全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記 -4ページ目

藤堂高虎築城の浮沈戦艦・伊予甘崎城

【所在地】

愛媛県越智郡上浦町

渡航手段は、大潮時の徒歩のみ。

大潮時のツアーも企画されているといううわさ有。

【はじめに】

藤堂高虎という人物が築城名人と評される由縁の城郭は全てといっていいほど、関が原後の城郭である。

伊賀上野城、今治城など広大な方型郭を本丸として配した城郭、そして高石垣の城郭はこれに当たろうかと思う。

このような城郭の縄張りを一部”藤堂流”というようなことがあるが、決して藤堂高虎の城郭全てがこのような城郭というわけではない。


立地条件、城郭のコンセプトにより必然的に縄張りが変わることは当たり前であり、藤堂高虎もその例外ではない。


今回紹介する甘崎城は生粋の海城として評価できよう。

ただ、現在の地形からも分かるように、狭小な頂の小島の主郭部を見るとおよそ従来いわれた藤堂の縄張りの概念を覆すものである。

城下町などは、対岸に存在したと思われるが現在は痕跡を見出せない。

この城郭から、狭小な区画での場合いかなる縄張り、築城を藤堂が行ったか見るのも面白い。

【城郭の歩み】

天智天皇10年(671)に白村江の戦いの敗退後、唐王朝の襲来に備えて築城したという言い伝えがある。

この時期の城郭として、朝鮮式山城や古代山城が知られているが、海城は知られておらず、今のところ伝説の域を出ない。

ただこの伝説を元に、現在愛媛県指定史跡に指定されているのは、伝承を元に闇雲に史跡指定をしていた昭和の文化財認識の誤りの一つとして、反省の余地があろうかと思う。

ただ、この城郭の文化財的意義は大きいことから今後も保存を講じてほしいところである。


本格的に海城として機能し始めるのは、この地で村上水軍と共存していた、今岡氏によるといわれる。

南北朝期の代表的海賊である村上義弘の代頭とともに、芸予水道の海賊城は急速に増え、その中の中心的な城郭として、甘崎城も機能したと思われる。


戦国期の毛利氏傘下のの村上氏支配が終焉を向かえ、この城郭は、一水軍の城郭から天下人秀吉の瀬戸内海の主要城郭として機能する。

文禄、慶長の役においてこの城郭は、往来する軍船の中継地として重きを成し、関が原後も家康に重要視され、藤堂高虎が伊予に入封すると弟、藤堂大学頭が入城し、改修される。

慶長13年(1608)に来る大坂の陣への備えとして、藤堂高虎が伊勢に転封すると、養子高吉が管理するするところとなるが、元和元年(1615年)頃に廃城となったようである。


廃城後幕末から、明治初期の新田開発のため、石垣石材が護岸用に用いられたため、現在石垣も基底部を海中に残す状況にあるが、大潮時には海中から姿を現すことから、郭塁線は比較的良好に確認できる。

【縄張り・遺構】



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<甘崎城縄張り図>


【主郭部麓の遺構】

郭が配置された部分は現在三分割され、無人島として残存し、主郭部の外周を帯郭が配置される。

島周囲の石垣は先にも述べたとおり、現在破却や石材の二次利用により、基底部を海中に残す状況にある。


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<甘崎城主郭部が展開する古城島>


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<南西部隅角部の石垣>


狭小な主郭部を、概ね直線の塁線の郭か巡り補強する形は、周辺の海城に比べ、改修時期の新しさを感じざるを得ず、小規模であるものの、同時期の藤堂氏の海城である、今治城と共通性を感じ、関が原以後藤堂氏により改修され現在の縄張りになったと感じる。


大手は主郭部が展開する島の麓の東側に開口し(上記縄張り図中央下側の塁線が凹になる箇所)内枡形を形成する。

周辺は船団が停泊できるよう多数の桟橋がめぐらされていたと思われ、岩礁に多数のピット(柱穴)が確認出来る。周辺の海賊城の中では最大級の多さであろう。


現在、島頂部分においては、平坦地、虎口が確認されるが、大潮時でなけれが島へのアクセスが出来ないため、この度は、対岸からのみの撮影となったことをご了承願いたい。

【山頂部の郭の状況】

*以前訪問したとき撮影をしておらず文章のみの解説で大変申し訳ない*

概ね連郭式であるが、東側から延びる大手道が主郭部中央に至り、古城島の中央部分は鞍部となっていたと思われる。ここから北郭(本丸)、南郭(二の丸)へと分岐し、それぞれの郭への虎口は本来石垣で構築されていたようである。

以前、大潮時に訪問し、本丸、二の丸など主郭群が形成されていたと思われる地点を確認したが、現在の状況では虎口は大規模な印象は受けず、戦国期の山城を思わせる狭いものであった。

ただクランクは形成するが枡形とはならならず、概ね古絵図通りの縄張りを今でも確認することが出来る。


各郭の切岸は低く主郭部分において現在では、織豊系城郭という印象は一見感じれない。

ただ現在の主郭部の広さが元来の広さであったとは思えず、島周囲にめぐらされていた石垣の解体により、島の断崖の侵食が進行し、現在の姿になったと思われ、在りし日は城郭のシンボルが存在したのではと感じる。



数年前、部分的に発掘調査され、本丸南西隅からは礎石が確認された。

今後更なる調査が行われることで、この城郭の姿が浮き彫りになろうかと感じる。

【瓦】

藤堂高虎が伊予在世時代に支配した”今治城””宇和島城””河後森城”などと同笵の軒丸瓦が確認され、藤堂氏の改修を考古的に裏付ける。

更に、鯱瓦、鬼板瓦なども確認されることから、慶長期には瓦葺重層建築が林立していたことをうかがわせる。

ただ主郭部においては遺物は少なく、主に島麓に櫓を多く配し、海上に対しての攻撃性、海上からの攻撃に対しての防御性を追及した城郭であったのではと考える。


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<甘崎城出土軒丸瓦(今治市蔵)>

岡山城東の要:明禅寺城

【所在地】

岡山県岡山市佐和田

護国神社裏より登山。徒歩40分。(操山公園内)


