お母さん同士が仲良くしないから子供がいじめられるなら、いじめるような教育をすることがそもそも悪いです。私の子供時代だと化石のようなものだけれど、基本クラスにいる子だから話すし、子供同士もお母さん同士も、気が合う人と必要なだけ話せばいいのにって。

 

その、家に帰ってお茶を飲んで一息つきたいとして。それはお茶がリラックスという習慣だろうし。お茶を入れて、好きなカップに注いで、お気に入りの場所に座って一息ついて、誰とも話さず落ち着きたい。

 

私が料理が好きなのがそんな時間だから、え、当たり前だよねって。

 

べちゃくちゃ喋っているよりエネルギーチャージできるし、愚痴とか悪口って体に悪いらしいよ。

 

その、お花の学校のいかにも校長先生が、今考えれば承認欲求のおばあさんで、何かとインスタあげたり、人にもインスタでお仲間つくれば商売になりますとか、その起業できそうな何かを目指して引っかかったのあるけれど。

 

インスタって「長い文章って面倒」とか「素敵なお花を飾ってる私素敵」「みんなもこうなりたいでしょ」「憧れるでしょ」って感じが出ていて。そういう人ばかりでインスタ始めたけれど疲れてXに戻ったんだよね。

 

Xも承認欲求の人は結構いるけれど。一部、屁理屈捏ねたり大喜利したりブラックジョークみたいな人が多くて、一人で落ち着いたりクスクス笑うタイプだったり、キラキラ私素敵、みてみて、ではなく、「こう考えた」みたいな感じの人が多い気がする。一人遊びしていて面白いのは個人的には石野卓球さんだったりする。

 

その、写真とか動画が流れてキラキラしていると、「何が言いたいの?」ってなってしまって。

 

それって個性なので「ですよね」じゃなくていいんだと思うのよね。そこが悩みどころだったので、読ませていただいたブログがありがたかったなって思う。

 

琵琶湖花火の詐欺事件というのがあって、どうやらインスタだったらしいのだけれど、その特別感、スペシャル感、VIP感とそれに出店する何かで興味を持った人が多いのかなって。

 

お花の学校もそうだけれど、結構ポンポン出来上がったものをたくさんお金払って買うとか、そこに大金使うことで達成される何かを感じることがあったり。

 

いや、地味に作り上げるとか、その作り上げている過程を楽しむとか、そういう人もいるんだよなって。作り上げているときは邪魔されたくないのであまり人に入ってほしくない。あと、ライブで人と演奏するにしても本当に信用している人と感覚的に作り上げたいため(スタジオの予算の関係もあるので)、あんまり安易にお金をかけて手っ取り早く手に入れることに意義を感じないんだよね。その楽器ができれば誰でもいいわけではなく、理解が近い人じゃないとストレスになってしまう。

 

個性の違いとして分かれていればそれでよろしい、なんだけれど、どうしても承認して欲しい人ほど入ってくるから、「入ってこないで」となるし、その性格の人ほど気を使うから「どう思われるかな」って思って言えなかったりする。

 

多様性と平等を何故か同時に語る人が多いし、それって何か女性の方が多い気がするから、窮屈だなあって思いますけれど。多様性と平等ってちゃんと考えれば共存しないものだし、棲み分ければいいから勝手に帰る人がいてもいいはずなんですけれどね。

 

密かに2人園芸部というのをやっているけれど、好きな時間に咲いた花や育っている植物の写真を送って「うちはこうです」ってやっているだけで、返信できない時は返信しないので、そのくらい時間が自由になった方がいいし、その、集まっておしゃべりというのは好きな人だけでやればいいと思うんですけれどね。

 

だから社会から離れて療養になっているのだと思いますが。社会に戻れるんだろうか。

雨が降ってくれて最近ありがたいのだけれど、植物が増えてしまい、水やりをお空が惜しみなくやってくれるということ。

 

豪雨が何回か、という感じだったけれど、これは非常にありがたい。おそらく明朝は眺めるだけでいいくらい降ってくれたはず。あまりお水が多いと根腐れを起こす。

 

働けなくて、最初は焦ったけれど、受け取ることに慣れないといけないと思えてきて。そうしたら、体のあちこちが痛いことがわかり、今までよくないと思っていた痛み止めを飲んで、まずは痛みを徹底的に取るという、そして休んで落ち着いた判断ができるようにすると心がけている。

 

