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死んだらハワイのお墓に入りたい方


大野純司のブログ-ホノルルの墓地 大野純司のブログ

ある、日本にお住みのご老人から、ハワイでお墓を購入したいというご相談がありました。死んだら、自分の好きなハワイに骨を埋めたいとおっしゃるのです。米国は、普通土葬ですが、ハワイは日本人も多いので、火葬にする人もいらっしゃいます。土葬の場合は、棺桶を埋めることができるだけの広さの墓地を一人分購入する必要がありますが、火葬の場合だと、壁龕、つまり骨つぼをしまう棚を買うだけでことが足ります。これは英語でニッチと言って、隙間市場のニッチと同じです。骨つぼを入れる隙間という意味でしょうね。

いろいろ調べたところ、夫婦で入れるように、二人分になっているものがほとんどで、通常40万円くらいですが、半分以下のものが見つかりました。奥の壁の高いところにあるので、安いのだそうです。多くの人がしょっちゅうお墓参りに来てくれるわけでもありませんから、安いものでかまわないということで、その方は迷わずそれを購入なさいました。ホノルルの中心街からそう遠くない便利な場所です。

その方の奥さんは、足が弱いということで残念ながら来ることはできませんでした。最初はハワイには興味はないとおっしゃっていたそうですが、ニッチが二人分なのでご主人が説得したところ、写真などを見て気に入られて、自分も一緒にそこに埋葬してもらうことにしたそうです。お二人にもしものことがあった場合は、私に連絡が来ることになっています。

今までにも、死んだらハワイに埋めてもらいたいという人には何人か出会ったことがありましたが、実際にその準備をなされた方はこのご夫婦が初めてでした。私の親も日本に住んでおり、二人とも80代ですが、今度里帰りしたときには、相談してみようかと思っています。日本で埋めてもらうよりは、たぶん安いでしょう。皆さんも、ご興味のある方は、遠慮なくご連絡ください。喜んでお手伝いさせていただきます。

憎しみと赦し

前回は、感情と愛について書きましたが、今回は、憎しみと赦しです。この二つの相互関係はよく似ています。憎しみは、感情のひとつです。しかし、愛と赦しはどこか似ているところがあるのでしょうか。私は、大きな共通点があると思います。


主の祈りの中に、「われらに罪を犯すものを、われらが赦すごとく、われらの罪をも赦し給え」と言う一節があります。聖書は、私たちが人を赦すことをしなければ、私たちも赦されないと教えています。もし、赦しが感情的なものであれば、赦してもよいという気持ちにならなければ赦すことはできません。しかし、もしこれが精神的な問題であれば、感情を乗り越えて、意志で赦すことができるということになります。しかし、そんなことが可能なのでしょうか。


そもそも、人に何かを命じるときは、命じた側は、命令に従うことが可能であると考えているから命じるのです。あなたが恨んでいる人を好きになりなさいと命じても、それは不可能です。前回の話ではありませんが、嫌いな食べ物を好きになりなさいと言っても、それは無理です。しかし、聖書が人を赦しなさいと言っている以上、それが可能であると言う前提の下にそう命じているはずです。


ある人が、赦すということは、その人に罰を与えたり、復讐をしたり、その人を避けたりしないで、これからできるだけ仲良くする決心をすることだと言いました。もちろん、多くの場合、罰を与えたくても与えられないことが多いのですが、その人の悪口を言うことも、罰のひとつでしょう。悪口を言うことによって、その人のことを悪く思う人を一人でも増やしたいという気持ちは、その人を罰したい、あるいは復讐したいという気持ちと、本質的に同じです。その人を恨めしく思う気持ちはなくならないとしても、憎み続けるのではなく、そのような人でも赦そうという肯定的な考えを持つことは、感情の働きではなく、意志から始まるものです。単なる感情ではないと言うことが、愛との共通点です。


でも、なぜ赦す必要があるのかと思われる方も多いでしょう。赦さなければならない理由は、二つあります。ひとつは、神があなたを赦されるからです。もちろん、罪にも程度があって、誰でも犯しているような日常的なものもあれば、刑務所に入らなければならないような重大なものまで、いろいろあります。しかし、自分の犯した罪は小さいから赦されるべきだが、この人が犯した罪は大きいので、赦されるべきではないという理論は成り立ちません。何が大きな罪で、何が犯してもよい小さな罪だということを、いったい誰が決めるのでしょうか。そもそも、小さな罪だから犯してもよいなどということが言えるのでしょうか。自分の罪が赦されるのですから、人の罪も赦すべきです。


もうひとつの理由は、赦しは、基本的に自分の問題であるということです。私たちは、この人は赦されるべきではないと感じますが、あなたがその人を赦すということと、その人が赦されるということとは、別問題です。あなたが人を赦すのは、自分自身の癒しのためです。人を恨み続けても、傷つくのは自分です。あなたを傷つけた人の支配下に居続けることはよくありません。


また、あなたを傷付けた人は、あなたに赦しを請いで初めて赦されるのであって、あなたが自分の心の中でその人を赦したからと言って、それでその人が実際に赦されるわけではありません。その人があなたに赦されるかどうかは、その人があなたに赦しを請うかどうかによって決まりますし、その人が神に赦されるかどうかは、その人が神に赦しを請うかどうかで決まるのです。


愛と同じように、自分が癒され、成熟するにしたがって、赦す意志だけでなく、感情もついてくるようになります。その人に対する恨み、苦味、敵意、怒り、憎しみ、恐れなどのネガティブな感情の代わりに、共感、同情、思いやり、愛などのポジティブな感情を持って、気持ちが変わるのです。そうなれば理想的ですが、ならなくても赦すことは可能なのです。