【城郭が林立する宇喜多領】

宇喜多秀家の豊臣期の石高を見たとき、全国でも高いことはいうまでも無く、五大老に任ぜられていることからも、その地位は豊臣政権の中でも、確たるものであったことはいうに及ばない。

しかしながら、他の五大老である、徳川、毛利、上杉、前田と比べたとき、最小石高ながらその支城の多さ、そして織豊系城郭へ改修した城郭の数は群を抜いている。


先日、中四国中近世城館検討会において”城郭数が多いほどその地域が政治的に不安定であることがいえる”という話があった。この話を踏まえ、備前、美作、備中足守川以東を領有した宇喜多秀家にとって、それほど城郭を多く保有しなければならなかった要因とは何だったかを先ずは、一考察したいと思う。


五大老の中でももっとも石高の少ない宇喜多氏であるが、それと同時に宇喜多はもっとも遅く、戦国大名になった一族である、浦上氏の家臣として備前で活躍し、浦上氏より独立のために毛利に与し、浦上氏を倒した後は織田信長と手を結ぶという、したたか且つ波乱万丈な道程を生き抜いている。

そんな秀家の父、直家自身も不慮の死を迎え、宇喜多氏は滅亡の憂目を経験している。

そのような宇喜多氏を救ったのは豊臣秀吉(当時は羽柴)といっても過言ではないだろう。

秀家の母、おふく(家光の乳母ではない)の計らいにより、秀家は豊臣秀吉の養子になり、ここから宇喜多氏の道は開ける。


政権下での宇喜多氏の地位が固まったものの、家臣団の統率はうまくいかなかったようで、虎倉城主の伊賀氏のお家内紛争、荒神山城主花房氏の離反、笹葺城主江原氏(一門)の釜山での病死、そして従兄弟に当たる浮田左京のちの坂崎出羽守の離反(慶長4年のお家騒動)と関が原に向かうにつれ、破滅の色合いは濃厚になる。


本来、備前備中は三村氏、浦上氏、美作は尼子氏の勢力下であり、豊臣政権と同じく、譜代の家臣が少なかったというのが宇喜多氏の内情であったのであろう。

急速に権力を増し元同僚的立場の人間を家臣として取立て運営した宇喜多氏のお家内は隣人も信用できないような緊張感に満ち溢れていたのではないだろうか?


”いつどこで、どんな火種が発生してもおかしくない”

という考えから、この最小石高五大老宇喜多氏領内の城郭林立につながったように感じてならない。

それを叙実に表すかのように、居城の岡山城の近隣にも、備中高松・冨山城・撫川城・沼城・そして今回紹介する明善寺城というような城郭を豊臣期も衛星的に配している。


これらの城郭は宇喜多の収入源となった肥沃な備前平野に立地することから平城も多く見られるが、縄張りが広大であったり、石垣が見事である。

傍ら、西、東の要となる、富山・明善寺は山城であることから、これら二城は他の岡山城衛星城郭の中でも性格を異にする目的の元、運営されていたと感じる。


先日、この明禅寺城よりコビキA痕のある瓦が採取されたとの話があり、従来いわれた廃城年代がかなり下るものと判断し、遺構の確認を行おうと思い、今回踏査した次第である。

【城郭の歩み】

永禄九年(1566)備前沼城主として戦国大名に成長した宇喜多直家が築城したと伝わる。

しかし翌年には備中松山城主の三村元親の夜襲に遭い、落城するものの、更に翌年宇喜多直家は5千の兵力で二万の三村勢を倒し、この城郭を奪還する。俗にこれを”明禅寺崩れ”と称する。


俗にこの合戦後、この城郭は岡山城築城のため、備中との押さえの機能を失い廃城になったといわれているが、後述の理由から廃城年代は少なくとも天正期、或いは更に下るのではと、私は感じている。



【縄張り・遺構】

山塊を形成する操山山頂から北に延びた尾根の頂に、背後(南側)に一段の腰曲輪を伴う中心郭(本丸)を構え、尾根沿いに沿って北側に二段の腰曲輪と、西側に三段の腰曲輪を伴う準中心郭(二の丸)を配置した小型の連郭式縄張りの山城となっており郭配置からいえば二方向に郭を展開する単純な縄張りである。


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<明禅寺城縄張り古図>

ただ本丸には、巨石を用いた大規模な石垣、クランクを形成する虎口などが確認され、従来言われた廃城年代よりもだいぶ下るような感を持った。


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<巨石の配置がクランク状になる(虎口か?)>

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<郭を遮断する空堀>

本丸周辺は、帯郭が周囲を巡る。


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<帯郭が巡る主郭部>


本丸は現在公園化し、削平を受けたように見られる。

ただ、本丸東南部に石垣、及び枡形虎口状の窪地が有る。


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<巨石を用いた石垣>

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<石垣周辺の枡形状窪地>

枡形に関しては郭の配置から、多少自信がない。

ただ石垣に関しては、天正期の宇喜多の城郭である冨山城に似て巨石を用いた石垣であり天正期まで城郭が機能したのではと私が感じる遺構の一つである。

進化した形は同じ岡山城の衛星城郭として機能した撫川城の巨石を用いた石垣であろう。

但し撫川城の石垣に関しては、勾配もあり郭の隅角部も直角になるなど天正期から下り文禄期の改修の匂いが濃厚である。

ただ、現地踏査しただけでもこの城郭が従来言われた””永禄期戦国大名宇喜多直家の陣城的城郭”という認識は脆く崩れるものであり、宇喜多氏の豊臣期城郭を検証するに当たり重要な城郭であろうかと考える。