ひさしぶりに読んだ本で。体の楽を取る、というのと、お気に入りの空間で過ごす、というのがあって。両方を今やっているなって。読んでやったというよりは、やっていて思いつきで本を読んだら答え合わせになった感じがする。

 

一回書いたんだけれど、恐ろしいことを書いてしまい急いで消して、冒頭の部分だけ使っている。

 

何でもかんでも諦めることが多くなると、精神的なエネルギーが枯渇してしまって、本当だったら慌てなければいけない命の部分が麻痺するということだと思う。

 

人が亡くなる事件を見て、ご本人たちは泣き叫びたい気持ちなのがわかる反面、戻ってこないことを諦めたり、どうにもならないことを諦めた自分がいて、何もなくてもまだなくなるものはあるんだなあとか。これを何か満たす気持ちにならないと、心は不健康なんだと思う。

 

ものすごく、焦る。生きていてどうにもならなくなったらどうしようとか、でも、とにかく心が不健康なので、少なくとも雇われて働くのは厳しいから、まず心を健康に、最低限、人の生命についての感情的なものを取り戻さないと。

 

自分で事業をするとかでも、もう少し心が健康にならないと難しい、だれかから助けてもらったり、消費に過剰な罪悪感を感じないように、必要なものは必要だから満足と思えないと、そこまで心を健康に戻さないといけない。

 

アパホテルの元谷芙美子社長のインタビューで、お金の使い方について

 

「お金は大事に使いましょう、命のお金です、よく考えて大事に使いましょう」

 

というのがあって。

 

命のお金なのだから。命が大事だと思えなければ、人のお命をいただいて生活しているので、自分の命がなんなのか、それを大事にできなければ、人の命のお金も大事にできないし、そこにいいお金は入ってこない。

 

有意義な、人に返せるいい自分になるために使うお金、それを稼ぐには自分の命を大事にできる私でなければ、稼ごうにも変な話に引っかかる。だから、心を健康にしないと、長年キャリーオーバーしすぎていたし、心がけが悪かったのだと。

 

自分を責めるというよりは、病んだお金だったから、それを健康にすればいいという気持ち。

 

血液も、お金も、きれいで健全な状態で回せば、きっとよくなる。

 

何か道が見つかれば、すぐにでも動きたいとは思っている。ただ、雇われるというのは雇う人がいることだから、どんなに焦ってたくさん書類をだしたところで、明日すぐ動くものでもない。返事を送りますといってそのままになって忘れられてしまったと言うのも何度もあるので。

 

そうやって、動かしても動かないときは、準備と健康になるためと思って、妙に罪悪感を持たずに、心身ともに回復するような行動をする。ダメで命が尽きても後悔しないような状態なのだから、できれば回復するように、生活してみる。

 

体の楽をとるように。

昼間のを書いて少し休んだら、ずいぶん調子が良くなり。

 

あの、いつからかわからないけれど体の痛みと体力の低下。痛めつけるように頑張ってきたのと、ここ数週間は特に食事が足りていなかった。

 

変な話だけれど、生きる方向にシフトしたと言うか、弱った蝶が一緒に過ごしてくれたことで感情の投影ができたというか。神様だったのかなと思うけれど、一方投影と考えれば神様は自分の中にいるというのもまた真なのだと思う。

 

で、その前の変化がなければ蝶なんか連れて帰らなかったかもしれないという。私のことを大事に思ってくれる人がいて、多分今の周りの人はみんな思ってくれているけれど、その人は天然というか。心配だからと自分のペースで連絡をくれたりして、ひどいアレルギーの時。調子はどう?良くなった?と心配してもらった。

 

ひどい雨が降る前にコンビニで最低限を買ってきたけれど、ずっと気になっていた和菓子屋さんがあって豆大福を買って帰った。こういう店構えのお店は、一つでもイヤな顔をしないで売ってくれることはわかっていたので。和菓子屋さんらしい和菓子屋さんで持ち帰りながら、これ、おいしかったら大事な人と一緒に食べたいなって、袋をワクワクして持ちながら家に帰った。

 

先ほど完食したけれどやはり美味しかった。

 

一緒に食べておいしいねって笑える、元気で笑顔でいられる、当たり前なようでここが基本だったりして。それがお金の価値にのまれてしまうと病気になってしまう。それだったんだと思う。

 

