成功した二人の元ホームレス
最近、元ホームレスという人に二人会いました。二人とも今は成功しており、たまたまですが、二人とも不動産の仕事をしています。
私たちは、今ホームレスシェルターとして貸している家を売って、次に何を買うか、そろそろ考え始めたところです。その辺の事情はまたほかのブログで書くとして、ある分譲マンションのオープンハウスを見に行って、そのユニットを売っていた不動産屋さんのおじさんに会いました。このマンションはAirB&Bにも使えるというので、ホノルルにホームレスが増えた一つの理由はAirB&Bのせいだという人もいるが、どう思うかという話になりました。つまり、AirB&Bがなければ、それらの家はハワイ住民に貸すことになり、住宅難が緩和され、供給が増えれば当然家賃も下がるというわけです。
ところが彼は、絶対にそんなことはないと言い切るのです。ずいぶん独断的な人だなと思ったら、実は自分もホームレスだったというのです。確かに、ホームレスの中には、精神病の人もいて、そういう人は助けが必要だが、自分のようにただ怠けていた人間は、援助をする代償として強制的にでも働かせるべきだというのです。何でも無料で与えるのは、彼らの怠けた生活態度を可能にしているだけで、かえって良くないというのです。
このような意見は私もよく聞きますし、わからなくもないのですが、こういう発言をすると、思いやりのない人だと思われますので、特に政治家はそのような発言は避けます。でも彼は自分がホームレスだったので、遠慮なくそういう言えるし、自分のことなので説得力があります。彼はその中から立ち直って不動産の仕事をはじめ、何人もの恵まれない子供たちを養子にし、今は、低所得者向けのアパートの開発もしているということでした。
アメリカにセクション8という低所得者向けのプログラムがあり、国が家賃を援助してくれます。これに認定された人は、決められた期間内に住むアパートを探さなければなりません。オーナーや管理士は、家賃の未回収損がないので、それは良いのですが、規制や報告がものすごく厳しくて、ほとんどのアパートはセクション8のテナントを受け入れません。せっかく援助を受ける資格をもらっても、結局借りれるアパートが見つからなくて、そのまま資格を失ってしまう人が多くいます。
日本でも去年10月にいわゆる住宅セイフティーネット法が改正され、この援助を受ける資格のある入居者を受け入れるアパートを全国的に募集しているそうですが、25平米以上という要件がネックになって、入れるアパートがほとんどないそうです。古くて入居率の低い物件は小さな部屋が多く、せっかく法改正されても、適用されないことが多いそうです。米国と同じで、手続きの煩雑さもこの法律が期待されたほどのインパクトを与えていない理由のようです。
話をハワイに戻しますが、彼のようにセクション8についてよく知っている人は、規制を満たすために何をしなければいけないか、またどのような報告をしなければいけないかがわかっていますので、いったん慣れてしまうとそれほど苦になりません。彼とは、将来、何か一緒に仕事ができるといいねと言って、別れました。
もう一人は、たまたま行ったセミナーの講師でした。彼は、カリフォルニア州の日系アメリカ人で、お父さんから肉体的にも精神的にもひどい虐待を受けたそうです。2階の窓から放り出されたこともあるそうで、その時に脱臼した右肩が、今でも完全には癒えてないそうです。そんな中、彼は17歳で家を出てビーチで寝るようになり、高校を中退しました。
ある日、アルバイトを見つけようと思って求職の申込書を書こうとしたところ、その半分くらいが読めなくて、ハッとしました。このままではいけないと思った彼は、知り合った牧師さんなどの助けを受けながら、人生をやり直したそうです。彼はいくつかのことを心に決めて、実行してきました。まず、何事も不平を言わないで感謝すること。特に自己憐憫は絶対に避けると心に誓ったそうです。彼のような環境に育ったとしても、彼はそれを言い訳にはしませんでした。次に、自分を過小評価しないこと。謙遜であることは大切ですが、自分には何もできないと考えてはいけません。
そしてもう一つは、楽をしないことです。彼は、朝4時に起きて、聖書を読んでお祈りをし、一日の目標を立てて、ジムに行きます。そして、午後4時には仕事を終え、後は家族のための時間です。彼が言うには、そのどれを取ってみても、そんなに難しいことではないというのです。確かに、朝4時に起きるのはちょっと大変ですが、血を流すような努力が必要なものではありません。それらは特に難しいことではないが、それでも、それらをしないという選択の方がずっと楽だ、と彼は言います。つまり、楽な方を選ばないで、これらの小さなことを積み重ねていけば、人生が変わるというのです。
彼は、このようにして、高校中退でありながら、今は数百人の社員を持つ不動産会社を経営しているそうです。確かに彼の言う通り…。私も今からでも遅くはないか?…。ブログに書いた以上は、ちょっと責任を感じるし…。
アメリカで2番目に買ったセントルイスの家