【遺物】

コビキA痕の丸瓦を表面採取した方が居られるらしいが、私自身は未確認。

ただ発掘調査も未実施であり、遺構から考えても瓦の存在は充分考えられる。

その他、本丸から備前焼片が採取されているが、相対的に遺物の量は極めて少ない。


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<本丸先端の高まり>

前期村上水軍の拠点に織豊系技術を感じる・伊予隈ヶ嶽城

【所在】

愛媛県越智郡吉海町亀山

【はじめに】

三島村上水軍の根拠地の芸予諸島の中でも二番目に大きい大島は、能島村上水軍の能島城を近くに配することから、豊臣期は、能島村上の根拠地であったのであろうかと思う。


今回紹介する隈ヶ嶽城はその大島に所在する、大規模な城郭である。


元来初期村上氏の居城と伝わっていたが、水軍として知られる村上氏のカラーを感じさせない、”大規模な山城”である。


ゆえに本来水軍として生きてきた、村上氏がこのような大規模な山城を構築する技術を持っていたとは考えにくい。

更に、縄張り図を見てみると、櫓台を伴い、石垣も確認される。


随分前に行われた発掘調査においても、瓦が出土したとの記録があり、どうも”一水軍の城郭”と見るより”豊臣征韓時の瀬戸内海諸城整備”の一環としてこの城郭は整備されたと見て然るべきと感じ、この度撮影した画像を交えながら確認した遺構をご紹介させていただき、本城郭の検証を行いたいと思う。

【歴史】

築城は鎌倉期と伝わる。

城郭大系では、村上水軍との関係に対し否定的であり、南北朝期まで機能していたのではとしている。

私自身は、村上義弘の墓標が近隣にあることなどからも、この城郭が村上氏と関係が無かったということには否定的になる。

この城郭を詳細に記録した古文書は伊予松山藩の軍学者が作成した”海賊衆城塞図”があり、江戸期から村上水軍の城跡という認識がされていたようである。


ただこの城郭の詳細は不明な点が多く、文献も乏しいことから、考古学的に城郭を検証していく必要を感じる。


地階を持つ天守台に似た櫓台の残存、及び登り石垣状の土塁の存在から、文禄期以降の改修を感じる。

但し、先にも述べたが、このような改修を、海の大名といわれた村上氏単体が実行できるノウハウがあったかといわれると、非常に無理があるように感じ、(豊臣期は能島村上の支配域と考えた場合なおさら)近隣の今治市に所在する国分山城と同質の城郭として、瀬戸内海の監視的な要素を持つ山城として豊臣政権の援助の下、整備機能していたのではと感じる。

【縄張り・遺構】

亀老山といわれる比高のある山塊の中腹部に縄張りが展開する。


全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記


城郭大系で”見張り台”と表現される土壇を中心に前後に郭が展開する。

虎口は現在のところ不鮮明で、各郭も連郭式に広がるのみで郭同士の連携しておらず稜線に沿って展開するのみである。

ただ”見張り台”といわれる土壇周辺に織豊系の改修ではと感じる遺構をこの度確認できた。

土壇前面に広がる郭は広さを持ち、又土壇から北西に短いながらも登り土塁らしき土塁が法面に走り土壇下の帯郭を遮断する格好となる。



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<隈ヶ嶽城入り口>

入り口から暫くは、ブッシュとなるので、軽装での訪城は控えたほうが無難である。


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<城郭西側>

現在西側は、亀老山の車道整備で遺構が破壊されている。


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<主郭部前面の切り岸>

土壇周辺の郭は主郭と思われ、広さもある。


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<主郭の虎口か?>

僅かにくぼんだ箇所が、主郭に見られる。


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<主郭から見る、土壇>

土壇は主郭の中央部に位置し、塁線上には位置せず、背後も来るわが巡る。


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<土壇背後の状況>

土壇下を巡ると、今回確認した”登り土塁”を確認することが出来る。


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<登り土塁>

その他、土壇を確認すると地階を持つ建造物が存在した可能性をもつ遺構であることが確認できた。


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<地階部分より土壇を確認>

周囲には、石垣の痕跡と思われるものも確認出来る。


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<石垣>

但し大規模な石垣ではなく、石材の加工も技巧性を感じさせない。石垣においては織豊系と表現するには無理があろうか?

【瓦】

発掘調査で確認されたとの記載が城郭大系にあるが、現在周辺において一片も確認することは出来ない。出土したというものも現在のところ確認してはいない。

【改修時期検証】

郭同士が連動せず、石垣も稚拙であることを見たら、天正期の四国の城郭の域を出るものではないと感じる。

ただ、最初にも述べたとおり、水軍の城が、このような海を意識しない山中に存在するかという疑問は私自身の中には強く湧く。水軍の将がこのような城郭を自身のために築城するであろうか?