生きる方向にシフトしてないからどんどん鬱が悪くなって感情も不安定になっていた。いつも消えてしまいたいって思っていて、それは自分のせいで、そう言うこと思ってはいけない、思わないようにがんばらないといけないって思っていた。自己責任論で甘えるなと言う人も結構いて、そう言う人ほど距離を無視して入ってきていた。ここで書いたモラ男とかまさにそのタイプ。

 

金銭的な部分が強くなると、一緒に食べて楽しいとか、好きなものを選ぶとか、そういう形にならない部分が見えなくなってしまって。毎日食べるものに困らず、屋根のあるところで寝られるんだから親に感謝しないとと言う感じになっていた。特にお金の計算ができると頭がいいと思ってしまうのか、自分の方が上だから言うこと聞きなさいと言う感じの話し方をされる。

 

でもね。一緒に食べておいしいとか、喜んでくれてよかったとか、元気になってねとかまた会いたいねって、そう言う感情こそが生きると言うことなんだよって。取り戻せた気がする。

 

満たされすぎるとわからなくなるというのか。それが母方の家系だったと思う。年上の人からやいやい言われることが多かったけれど、親が戦中生まれか戦後生まれかで違うのかなと。病んでいる人が多いのはそう言うことかもしれなくて。お金の価値にとらわれすぎて命さえもお金に換算してしまうようなことになると、本来の魂が迷路に入って病気になる。

 

本当は。子供を産む母親の方が、一緒にいて嬉しいというのを表現すると思うのだけれど、絶対ではないし、女性の方が全て純粋で優しいなら嫁姑問題なんかもないはずで、言ってみれば母といて姑と暮らしているような感覚だった。過去、姑という人がいたのだけれど、こちらの方が実は普通の人だったと思っている。

 

母を育てた方の祖父母の関係で母方が何かおかしいような気がするけれど、私が運が良かったと思うのは、おそらくお金の問題だったんだろうけれど祖母の妹であるおばあちゃんと暮らせたことで。自分でもバカだしと言っていたし周りからも散々かわいいだけのバカといわれていたけれど、バカに見えたのは、その一緒にいてただ楽しいとか、子供かわいい、猫かわいいとか、そういう感じの人だったからだと思う。あと時代的に子供を産んでいない人へのひどい風当たりだったり。譲る人がいないのだからうちの子にということだったんじゃないかなって、わかる人がこの世にいないから憶測でしかないけれど、あれほどおかしな状況で成立してしまったのは、偶然ではなかったと思っている。

 

その、偏見とか風当たりのようなものって、本質的な「一緒にいてくれてありがとう」とかそういうものを見失ってしまうという感じはする。

 

私自身は、お酒はもう飲みたくないくらいになっているけれど、お酒を飲んでいた頃。母が「どうして外で友達とお酒を飲まないといけないのか、お酒も食事も家でできるのだから学校なり仕事なり終わったら誰とも付き合わずに家に帰ってきなさい」という人で。帰ってきたら外出するな、食事と寝るところなら足りているのだからと、何度も怒られていたけれど。そうじゃないんだよね、お酒そのもの、食事そのものではないのよ、友人だったり職場の人と一緒に食事やお酒を楽しんで、「おいしいね」「楽しいね」と発展的な話をできるからそういう場があるのであって。

 

会食とか友達との食事ってそういうものなのだよという話をされて、ああ、そうなのかと理解できる場があれば良かったんだけれど、何か指摘されると叫んでしまうような人だったので、要は生きることの意義を見失うような環境だったと思う。そうなると自分がいなくなればいいような思考回路がプログラムされてしまう。母がどうこうではなく、私が生きる方にシフトできないと本当にもういい加減、体も心も辛いし社会に出られない状況になっているという問題なだけ。

 

わかっただけでは治らないので、少しずつ休みながら、回復できればなと。社会復帰できればと思う。

 

 

お大福の話だけれど、こういうちょっといいお店というのが。昔は高いと感じていたのだろうけれど、最近の物価高でいいお店の方が割安に感じることが増えてきて。新規出店のお店というのは客単価をかなり高めに設定しているように思うけれど。昔からのお店というのは昔からのやり方で、材料費とか光熱費が上がった分だけを少しずつ乗せているだけのような。家族がたくさんいたり、和菓子屋さんだったらお稽古事のお茶菓子なんて人は、定期的にたくさん買うだろうけれど、その分お得意さんもたくさんいるのだろうから。

 