セントルイスに住み始めて2年ほどたったある日、私は新聞の3行広告を見ていました。アメリカの新聞は地方紙がほとんどで、アパートやマイホームを探すときは、広告欄の3行広告を見ます。アメリカは、当時(80年代初頭)から住宅の賃貸仲介という職業はほとんどなく、新聞の広告欄を見て自分で探すというのが普通でした。このインターネットの普及した時代に、日本にまだこの職業があるということ自体が不思議で、多分、そのうちワシントン条約で絶滅に瀕している職種の一つに指定されるのではないかと思います。
私は、別にアパートを探していたわけではなかったのですが、よほど暇だったようで、通っていた大学の図書館の新聞を見ていたのです。ついでに売り物件のセクションも見てみました。私はまだ大学院生で、大学の日本語講師のアルバイトをしていただけでしたし、家内も決して高給取りではありませんでしたので、家など買えるわけはなかったのですが、もしかしたら激安の物件があるかもしれないと思ったのです。
すると、何と$15,000の家を、売主が仲介業者を雇わないで自分で売っていました。$3,000の頭金で、残りの$12,000は売主が金利なしの5年ローンを出してくれるというのです。つまり、毎月$200を売り主に直接支払って、5年後には完済というわけです。私の記憶では、当時の金利はまだ13ー14%くらいだったと思います。13%だったとすると、$8,790借りたとして、ちょうど毎月の支払いが$200になります。つまり、$8,790+$3,000(頭金)=$11,790で購入するのとほぼ同じだということになります。
早速見に行ったところ、なぜそんなに安いのかすぐにわかりました。家がかなり傾いているのです。見渡すと、周りの家もほとんどみんな傾いています。売主の話では、この辺りは昔、粘土を掘っていたらしく、その跡を埋め立てて家を建てたそうです。地が固まる前に家を建ててしまったので、沈下したわけです。全体的に一様に沈下していればまだいいのですが、向かって右側が一番高く、中央辺りまでかなりの角度で傾いており、中央から左にかけてはほぼ平坦でした。
家に入ってみると、ダイニングルームの壁が割れて、少し落ちていました。さらに地下室に行ってみると、ダイニングの下あたりのコンクリートの壁が大きく割れ、ただひびが入っているだけではなく、今にも折れてしまいそうな感じでした。コンクリートの壁は、それ自体が重いし、その上に家が乗っかっていますので、重さでかなり沈んでいました。それに比べて地下室の中央はほとんど沈下していませんでした。
住めないことはないし、毎月の支払いはアパート代よりも安かったので、買うことにしました。よく家内が止めなかったものだと思います。私が買主側の仲介業者を雇っていたら、多分引き留められたでしょう。引っ越してすぐにわかったことですが、お湯が出ませんでした。パイプが錆びて詰まったようです。その取替えは自分ではできませんので、業者に頼みました。それまではコンロでお湯を沸かしてお風呂に入りました。
地下室の壁をどうにかしなければいけないと思っていたのですが、家内の義理の兄が隣のカンザス州に住んでおり、大工仕事の上手な人でしたので、来てもらって、地下室のコンクリートの壁の内側に板を張り巡らし、その中にコンクリートを流し込んで壁を厚くして、割れ目をふさぐという作業をしました。コンクリートはすぐに乾いて固まってしまうので、急がなければいけないと言われ、当時妊娠していた家内も手伝ってくれました。
近所の家の多くは、沈下した地下室のコンクリートの壁と家の間にブロックなどを敷いて、家を平たんにしていました。私もそうしたいと思ったのですが、素人で何の機械も持ってない私にそんなことができるわけはありません。そこで思いついたのが、業務用のジャッキをレンタルすることでした。沈下している家の左半分全体を上げるには、いくつものジャッキをレンタルして一斉に上げなければならないと思いますが、そこまでお金と人がいないし、多分技術もないので、1個だけ借りて、家の中央を少し上げ、右半分と左半分の傾きを同程度にすることによって、その角度を緩やかにしようと思ったわけです。
アイデアとしては簡単ですが、実際はそううまくは行きませんでした。地下室に入って家の真ん中にジャッキを取り付け、バーをぐるぐる回しながら最初の数センチは問題なく上がりましたが、途中から急に重くなり、家のあちこちからぎしぎしという音がし始めました。もう数センチ上げたかったのですが、家が崩壊して私が生き埋めになる可能性が頭をよぎりました。いい加減なところで諦めましたが、少しはましになりました。
セントルイスから日本に帰ることになり、家を売ることにしたのですが、雇った仲介業者は、あれほど苦労して直したにもかかわらず、$12,000でないと売れないと言い張りました。購入価格の$15,000は、金利がゼロでしたので、実質的にもっと低かったということは分かっていましたが、あれだけ直して$12,000は安すぎると議論しましたが、納得してくれませんでした。ところが、売りに出したその日に、元の持ち主がすぐに買い戻してくれました。もっと高くても買ってくれただろうとは思いましたが、今更文句を言ってもどうにもなりません。月$200の支払いは、アパートに住んだとしてもどうせ出ていくお金ですし、修理代は、売却手取り金で何とか元は取れました。