今回確認した土壇は戦国期の伊予の城郭には見られない天守台相当の遺構と感じる。

更に、登り土塁という朝鮮出兵時に日本の築城技術に取り入れられた普請術の存在からも、文禄期に部分的ではあるが豊臣系築城技術を取り入れ、改修したと考えるのが妥当のように感じる。




来島村上水軍の本拠・伊予来島城

【所在地】

愛媛県今治市

波止浜港から瀬渡し船(500円)で来島。

但し港の駐車場は狭い

【はじめに】

瀬戸内海の水軍城に最近注目し始めたのにはいきさつがある。


先ず、豊臣秀吉は征韓時に備え、山陽道の城郭を織豊化し、更に重要な城郭などは金箔瓦を使用させ、四国の瀬戸内の城郭も織豊化している。


先日記載したが、陸海の城郭整備を行い、万全の体制で、文禄慶長の役に臨んでいるのだが、これら織豊化した城郭の点と点を結ぶ船団を支援する城郭として、瀬戸内海に点在する”海賊城”も併せて整備している痕跡が多々見られたため最近特に注目しているのである。


無論豊臣政権時存続はしていても”織豊城郭化はされていない”海賊城も存在するが、それらも併せて確認することで、瀬戸内の豊臣期の海賊城の実態が見えてこようかと、現在プロジェクトを遂行している。


無論海賊城以外の城郭も訪問していくであろうが、織豊城郭訪問というキーワード内に”織豊期海賊城”という一つの自身内で大きなウェイトを占めるカテゴリーが新たに誕生したと表現したらいいだろうかと思う。


syunpaturyoku氏、及び、イケガミ氏の支援もあり、現在多数の情報が集まることの結果、調査は現在順調に運んで居ることは、この場を借り、厚く御礼を申し上げたい。


今回は、しまなみ海道を進み、因島の隈ヶ嶽城、来島城、甘崎城を巡り、先ずは来島城の所見を述べていきたいと思う。


【歴史】


応永26年(1419年)村上義顕の三男村上吉房が分家し築城した。
村上水軍三家のうち最も四国よりに拠点を構えた来島村上氏は主家河野氏の内紛に乗じて伊予本土にまで次第に勢力を拡大していく。
4代通康は河野通直が寵愛し後継者として指名した程であったが、これには家臣団の猛反発を喰らい反対派が来島を攻める第一次来島合戦が起こった。
天正10年(1582年)織田方になった来島氏を毛利・河野軍が攻撃し村上通総は備中に逃走。天正13年(1585年)秀吉の四国平定時には通総は先鋒として伊予を攻めその功によって風早郡1万4千石を領した。
関ヶ原合戦後、来島氏は豊後角牟礼(森藩)へ転封となり廃城となった。


しかし先にも述べたとおり、元和令による破城された城郭で良く見られる”石垣コーナーの破却”を見ることも出来、関が原後も機能し、江戸初期まで機能していた感も否めない。


【縄張り・遺構】


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<縄張り図>

来島波止場の待合室にこの城郭の縄張り図が張られている。

三の丸、二の丸、本丸が連郭式に連なり、V字型に広がる島の稜線の懐に館及び、大手口と思われる枡形状の虎口が見られる。

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<枡形状の空間を構築する石垣>


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<北から見る大手口石垣>

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<大手口石垣南側>

現在石垣は、後世の破城及び、改変により変容した状態で残存するものの、大振りな石材で構築されており高さもあることから、文禄慶長の石垣を思わせる。

更に、元和令で破却された城郭に見られるような”石垣コーナー部分の破却”の爪あとを見せ、コーナー部分のみ不自然に丸く小ぶりな石垣となっている。


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<不自然に丸くなった石垣コーナー部分>

桝形状になる石垣を抜けると三の丸に至る。

三の丸の塁線も石垣で構築されるが、高さがない石垣である。


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<三の丸の塁線を囲む石垣>

石垣のコーナーは算木積みを確認できる。算木積みの構成する石材には矢穴痕を見ることが出来、低い石垣ながらも豊臣期の石垣であることを物語る。
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<算木積み石材の矢穴痕>
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<算木積みの現状>


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<三の丸>


三の丸と二の丸とは多少の高低さがあり、法面の一角に社が鎮座する。


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<三の丸から二の丸への法面に鎮座する社>


二の丸、本丸へはこのルートしか存在せず、三の丸方面以外の塁線は断崖に囲まれている。


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<大手口枡形付近から見る二の丸、本丸>


二の丸、本丸の高低さも従来虎口があったようであるが現在では確認できない。

ただ本丸の二の丸側の法面にも多少の石垣が確認できる。


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<本丸南側の石垣>


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<本丸南側に広がる帯郭>


本丸の北隅は多少の高まりを見せ、櫓台が存在したような痕跡を見せる。
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<本丸北隅の高まり>


再び枡形状遺構まで戻り、寺院側を確認する。

現在寺院があるところは、山麓居館が存在したといわれる。

この周辺も、開墾され地形が変容したという話を地元の方から伺った。
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<寺院が建つ居館付近>

寺院の裏手は出丸と伝わり、主郭部と離れ独立した郭となる。

このあたりも塁線は石垣で固められており、最端は塁堡状の郭となる。ただし出丸の郭は現在、給水塔が造られ、コンクリートで固められている。


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<出丸の石垣>



【廃城時期検証】



推察に至った経緯として周囲を海に囲まれたこの城郭を、関が原後、そして元和令と二度にわたり破却するであろうか?ということである。


この城郭が機能するには周辺の海賊城や、周辺の拠点城郭と共存しなければその真価は発揮できない。海賊城というのは周辺城郭とリンクしなければ大軍勢の前では小さな城でしかない。

関が原後に二回目の破却を受けたとするならこの城郭が”一揆勢などの反乱分子が流用する恐れがあるから”という理由がもっとも多い理由であるが、この城郭に関して言ううならば、一揆勢が立て篭もるには、あまりに狭小であり、軍略上からみても有効的ではない。

とすると、松山藩加藤氏か、又は今治藩藤堂氏が自身の藩の水運の重要拠点として関が原後も利用していたのでは無いだろうか?

