瀬戸内に面する塁堡的海賊城・高崎城 | 全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記

瀬戸内に面する塁堡的海賊城・高崎城

竹原周辺には小早川の配下の武将の城郭が多く確認される。


もともと小早川氏はこの竹原の木村城を居城としていたことが大きな理由であろうが、その後の小早川氏の性質(水軍の将)から考えると、この地を重点的に管理し、瀬戸内海の水運掌握のため、各城郭の維持整備を行っていたと思われる。


これら竹原の豊臣期に存在した城郭は現在本格的な調査は行われていない。


唯一発掘調査が行われた、この高崎城も、現在公民館が建設され、本丸には神社が鎮座する状況で、遺構が決して良好な状態で残るとはいえない。


しかし、立地条件や、現在の地形から推測される概略の縄張りから、河口に配され海に面した塁堡的要素の強い海賊城として、出入港時に重要な任が化せられていた城郭であったであろうと考えている。


【歴史】

15世紀に築城されたといわれるが、詳細不明。小早川氏が水軍掌握するにあたり小早川家臣・天野弾正が居城。としたといわれる。

周辺の城郭と同じく関が原合戦後に廃城となったと思われる。

【縄張り】

河口側に舌状に郭が広がり、高宮八幡宮に本丸があったと考えられる。正面は海が広がり、立地条件からしても海を意識して築城されたことは存分に理解できる。


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<河口側の郭から本丸側を見る>


本丸が存在した八幡宮正面はすぐ海が広がる。現在道路となっているが船着場を配するには丁度いい場所であるからして、往時は城郭周辺に船着場が配されていたのではないだろうか?


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<本丸に鎮座する高宮八幡宮>


【遺構】


本丸を土塁が巡る。
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<本丸の土塁>

その他本丸西側は人道となっており、本丸と周辺の地形から、本来は空堀であると推察する。


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<本丸西側の空堀と思われる遺構(現・人道)>


【織豊系城郭要素】

現集会所地点の発掘調査で軒丸瓦が一点出土している。瓦はこれ一点である。珠紋と巴の間に圏線をめぐらせるタイプの軒丸瓦は毛利氏の豊臣期の城郭で多く確認されており、その他の特徴からも、この瓦は豊臣期の瓦であることは間違いなかろう。

ただ現在のところ、この一点のみであることが気になるところであり、”城郭に伴う瓦”であったのか、二次的流用であったのかは不明である。

その他、石垣は確認されておらず、戦国期の毛利氏の城郭レベルの石積みしか確認されておらず、現在のところ織豊系城郭と評価することは難しい。