今になって思うと、よくあんなことをしたものだと思います。良く言えば自分のことながら感心しますし、悪く言えば呆れます。私は当時まだ20代後半でしたが、あのチャレンジ精神は、歳をとっても忘れないようにしたいものです。特に日本人は、何もできない私がよくそんなことをしたものだと驚くかもしれませんが、何でも自分でしなければならなかった開拓精神の残っているアメリカでは、驚くようなことではありません。グーグルで調べたところ、この家はもう更地になっていました。でも、家内と私の中には、良い想い出がしっかり残っています。
私たちが初めて買ったパサデナの家
私と家内が結婚したのは1977年で、二人とも22歳でした。家内は大学の4年生、私は大学院にいました。当時のアメリカでは、大学を出るまでに結婚するのが当たり前でした。家内は、良い家庭に恵まれず、高校を出てから半年、中華料理屋で働いてお金を貯めてから入学しました。通常、米国の大学は8月か9月に始まりますが、家内は1月に編入しました。その後も、フルタイムで働きながら、夜学に通っていました。
4年後、私と結婚したときには、$5,000の貯金をしていました。(神に誓って言いますが、$5,000目当てに結婚したわけではありません。)式は日本で挙げたのですが、かなりのお祝いをもらいました。その後間もなく、母が退職し、退職金をもらったので、私の学費をまとめて送ってくれました。かなりの現金があったので、私たちは家を買うことにしました。
当時、私たちは、ロサンジェルス郊外のパサデナという町に住んでいました。この町は、米国のほかの町にもよく見られることですが、黒人街と白人街が、東西に分かれていました。町の中心部を南北に走るロスロブレス・アベニューとノース・レイク・アベニュー周辺が、その境目だったのですが、市がそこに、当時としては低金利の8.75%のローンを出していたのです。通常、近所に黒人が引っ越してくると、家の値段が下がるので、そうなる前に郊外に買い替えるということが多いのですが、このローンのおかげで、白人が黒人街に引っ越してくるという、珍しい現象が起きていました。
私たちも、このローンを使って家を買いました。$57,500で、3LDK+書斎の、140平米ほどの家で、大きな水槽を置いたら、床が少し傾いているのが分かるような物件でした。それでも、Truliaという不動産サイトで調べたところ、今の価値は80万ドル以上です。1911年築で、大正元年に建てられた物件ですが、アメリカではそんな古い家でも値段は上がりますし、Truliaに載っている写真も、庭や塗装の色以外は当時のままです。
ところが、買って1年後にセントルイスに引っ越すことになり、売らなければならなくなったのです。値段がどんどん上がっている時期でしたので、家は$69,000で売ることができました。たった1年で価値が20%上がったのです。購入したときの不動産業者に売ってもらったのですが、売るころには金利が20%近くまで上がっていましたので、業者に勧められて、自分でローンを出すことにしました。
家を売るときに自分がローンを出すなどということは、日本では聞いたことがないかもしれません。仮にあったとしても、それは売り手がローンを完済している、あるいは現金で購入していた場合に限られると思うでしょう。ところが、業者の話では、自分のローンはそのままにしておいて、それより大きな額のローンを買い手に12%の利子で貸し付け、二つのローンの支払いの差額が自分の収益になるというのです。金利がどんどん上がっている時期でしたので、そのようにして買い手のローンの負担を下げ、同時に自分も儲かるという売り手が多かったのでしょう。
というわけで、言われるがままに売ったのですが、セントルイスに引っ越して間もなく、銀行から手紙が来ました。私たちがもらったローンは、売るときに完済しなければならなくなっており、ローンをそのままにしておくことはできないというのです。私は早速不動産業者に連絡しました。ところが、彼らはどうやら夜逃げをしたようです。私たち以外にも、同じような方法でいくつかの家を売り、被害者に訴えられそうになったのかもしれません。当時は良く行われていたことなので、このローンにそう言う条項があることを知らなかったのでしょう。
というわけで、私たちは5万ドル近いローンをすぐに完済しなければならなくなりました。セントルイスの知り合いに、弁護士さんがいて、カリフォルニア州の弁護士を雇うように勧められましたが、そんなお金もありません。以前のブログにも書きましたが、当時の私たちは、ハムのないハムサンドイッチを食べなければならないほど、本当にお金がなかったのです。
https://ameblo.jp/junjiono/entry-10176533245.html
いろいろ考えましたが、金利20%でローンを借り換えることもできませんので、牧師から、日本の親に頼んで日本でローンを借りてもらったらどうかと言われ、それ以外に方法はないだろうということになりました。実家の家のローンはすでに完済されていましたので、家を抵当に入れて、ローンを借りてもらったのですが、そのとき、両親は、何も言わないで、すぐに借りてくれました。
私が節約家であり、浪費してお金が無くなったわけではないことはわかっていたと思いますが、亡くなった父には、実家を建て直すときにお金を貸してあげて、恩返しすることができました。でも、そのお金は、このパサデナの家を売ってできたお金が元手になっていました。生きているときに、もっと感謝するべきだったと、自分が当時の父よりも歳を取った今になって、つくづく思わされます。