関が原直後はどの外様大名も支城を保有しており、それらの城郭と連携する形であるならこの城郭も有効活用でき、周辺海域の要となる。


【門への拘りが来島村上氏の築城術か?】

関が原後の来島村上氏の居城は豊後角牟礼城である。

この城郭は大手門、搦手門のも織豊系石垣で固められ、門のみ瓦が出土している。

この城郭も、大手門周辺の石垣は突出しており、共通している。枡形状の大手口であり、生粋の豊臣系城郭のような見事な枡形虎口とならない点も皮肉なことに共通する。




【瓦】

随分前には本丸郭からも瓦の砕片が確認できていたが、今回は全く確認できていない。

大手口周辺に多少の瓦が確認出来る。

硬質であり、コビキB手法の瓦である。

遺構に対し瓦の散布量は全体的に非常に少ない。


先にも述べたが、この城郭は元来関が原後、来島村上氏が立ち去った後廃城になったといわれているが、石垣コーナーの破却からして、どうも元和元年の一国一城令まで存続したのではと私は考えている。

織豊期に改修か?・長門・荒滝山城

【はじめに】

我が故郷の山口県には、織豊系の城郭が少ないというイメージが強く、地元をおろそかにしてきたかと最近反省をすることが多い。

最近諸事情により、県外への訪城が難しくなり、我が郷里周辺の城郭の再検討をしている。

今回紹介する荒滝山城は、”山”としては所在地の山口県宇部市周辺の人には認識されているが、”城”としては認識が薄い。


数年前発掘調査されたことをきっかけに、この城郭の重要性が、研究者に認識され、ありがたいことに県指定史跡になった。

ただ、これはどこの地域でも多く見受けられることだが、本丸が主眼として調査整備され、他の郭は現在、酷いブッシュ化又は分かり辛い状況となっている。


更にこの城郭は”戦国期の城郭”というイメージが固定し、織豊期から元和令まで機能したという事実は周知されていない。

事実、現状からは典型的な戦国期の中国地方の城郭の感が濃厚であるものの、改めて城郭の縄張り図を確認すると、千畳敷部分の塁線が、直線に仕上げられており、隅に至っては直角であることに私は強い関心を覚え、今回の踏査に至ったのである。


【歴史】

歴史に荒滝山城の名前が現れるのは室町期から。

大内氏の家臣、内藤隆春が一万石を以って入城したとある。


ここで重要なのは”一万石”という石高表現である。

石高を”石”で表現し始めるのはあくまで、織田信長横死直前から豊臣初期にかけてであり、大内氏の下内藤氏が入城した時期は”貫”で米を表現する。

(この表現からの推察は縄張りなどを含めた上で後述させていただく。)


ちなみに内藤隆春の姉は大内義隆の養女でもあることから、内藤氏が戦国大名大内氏の中での地位が如何に高かったか想像に難くない。

その後、内藤隆春の姉は毛利元就の長男である隆元に嫁いだことから、内藤氏は毛利氏との関係が強固になり、結果陶晴賢の謀反に際しても、毛利氏と連携する姿勢を執る。

後に内藤隆春は長門守護代となることから、この城郭が長門の中心的な役割を担ったことと思われる。

(関が原後の荒滝山城主は二説あり。)

関が原後も内藤氏の支配は続いたようであるが、隆春には嗣子が無かったため、甥の宍戸元秀の次男元盛を向かえ家を存続させている。

この元盛という武将は、地元では有名な悲劇の武将で、大阪の陣において、毛利輝元の密命を受け、入城している。

落城後は山城国で自刃し、嫡子元珍、及び次男栗屋元豊も徳川からの言及を回避するため毛利氏の命により自刃させられている。(墓は宇部市楠木の瑞松庵)



又、九州大学木島准教授の説では、関が原後、荒滝一体が末次元康の所領となっていることから、末次元康の入城を述べられている。この元康も大阪の陣で没していることは興味深く、荒滝山城という城郭の性質と、城主の性質(任務性)はリンクするのではと考えたくなってしまう。


廃城は明確に記した文書は無いが、毛利家文書から考え元和一国一城令(1615)ではといわれている。

【縄張り図から推察】



全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記
<宇部市教育委員会hpより>


今回注目したのは、”千畳敷”といわれる一体の塁線である。

南側は直線的であり、又横矢掛とも捕らえてもいいような箇所が南西側に確認できる。

更に北側の張り出した郭はほぼ直角の方形を形成し、戦国期の城郭の塁線とは一線を引く技巧性を感じさせた。


本丸は多数の小郭で形成されているのに対し、この千畳敷の中心部は広さもあることなどからも、改修時期のずれを強く感じさせる。


同様な事例に、遠く離れるが”丹波有子山城”に比例させたい。

有子山城も、本丸から瓦は出土せず、千畳敷といわれる郭から瓦が確認される点から、本丸重視ではなく、”局所的に郭を織豊城郭化”させる築城法(改修術)が存在したと感じる。


【遺構】


荒滝山城南側山麓から登山道が整備されており、比較的容易に登山できる。

以前山麓に”枡形”といわれる石垣が存在したが、現在では”田畑の石垣”であるということで解決している。

山麓部に石垣が確認され、”山麓部の遺構”と紹介している方もおられるが、山麓部をこれほど狭小に区画する石垣を城郭の遺構と私は感じれない。


全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記
<山麓部の石垣(段々畑と推察)>

これより急峻な山道が続く。

暫く歩くと、西郭と本丸の分岐に至る。


(本丸)

北側は帯郭が巡り、東側は小郭が連携し、虎口を強固にする。


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<本丸東側郭の法面>


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<本丸北側の帯郭>


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<本丸北西側の張り出し>

縄張りと防御を考えると、櫓を構築しそうな感がする。



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<本丸から南東を望む>

眺めは非常に良く、周防灘、北は美祢郡、果ては関門海峡も望むことが出来、周辺の状況を掌握しやすい。



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<縦堀>

本丸周辺は畝状縦堀も確認されており、戦国期の九州中国地方の典型的な山城であることも確認出来る。



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<本丸南東の虎口現状>


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<同上、発掘調査時の出土遺構>

平虎口で、本丸の斜面に依存した防御機能であり、ここからも本丸の古さを感じさせる。


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<本丸南面の石垣>


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<本丸郭群東端郭の一二三段を構成する石垣>

石垣は戦国期の毛利氏の城郭のものと同じく、高さは無く、自然石で構成されているが、多少の加工が加えられているためか、石垣の面は整っている。天正期のものと推察する。


(千畳敷)