たまに、の、贅沢でお大福を一つ買うくらいなら、というか普通に気軽なお値段だとは思う。

 

お金に文句を言われる何かで暗算は早くなるし、悩むから言葉の能力は上がるし、いろいろ便利なので苦しんだのも悪くないとは思うけれど、自分が生きる方にシフトしないと生きている方が辛いということになるので。こういうことに無縁な人が聞くとそんなことがあるはずがないとか必死に否定されそうだけれど、誰かにわかって欲しいわけではなく、私が体調を戻して満足に生活したいだけ。

 

誰かが首を突っ込んできて否定してくるのが怖いということは、それだけ突っ込んでくる人が多かった、なんとかして私の考えを変えようとしてくる人が多かったということでもあるので、怖いという感覚も大事に。

 

何か自分が幸せになろうというアクションをしようという時に、お母さんが可哀想、お母さんのためになんとかしてあげなさい、自分のことばかりじゃダメって、懇々と説教されることが多かった。

 

自分で理解するために書いている。

 

 

昨日のを書いて、ああ、少し休んでいいやって。

 

お出かけしたら、辛くなるような人間関係が全くなくて楽しんで帰ってきた。

 

多分、今日明日は雨が降るから。おうちステイです。

 

蝶を拾ったことでたくさんわかって。この子は私のことが嫌いではない、むしろ気に入ってくれているとか。

 

埋葬してみて、やはりベシャって道端で車に轢かれてその亡骸を汚いもののように見られるよりは、お花の下に丁寧に埋葬できてよかったとか。さっき、元気なアゲハ蝶がきてくれてひらひらしていたらそんなふうに思えた。

 

元気で長生きして欲しい。

 

昆虫に対してもそう思ってしまう私は少し変わっているかもしれないけれど、人間に対して「元気で長生きして欲しい」「幸せでいて欲しい」と思うのは当然のこと。

 

それが、何か欠損していたままで頑張ろうとしていたから、宇宙から何度も何度も強制終了がかかったのかなとか。

 

こういうとスピ的な話になってしまうけれど、現実的に、「みんなが幸せに健康に長生きすることを喜ぶ」スタンスで仕事をしないと、ただお金のためであれば、それは何か表に出てしまうようなところなのだと思う。雇われる以上は面接に受からないと働けない。一人で事業をするにしてもお客さんがいないと成り立たない。相手が不幸になって自分は得をするということはうまく回らないのだということを当然のように理解できていなければ、何度でも失業するし、ついにはやりたいことまで強制終了になってしまって気づく。

 

母親を絶対悪く言ってはいけない。

 

特に最近の傾向では少子化もあってそんな感じだったけれど。

 

現実的に。その、死んでくれればお金が入るような考えはダメだし、そんなに悪気はないとしても、本当は娘であればそれはダメだよと泣き狂ってでも教えないといけなかったと思うのは反省。ただ、自分は絶対正しいと思う人だし兄も私の味方に回るというよりは叱る立場になれてしまった人なので、意識的に離れて、その考えとは違う生き方をするのだと決めないといけなかったということだ。

 

正直なところ。父がそれに近いことを言おうとしていたところはある。それで指摘して死んでからも恨まれているところがある。お金お金といってはいけないよって。でも、母が絶対的に「私はお金については得意」としていたし、父が譲ってしまう人だったのでもし生きていてもうまくは行かなかっただろうと。父も精神的に病気になっていたかもしれない。

 

母が自分がお金のことは得意と思い込んでしまったのは、幼少期になにかお小遣い計算で褒められたからというのを一生持っていたからだと思う。状況的に、可哀想と言われて育ったことで可哀想な私を一生続けていくのだと思う。

 

そこが強かったので。死んだら遺産が入るとか、生命保険に入って入院すれば1日いくら出るとか、そういうことをウキウキしながら話す人だったりした。私としては入院したくなかったので、それでいくら貰っても仕事やライブを休んだらイヤだなって思っていたけれど、そういうの「子供だから現実的なことわからないのよ」「いうこと聞きなさい」という感じだった。

 

つまり、病気とか死がお金になるというような何か変な考えのまま、ちょっと指摘されても「私はひどいこといわれた」と思ってしまう人だった。

 

私自身も、結構長いことお金がないとというような何かがあった。それで人から見放されたこともある。

 

だから私はみんなから嫌われているという潜在意識もあったわけで。

 

 

