子供の頃、何かをさぼりたくてお腹が痛くなったことがある。いや、「痛くなったことにした」ことがある。
子供心に、ただ痛いと言っても見破られるだろうと思った。で、決してそれをさぼりたいわけではないのだと楽しみにしてる風を見せつつ、ちょいちょい腹痛な顔をする。更にその素振りは、見たいテレビ番組中には起こさないようにし、好きなごはんのメニューは食べられるくらいで、けども周りにいるスピーカータイプの友達に気付かれる程度には目立たなくてはならない。
そこで「朝起きた時にちょっと痛かったけど、気のせいかと思ってごはんは食べちゃった。テレビを見終わったら少し痛くなったんだけど、さぼりたくない楽しみだから頑張って出かけた。でも直前になって我慢できなくなって、本当に残念だけど休む」とかいうストーリーができあがるわけである。
なんて小ずるく小賢しい可愛げのないクソガキであろうか。今の自分がこんな子供に出会ったら、ブッ叩いているところである。
まあ、そういう言い訳を聞いていた大人の表情を思い出す限り、バレバレだったことは間違いないだろうが……。
小説とかシナリオで物語を創り始めてから、そんな過去の汚点をよく思い出す。
何せ物語というのは嘘っぱちである。ノンフィクションでない限りは全くのデタラメ、想像、妄想である。
けれどその嘘っぱちに説得力を持たせるためには、周囲を「本物」で固めなければならない。これは資料なり取材なりで何とかなる。
が、嘘であるがゆえに招いた破綻はそうはいかない。ああでもない、こうでもない、と辻褄を合わせるために四苦八苦する。あっちを立てればこっちがダメ、こっちを優先すれば気に入ったエピソードを捨てなくてはならない、などの調整に、めちゃくちゃ時間と労力がかかるのだ。
自分が修行中の「もどき」であるから未熟なのかと思いきや、本職作家の方々のエッセイなどにもそういった発言が出てくる。ので、創作につきものな苦労だというわけだ。
あの頃の腹痛のこすい言い訳も、どうにかこうにか辻褄を合わせた創作の一つだった。あんな子供の頃からそんなことだけは得意(?)だった。けれど未だ物書きにはなれていない。そういうイヤらしい小賢しさだけは持ったまま、何の花にも実にも化けていないわけで、……子供ならまだしも、大人としてどうかと。嘘つきは小説家の始まりだったと思いたい……。
このエッセイブログも、構成の勉強のために始めてちょうど1年が経った(→「25年の片想い」)。というわけで、いつかその小賢しさが花開く、というストーリーを妄想し、いっそう辻褄合わせに励む毎日である。
(了)
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