私が注目し今回の訪問に至った千畳敷は、この城郭を形成する郭群のひとつと捉えることが出来る。

縄張り図でもあるように、城郭を大別すると”西郭” ”本丸” ”千畳敷”になり、この千畳敷のみが豊臣期の改修の匂いを私は感じる。


本丸と千畳敷は二重の空堀で分断されている。




全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記

<本丸側の空堀>

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<千畳敷側の空堀>


そして、千畳敷手前の小郭にいたる。



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<小郭の土塁>

小郭と千畳敷も空堀で分断される。

他の区画には見られないほど、郭と郭を空堀で分断する技法からも、千畳敷の新しさを感じる。


全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記
<千畳敷と小郭間の空堀>


千畳敷は石垣が城内でも最も良好に残存する区域である。

特に南側は良好であり、直線的に配された石垣と塁線をつぶさに観察できる。


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<長く直線的に続く石垣>

但し高さは無い。贔屓に見ても本来の高さは2.5mがいいところであろう。

この石垣の配される塁線も、一二三段となり、帯郭が巡る。

その点からしたら、先ず文禄慶長の改修と見るには無理がある。

ただ直角に仕上げられた隅部も加味した場合、この城郭の最終改修年代は天正末頃と考えて妥当ではないだろうか?


全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記
<直角となる、千畳敷南東隅部>


先に述べた、なぜ、戦国期の武将が一万石?”と表現されたかを推察した場合、内藤氏は戦国期から、豊臣期にかけ、この城郭を拠点に活動することから、”旧来から”一万石であったような表現になったのだと考える。

それは、豊臣期においてこの城郭が長門国の中心であったことの現れであろうし、事実現段階において、長門国における一大名管轄の城郭でこれほど整った城郭は今のところ皆無である(櫛崎城は豊臣政権の影響があると考える。)


【瓦】

残念ながら、千畳敷においても瓦は採取できずに終わった。本丸は発掘調査されているが、その際にも瓦は確認されていない。関が原頃には、瓦という非実質的な要素を取り入れてまで、この城郭を彩る必要は最早毛利氏の中には存在せず、むしろ”軍事重視”の城郭として存続したことの表れで在ろうかと考える。


【注記】

千畳敷への道は非常に分かり辛い。

本丸北東下を走る道を東に進めば、案内板が現れる。ひたすら道なりに進むと現れるが、縄張り図を持参しないと道に迷いかねない。

見晴らしは非常に良好!


全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記

全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記

瀬戸内に面する塁堡的海賊城・高崎城

竹原周辺には小早川の配下の武将の城郭が多く確認される。


もともと小早川氏はこの竹原の木村城を居城としていたことが大きな理由であろうが、その後の小早川氏の性質(水軍の将)から考えると、この地を重点的に管理し、瀬戸内海の水運掌握のため、各城郭の維持整備を行っていたと思われる。


これら竹原の豊臣期に存在した城郭は現在本格的な調査は行われていない。


唯一発掘調査が行われた、この高崎城も、現在公民館が建設され、本丸には神社が鎮座する状況で、遺構が決して良好な状態で残るとはいえない。


しかし、立地条件や、現在の地形から推測される概略の縄張りから、河口に配され海に面した塁堡的要素の強い海賊城として、出入港時に重要な任が化せられていた城郭であったであろうと考えている。


【歴史】

15世紀に築城されたといわれるが、詳細不明。小早川氏が水軍掌握するにあたり小早川家臣・天野弾正が居城。としたといわれる。

周辺の城郭と同じく関が原合戦後に廃城となったと思われる。

【縄張り】

河口側に舌状に郭が広がり、高宮八幡宮に本丸があったと考えられる。正面は海が広がり、立地条件からしても海を意識して築城されたことは存分に理解できる。


全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記
<河口側の郭から本丸側を見る>


本丸が存在した八幡宮正面はすぐ海が広がる。現在道路となっているが船着場を配するには丁度いい場所であるからして、往時は城郭周辺に船着場が配されていたのではないだろうか?


全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記
<本丸に鎮座する高宮八幡宮>


【遺構】


本丸を土塁が巡る。
全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記
<本丸の土塁>

その他本丸西側は人道となっており、本丸と周辺の地形から、本来は空堀であると推察する。


全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記

<本丸西側の空堀と思われる遺構(現・人道)>


【織豊系城郭要素】

現集会所地点の発掘調査で軒丸瓦が一点出土している。瓦はこれ一点である。珠紋と巴の間に圏線をめぐらせるタイプの軒丸瓦は毛利氏の豊臣期の城郭で多く確認されており、その他の特徴からも、この瓦は豊臣期の瓦であることは間違いなかろう。

ただ現在のところ、この一点のみであることが気になるところであり、”城郭に伴う瓦”であったのか、二次的流用であったのかは不明である。

その他、石垣は確認されておらず、戦国期の毛利氏の城郭レベルの石積みしか確認されておらず、現在のところ織豊系城郭と評価することは難しい。

山陽小野田支部盆栽展に行きました^^

山口県は今月よく盆栽展が行われています。


当方も無論出品いたしましたが、山陽小野田支部の盆栽展は、私が盆栽を始めて間もないときからお付き合いがある、”英彦園”さんがこられていましたので、初日から参りました。


英彦園の園主さんは、高校時代から盆栽に熱狂されたとの事で、園内には実生の黒松、山採りの真柏が多数ありますし、敷居も高くなく、お手ごろな盆栽も多数あります。


現在も、盆栽畑があり、生産直売体制なのもうれしいところ!