2日間、蝶の心配をする中で。最初は外の空気のほうがいいかなとか、私が近くにいないほうが安心するかなとか。でも心配で何度か様子を見に行った、綺麗なお花のそばならお花の蜜が吸えるのではないかとか、砂糖水を近くにおけば少しは栄養補給できるのではないかとか。

 

でももはや、口を延ばすこともなかった。それでいて、生きているという感じがした。

 

大雨の予報がでて、羽が濡れたらアウトなので致し方なく部屋に入れた。その時もどこかにつかまっていたほうが安心かなと布やティッシュの上に乗せたりしたけれど、やはり私の手や膝につかまっていた。誰かいたほうがいい感覚なのかなって。

 

何も口にできないと羽がボロボロになってくるんだなっていうのは初めて知った。一緒に寝て、起きたらベッドの下にいた。ベッドの反対側だったから、何かで自分で羽ばたいて落ちたんだろうなって。もうダメかと思ったけれど、やはりつかまる力は残っていたので命があると思った。

 

息絶えてからも。本当にもう命がないのか昆虫だからわからず、もし生きていて土に埋めたら辛かろうと思って、確実にもうお空に召されたと思った時点で土に戻した。いい夢を見ていたらいいなと思う。

 

そうやって、元気で生きられたほうが幸せとか、誰かにつかまっていられたほうが幸せとか、誰かに回復を願ってもらえたほうが幸せとか、そういうことを2日間で感じ取ることができた。

 

 

そうしたら、自分が何度か人の死を受け入れなければいけなくて、それに対してお金の話が出てしまったことが頭がおかしくなるほど苦しかったということが本当にわかって。生きている間、たとえ辛くても、誰かのあたたかさに触れていたほうがいいし、身内の死など葬式が終わったところでそんなに簡単に割り切れるものでなくてよかったのだと、長年苦しんできたことが救われたような気がする。

 

本当に。母が悪いとかではなく。実感がないとわからないのだと思う。そしてお金が絡んでしまったりその後の人生でお金をひとりで動かせると思ってしまうと、相手の感情がわからなくなってしまう、完璧でないのが人間だから。

 

ただ、母と私は別の人間なので。私が病気でも母は何が苦しいかわからないし、病院で何もしないでお金もらえるんだからこれ以上のことないじゃないって思ってしまう人なので。自分の身を守るために離れていいというのと。そのお金の執着から「なんの感情も沸かない」ということでいいような気がしてきた。

 

変に。普通の母親のように情をかけてしまうと。やはり命よりお金というところで私の心が病んでいってしまうのだと。

 

 

最近のニュースの界隈のコメントで。「女性性善説なのではないか」という、それが行きすぎているというのがあって非常に納得したけれど。女性に生まれたからとか、母親になったからということで、女神のような慈愛が全ての人にあるということではないのだということ。女性だから男性だからではなく、欲深い人もいれば未熟な人も、愛情深い人もいる。子供がいてもいなくても周りの幸せを考えられる人もいる。

 

とにかく。健康で幸せで生きていることに意義を感じるという状態にならないと。

 

そんな当たり前の頃が揺らいでいたから極限状態だったのだと思う。

 

 

 

こういうことを言うと、また「本心ではお母さんはこう考えていた」とか「お母さんは素直に言えなかっただけで愛している」とか、どうしても食い込んででも説得しようと言う人が出てくるのだけれど、今は、私自身を大事に優先にと思わせてください。

 

その、派生した周りのことを考えられるようになるのはもう少し先で、少し時間がかかると思います。何年単位でかかるかもしれないので、現実的に生活や健康、仕事のことを具体的になんとかしてくれる方法を持っている人以外は、お気持ちだけで何か私を説得するようなことは言わないでいただきたい。仕事も、目先の仕事ではなく、ある程度のスパンを考えたものでないと、現実的に生活できません。

 

そうして回復したほうが、いつか誰かのためになれると思うので。

一連のさなぎとか脱皮の話ではなく。

 

大きい道路でアゲハチョウが倒れていて。ぐしゃって潰れるのが痛いだろうと思ったら。拾って近くの街路樹に置いて行こうかと思ったけれど、自立できそうになかったので連れて帰ってきた。ベランダで飛び立てるかと思ったけれどずっと歩き回っていて、雨が降りそうになったので一晩一緒に過ごし、息を引き取った。明日どこかに埋めようと思う。命が尽きた時、綺麗な植物の下に埋めることにしている。

 