蛇足かもしれませんが、罰と弁償とは別です。金銭的な損害があった場合は、赦し、赦されても、弁償は、能力に応じてするべきです。しかし、多額の懲罰的損害賠償金(実際の損害以上に懲罰として課す賠償金)を取り立てることは、赦したことにはならないでしょう。犯罪の場合、法的手続きに従って罰を受けることは、基本的に正当だと思います。日本の場合は知りませんが、米国では、刑事裁判の原告は政府、つまり検察であり、被害者は証人の立場でしかありません。つまり、訴えているのは自分ではなく、政府なのです。通常、裁判官が刑を言い渡す前に、被害者が発言する機会が与えられますので、自分が被告人を赦すこと、そして被告があなたに謝罪して赦しを求めた場合は、それも裁判官に伝えて、判決の参考にしてもらうのがよいと思います。

愛と感情の違いは何か

新婚時代の激しい恋愛感情が長く続かないことは誰でも知っています。しかし、それが無くなったからと言って、本当の愛が無くなったわけではないことも分かっています。しかし、本当の愛と感情の違いをはっきりと理解している人は少ないようです。

どちらかと言うと、女性はこの二つが一致していることが多く、男性はちぐはぐでかけ離れていることが多くあります。たとえば、幸せな結婚をしている人が、容姿端麗な異性に出会ったとしましょう。女性の場合は、いくらハンサムな男性に会ったとしても、それだけで強くその人にひかれると言うことはあまりありませんが、男性は、いくら妻や恋人を愛していても、魅力的な人が現れれば、必ずと言って良いほど誘惑を感じます。簡単に言えば、レストランでステーキを注文しても、隣の人がおいしそうなロブスターを食べているのを見たら、そちらも食べたくなるわけです。それを止めるのは、もちろん妻への愛です。しかし、感情はロブスターのほうに走っているのですから、そちらへ走らないように止めるのは、感情ではなく、精神、あるいは意志です。

ちょっと違った例を使って見てみましょう。人間には肉体と精神があるわけですが、精神と感情の関係は、肉体と五感の関係のようなものです。肩をもんでもらえば気持ちが良いし、つねられると痛いのは当たり前です。これらの五感は、周囲からの刺激に対する反応です。感情も同じです。褒められると嬉しいし、叱られると悲しくなります。これも、反応です。この反応を自分で変えることはできません。納豆の嫌いな人に好きになれと言っても無理なのと同じです。

ところで、肉体は、心地良くないことでも我慢しなければならないことがよくあります。病気になれば、苦い薬を飲んだり、痛い注射をしたりしなければなりません。ひどくなると、手術をしなければならないこともあります。おおむね、眠くなれば寝、お腹が減れば食べ、のどが乾けば水分を取り、肉体の自然の要求に応えていて問題ないのですが、いつもそうしてばかりではいけません。精神力で、したくないことをしなければならないことは多いのです。

感情も同じです。嬉しいときは喜び、悲しいときは泣いて問題ないのですが、異性に誘惑される度になびいていたのでは、結婚は成り立ちません。健康のためにはおいしそうなステーキを食べないで我慢しなければならないことがあるのと同じように、愛する人のためには、ほかの異性と自分の間に明確な線を引かなければなりません。それは、自分の感情が引きたいと思うから引くのではなく、感情に任せておいたらどうなるか分からないから引くのです。

でも、まったく魅力を感じなくなってしまった相手のためにそんなに努力をしても、意味はないのではないかと思うかもしれません。しかし、そう言う人に逆にお聞きしたいのですが、本当にその努力を今までしてきたのでしょうか。気の向くままに振舞って、お互いの間がうまく行かなくなり、恋愛感情が無くなって、愛がなくなったから別れるというのでは、動物とそれほど異なりません。もちろん、まったく気ままな生活をしている人はほとんどいないでしょうが、私たちの多くは、相手を愛する努力が欠けていると思うのです。

もうひとつ大切なことがあります。感情と本当の愛の温度差は、成熟した人ほど少ないのです。従ってはいけない感情に負けないで、いつも正しい決断をしていると、だんだんと、自分の感情がついて来るようになります。それは、正しい決断がもたらす良い結果を味わっているからです。いつも、奥さんや夫のために、自分の良くない感情を押させて、取るべき行動を取っていると、二人の仲も良くなり、当然、お互いに対する自然な感情も養われてくるのです。

良くない感情は、無視することです。人間ですから、特定の刺激があれば、特定の感情を抱くのは当たり前なのです。感情に振り回される生活はいけません。他の人に魅力を感じることがあっても、感情が勝手に反応をしているだけだと、開き直ってください。放っておけば、そのうちそのような感情も落ち着いてきます。その感情をなくそうとして努力すると、返ってその虜になるだけです。できることは無視することだけです。また、誘惑を感じたからといって自分を責めることはありません。誰でも誘惑はあるのです。それに負けなければ良いのです。

最初に述べましたが、特に男性は愛と感情に差があります。結婚した当時のような激しい恋愛感情がなくなっても、奥さんに対する演出は、忘れてはいけません。演出だと分かっていても、女性は、その気遣いを喜んでくれるものです。感情がなくなったからといって、愛がなくなったなどと考えてはいけません。愛がなくなるかどうかは、自分の思い通りにならない感情次第ではなく、自分の思い通りになるあなたの意志次第なのです。