たぶん・・・安値日本一レベルかも・・・。


リーズナブルなものもたくさんございますが、本格的なものも多数あり!

私のような貧乏盆栽マンは購入できませんが、園主さんが手がけた樹は国風展にも何度も出品されていますので、眼が養われます!


そして、園主さんの跡を継ぐ息子さんは私と同じ年!

ですが、最早次元が違う人!

細かく枝分かれした松の枝に、針金掛けする様は最早職人芸!

そんな彼と、今後盆栽界を発展させようと話したところです。


久しぶりに園主さんとお話し、昨今の実情、各樹種の問題を伺い非常に有意義な一日となりました!


全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記
<右・親父となった”若手盆栽愛好家”の私。左・英彦園園主、高嶋様>


では近日、英彦園の園内風景を撮影して皆様にご紹介させていただきます^^



<英彦園ホームページ>

http://www.ehikoen.net/index.html


kabuto-兜さん

kabutoさんを知ったのは、偶然のことでした。

私同様、城郭の瓦に魅力を感じている方がおられるとはまさか思わず、メールした次第です。

おかしな話商品のお話には至らず、瓦話で盛り上がり、その後家紋を取り入れた和物のアーティストさんだと知った次第です。

今までこのアメーバー内でも作品を取り上げられているので、いまさら私がご紹介するまでもないかもしれませんが、そのセンスのよさ(家紋と流行のrimix)は私も心を奪われています。

で、このたびは名刺入れを購入!

全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記

<外側>
私が真田好きですし、妻が使うには”赤”かなとも考えたので、今回はこれにさせていただきました。
そのほか、宇喜多、小西などもございますし、チェック地に家紋というデザインは斬新ですし、”和”だけだと重くなる家紋のデザインを、現代的に表現されることで親しみやすさの中に格調高さを感じる一品となっています。

全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記

中は広域城郭研究会の名刺!
マークは私のデザインです!
あんまセンスありませんが・・・石垣に映る三日月と星をイメージしました。

画像がよくないので、是非kabutoさんのhpにいらしてください!
http://www.kabuto-kyoto.net/


由さん、今後ともよろしくお願いします^^

安芸の村上水軍の拠点城郭・鎮海山城

【はじめに】
~瀬戸内海の水軍と海賊城~
瀬戸内海に点在する島や、半島はよく”水軍の城”=海賊城に利用されている。

瀬戸内海を押さえることは、畿内から九州などの諸地方の水路を押さえることになり、この水域を抑えることの結果、莫大な通行料を手に入れることになり、水軍といわれる”海の大名の林立”に発展する。

戦国期には河野水軍や村上水軍が主にこの制海権を巡り、合戦が繰り広げられ、最終的に中国地方第一の大名となった毛利氏の旗下となった、”村上水軍”の勢力が増大する。

しかし、織田信長の代頭とともに、村上水軍の一つの来島村上水軍は織田信長の傘下になり、能島、因島の各水軍は毛利の旗下のまま、豊臣期に入る。

今回はその中でも能島村上氏の拠点として築城された城郭である”鎮海山城”をご紹介させていただく。

【城郭の歴史】

能島村上氏は、その呼称からも理解頂ける通り”能島城”を中心に海賊行為を行い、村上氏の中での地位を確立した。
天正13年(1585)に豊臣秀吉が”海賊禁止令”を発し、能島村上氏もその拠点を、丘に移さざるを得なくなる。
そのほか、毛利の水軍を統括する小早川隆景の居城(新高山城その後の三原城)が近いことで毛利水軍の統率の強化も目的にあったかもしれない。
そのまま、この城郭は能島村上の居城として関が原まで存続するが、関が原時に能島村上の当主武吉は因島村上と応呼し、伊予三津浜に出兵、故地奪回に臨むが、息子元吉は戦死、そして毛利氏の防長二州への転封となり、能島村上もこの城郭を去る。
関が原後この城郭の記録はなく、廃城となったと考えられる。
能島村上はその後、周防大島、上関などを拠点としたようで、最終的には三田尻(山口県防府市)を拠点とし、毛利の船手方として存続してゆく。

【遺構】

海に面した竹原市の城郭であるが立地条件は”山城”に区分される。
城郭名称からして、海上交通監視を強烈に感じる。
山麓は、住宅地となるが、山頂部は比較的良好に遺構が確認できる。

山頂に至る途中”社”が確認できる。
周辺は山麓部でもっとも開けた地域であるからして、城郭機能時は”居館部”であった可能性を感じる。
$全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記
<山麓の社>

山頂への道は特に技巧性がある虎口などなく、多少の屈曲を伴いながら稜線に至る。
$全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記
<山頂への道>

$全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記
<稜線の鞍部>

稜線に至ると、屏風状に展開する山塊を城郭とし、郭を配していることが確認できる。但し各郭はリンクしておらず、戦国期の中国地方の山城に多く見られる縄張りそのものの印象が強い。
尾根を空堀で区分している点でも各山頂を独立させる傾向を強く感じる。
$全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記
<稜線を区画する空堀>

全体的に縄張りは単調であり、豊臣期の城郭という印象は希薄である。
$全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記
<本丸尾根伝いに確認される郭>



本丸への虎口は狭いながらも屈折する。ただ豊臣期の洗練された技術は感じない。
$全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記
<左に屈折する虎口>


本丸はには櫓台が一基確認できる。
石垣も戦国期中国地方の石垣とは明らかに違い、成形された石材で構成されている点がこの度の大きな発見となった。
これから推察されるのは小早川の城郭として三原、新高山が中心的な役割を担い洗練された豊臣系城郭として整備されるに当たり、周辺の小規模な支城も整備されたということである。
近日改めて紹介するが、近隣の高崎城でも同様の事例があり、竹原周辺の城郭が亜流であるものの、豊臣系城郭として歩んだ痕跡が確認できる。
$全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記
$全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記
<本丸の石垣造りの櫓台>

【瓦】
本丸及び各郭においても全く確認は出来ない。
ただ関が原後に拠点とした”上関城”(当方ブログ内長州毛利藩の城郭内に記載)でも少量ながら瓦は確認されており、今後少量ながら確認される可能性は大いにある。
更に近日発表するが、同じ竹原市内に存在する高崎城から一点であるものの瓦が確認されており、城郭の規模、そして城郭としての重要性からしてもこの城郭に瓦葺き建造物が存在しても何らおかしくないように感じる。

自衛官と民間人の大きな相違(だから尖閣列島!)