蝶と一晩過ごしながら。

 

自分と一緒にいるのは疲れるだろうという私自身の意識があることに気がついた。

 

私といるより、外にいる方が安心だろうと。でも、手放そうとしたら無理な羽をそのときだけ羽ばたいて私の膝に乗ってくるので。

 

もしかしたら、直感的に人間といた方が安全と感じたのか。

 

脳が小さいから論理的に考えないだろうけれど。昆虫も最低限身を守る直感があるように思う。

 

みんな、私のこと嫌いだろうな。

 

いつからかずっとそんなふうに考えていて。みんな無理して一緒にいてくれているって思ってたことに気がついた。自分としては、無意識なんだけれど。

 

アゲハ蝶は、最後まで一緒にいてくれたので「うちに来てくれてありがとう」って何度も言った。

 

拾った時点でもうたくさん飛び回った後かもとか、いい方に考えるようにした。

 

 

そんなで、今日お出かけして。

 

出かけるの、怖かったんだよね。人に会うのが怖くて最近あまり家から出られなかった。役所とかに行ってもイマイチ話が通じない感じがあったりして。

 

でも、話して、ああ、別にみんな私のこと嫌いなわけでもないよねって。何を思い込んでいたのかわからないけれど。全てを信じることはできないけれど。信頼している人ばかりというのと、みんな私より大人な人ばかりなので。

 

苦しめていたのは、私の記憶と経験だったりする。急に変えるのは難しいから少しずつ。

 

 

 

あと、蝶のことでもう一つ。

 

あのまま、車に轢かれた方がこの子にとっては楽だったかなとか、命を繋いでしまったことで苦しめてしまったのではないかとか悩んで泣いたりした。

 

これは、確実におばあちゃんのことだったなって。

 

おばあちゃんと住んでいた時、お風呂で脳溢血を起こしてしまい、私が気づいてそこから何年も施設に入って、何もわからない状態で生かしてしまって亡くなった。

 

親戚からも、あのとき見つけるのがもう少し遅かったら死んでいたのにとか、母も施設の費用が大変とか、自分が悪いことをしたのかなってずっと悩んでいた。人の命を繋いでしまったことの深い後悔が自分を苦しめていたけれど、死にそうなら助けるのが普通だろうと、そう考える人も多いから。そんなに悪いことをしたと思わなくていいと。

 

大学でてすぐくらいだったから実家にいて、お金が大変なんだと思って、自分が家計に負担をかけてしまったのかなと思っていたけれど。最近になってわかったことだけれど、金融商品なんかに当時からいろいろ投資していたらしく。おそらくだけれど、お金の感覚がちょっと変わった人、浪費癖でなくてよかったけれど、逆に私自身もそこまで無理する必要もないくらいだっただろうと。

 

死んでくれた方がありがたいのにというような、普通はあり得ないことで罪悪感を感じていたので。それ、20代から背負ったら、それは気が狂うよねって自分に対して、無理してきたと思えたりした。おばさんが、やはり亡くなった妹に対して何十年も恨み続けているように、戦後すぐは家族の命の重みが違ったのか、母方の親族がおかしいのかはよくわからないけれど。

 

それは。心の奥底で思うのは仕方がないけれど、表向きで死んだ方が良かったというような話は、それに申し訳ないと思っていたから私自身も自分が生きているのが迷惑みたいに思っていたのではないかなって。

 

 

アゲハ蝶が頑張って生きている間に、泣きながら、この子に奇跡が起きて、明日の朝には飛び回っていないかなって願った。

 

その感覚が、普通でいい。

 

誰かの幸せを、誰かが元気でいられるのを、祈って奇跡を期待する、私の中でその感情が葛藤していたけれど、命よりお金とならなくて良かったと思う。それって、おそらくはそのおばあちゃんと偶然暮らせたから子供の時から持っていた感覚だと思う。

 

あと、潰れて痛い思いをしたら辛いだろうという感覚もあってよかった。

 

 

弱ったアゲハ蝶と過ごしたのは二日間だけれど、たくさんたくさん、この子から教えてもらった。みかんの木か、白い薔薇か、どちらかの木の下に収めようと思っているけれど、どちらにしても木が成長するたびに思い出せたらいいなと思う。

 

ちょっと、世の中に戻るには、変えなければいけない潜在意識が大きすぎるかもしれないなって学んだりした。

 

今まで自分が、よく頑張ってきたなって思います。