自衛官ってのは、服装が大きく分けて二種類ある。
制服と作業服。
~以下は陸上自衛隊の場合~
制服というのは、警察官などが着用してるのと大差ない。
作業服ってのは、OD又は戦闘服と自衛官は表現するが、一般的な作業着。
そして演習などきちんとした(?)業務時に着用するのは迷彩服。
再分類すると、夏服(制服の夏バージョン。学校と同じようなもん)や、空挺、戦車などの専用の迷彩、戦闘各種服など多岐にわたる。

で、高校を卒業し、晴れて自衛官となりいきなり警察官もどきみたいな制服を授与されると”調子に乗ってしまう”。
要するに”コスプレイヤー”ですな。
人間てのは、服装に着られてしまい、ついつい役者になりきってしまう。
糞まじめな奴でもヤンキーな格好をさせたら、それなりの役者になってしまうのと同じ。
無論、例外はあるが・・・・。

自衛官てのは閉鎖された空間、独自の価値観を持つし、外部とのかかわりがあまりない。
それゆえに、彼ら独特の”美学”がある。
そんなもの外に出たら全く通用しないことなど、知らないまま、退職し苦しんでる元自衛官は山ほどいる。
良く怒られる組織ではあるが、民間に比べ”良くほめてくれる”組織でもある。

良く自衛官の言動を見ていると、無駄に自衛官であることをPRする人をよく見る。
小物や、言動で”元なり現職なり”見ていて恥ずかしくなるほどその様な場面は多い。

かくいう私もそうだった。
外の同級生は合コンだのコンパだので青春を桜花してるのに、われわれ自衛官は”外出許可”をもらえないと、”突発の外出”など認めてはくれない。
たとえ、彼女と破局の憂目であろうと、携帯電話が故障しようと、海上自衛官などは親が死んだというのをフィリピン付近の潜水艦内で聞いたらしい。
そしてそんな悩みは民間人には理解してもらえない。
”ええやん衣食住ただなんやろ””ええやん、完全週休二日やし””ええやん、親方日の丸。つぶれる心配ないし”などなど。
民間人と防人たる自衛官の悩みは白と黒ほどは違いがある。
民間人の友人に話しても何の解決にもそして気休めにもならないとなれば、話すのは同期か先輩かになる。
それは退職してからも永続し、”自衛官だけ分かる苦労話”を退職後20年以上経っても話す自衛官は少なくない。
それからすると自衛官というのは結束は固い。
でも民間人に対しては”お前らに俺たちの何が分かる?”的な反感はあろうかと思う。
逆に民間人は”税金の無駄遣い””いてもいなくても同じやないか?”的な目で見る人も少なくないだろう。

で尖閣諸島・・・。

民間人としては”自衛隊はよいけや”と思う人もいるかもしれない。
でもそれを言うあなたは今まで、自衛隊に対しどのような目線で見てきましたか?
自衛隊の何が分かりますか?
きちんとわが国領土と明確になっていないようなグレーゾーンで、しかも無人島地域で憲法9条でがんじがなめの自衛隊が行動できると思いますか?

自衛隊に動いて欲しいなら先ずは著名運動でもしてください。
自衛隊はそんなことは出来ないんです。
田母神前航空幕僚長をご存知でしょ?
そんな政治にかかわるようなことをしたら自衛官の身分を奪われかねない。
職がなくなるのが嫌だから行動しないのではない。
そんな事しても”自身に与えられた国防の任”は全うできないからなだけ。

国民が一丸となり、自衛隊が動ける憲法にしてから、自衛隊にお願いしてください。
それが嫌なら、今までどおりの憲法9条で、だんだん国土が侵犯され、侵略されるのを待つしかありませんな^^。
アメーバー内の自衛官(たぶん幹部)の誰かが”抜かぬ剣”など言ってましたが、いかにイージスがあろうと、特殊部隊編成しようと、戦車及び戦闘機の性能を向上させようと、部隊訓練度を向上させようと、有事の際動けない自衛隊で何が自衛隊だ!
私は、国防を望み自衛官を志した。
後輩にも教育したよ。
”消防は火を消すために命を掛ける。警察は悪い奴捕まえるのに命を掛ける。じゃあ自衛官は何に命を掛ける?演習?訓練?違うだろ!奴らが対処できない状況のときのために命を掛けるんだよ”
それが出来ない公務員主義で入隊した自衛官は即刻退職すべき。
有事の際、職務放棄されたらたまらんから。

そして国民は、もっと自衛隊の存在を知ってください。
なぜ動けないのか、なぜ何も出来ないのか、何が障害になって動けないのか。

前向きな建設的な国防、国を守るということ、真剣に考えていきませんか?


*今回の内容は賛否両論と思います。”議論しても無駄””話がこじれるだけ”と判断するコメントには一切返信いたしません。ただ私は究極の平和とは”全く兵士も武器もない状態である”という理念はございます。戦争がしたい元特殊部隊員ではありません^^*