全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記 -3ページ目

小西行長の居城から加藤清正の隠居城へ・肥後宇土城



【はじめに】

小西行長の居城として著名な本城郭も、関が原後の加藤清正の改修の洗礼を受け、大名居城から肥後加藤藩の支城へと在り様が大きく変容したことは、考古学的調査からも知られるところであるが、今もあくまで本城郭は”小西行長”の居城としてPRされている。



本丸には本城郭の象徴として小西行長の像が立ち、地元の方から親しみをもたれているのは、彼の善政の賜物かもしれない。

関が原で滅亡した小西氏の存在は抹消され、加藤清正のカラーが県全体に広がっているにもかかわらず、この地元の名君をたたえる宇土の人々のあり方に改めて日本人の美しさを感じた。



【沿革】

宇土城は、”宇土古城”と呼ばれる中世城郭と、一般的に”宇土城”と呼ばれる本城郭の二つが知られる。

本城郭は天正15年の豊臣秀吉による九州征伐後に築城が開始されたといわれているが、肥後国衆一揆が沈静化した天正17年から本格的に築城されたようである。



関が原までは、肥後の南の府城とし、小西行長が治めるところとなっていたが、関が原での西軍の敗北と小西行長の刑死により、本城郭は加藤清正に摂取されるところとなり、本城郭も”清正好み”に改修された。



改修された箇所は主に本丸といわれ、残存する本丸石垣を確認しても、熊本城との類似から納得させられる


清正は本城郭を、隠居城にする予定であったといわれるが、清正の病死後の慶長17年(1617)には廃城となった。

この廃城に関しては、元和一国一城令に先立ち、外様大名の加藤氏に対し、幕府からの威圧があったとも言われ、同様のケースは、安芸福島藩でも行われている。

【縄張り・遺構】




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<宇土城縄張り図に一部加筆(南九州談話会資料より)>

本丸西から南そして東を包むように二の丸が展開する。

北側は総構えの堀が本丸塁線の際まで迫り、手薄な感を否めない。


大手は縄張り図向かって右側の二の丸東側に存在したと伝わるが現状では遺構を確認することは出来ない。

〔外堀〕

現在も外堀の痕跡は明確に残存している。

顕著に確認できるのは、城郭中心部から向かって西側から北側である。


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<南西側の外堀の屈折部分>

このあたりは搦め手口と伝わり、現在住宅が建っている付近は堀に対し張り出し、枡形の形状に見える。


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<堀に対し方形に張り出した区画>

南西から、真南にも今は湿地となりつつも外堀の名残を今でも見て取れる。

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<南側の外堀>


~~本丸~~

最も本城郭の遺構が残存しているのは本丸であろうかと思う。

奇跡的に慶長期に廃城になりながらも、ありがたい。


主郭部北側の本丸と二の丸を区画する空堀に面して、本丸の石垣が部分的に残存する。

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<本丸南西隅の石垣>

縄張り図を見ていただければご理解いただけるかと思うが、この地点は本丸の南西隅でもあり、塁線から張り出した格好になることから”天守”が存在した箇所ではと感じている。


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<本丸の塁線から明らかに張り出している”天守跡”仮説部分の塁線>

丁度画像の白い看板が有る地点が石垣の隅角になろうが、破却の様相を見せ、更に法面にまで崩落が進んでいることからも、破却の際重点的に取り壊されたのではと感じる。

ただ本城郭においては埋没していたこともあり最も石垣の残存状態が良好な箇所でもある。


よく知られることであるが、現在地上に現れているこの石垣は二分の一程度であり、城郭が機能していた時期は相当な高石垣であったことが確認されている。


本丸南の塁線は現在でも屏風折れ状の塁線を確認できる。

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<本丸南の凹んだ塁線部分の石垣>

画像の右側の石垣の部分は、遊歩道が塁線から張り出し伸びている。

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<張り出した遊歩道は本丸大手では?>


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<枡形状張り出しの内側>


概ね枡形の形状になるこの遊歩道区画は、本丸大手虎口のように感じる。

形状からしたら、外枡形であったように見える。


堀をはさんで反対側に位置する二の丸塁線も屈折しており、二の丸と本丸の虎口が堀をはさんで連携した格好に見えてならない。


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<外枡形状遺構を堀をはさんで反対側の二の丸の横矢遺構>

~~小西段階からあまり改変されていない本丸東側~~


割合直線的な塁線を見せる西側に対し、南側から東側は屈折した塁線になる。

更に特徴的なのは、この方角には帯郭が確認されることである。


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<本丸南東下の屏風折れの塁線と内堀の現状>

更に、本丸の郭面でも東側は腰郭が確認されるなど、高石垣構築技術が未発達であった時期の痕跡を確認できる。


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<本丸東側(小西行長像裏側)の腰郭>


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<横矢の痕跡を僅かにとどめる本丸北東の塁線>


更に本丸東側の法面の裾には、本城郭でも古風な野面積みの石垣も僅かに確認できた。


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<本丸東側の野面積みの石垣>

これらから推察するに、加藤清正の改修はあくまで本丸の西側を主に改修したのではと推察した。

割合直線的な塁線を見せる西側は居館的城郭に多く見られる塁線であり、隠居城として改修したという伝承を信用したとき、西側の塁線はこの伝承に考古学的な信憑性を付け加えるように思える。


<瓦から見る加藤清正の改修>

慶長13年銘の滴水瓦(軒平瓦)の出土が知られるが、廃城4年前に作事のための資材を製作していたとしたら、清正による本城郭の改修年代は関が原後から随分遅れて行われていたように感じる。


隠居城というコンセプトの元の改修が故、早急さも無く、普請作業も部分的に終わったと推察する。

清正といえば”石垣の妙”が脳裏に浮かぶが、本城郭も縄張りの改変はそれほど行われず、主に天正期の石垣の弱点を”清正流石垣”に改修することが主だった目的に感じてならない。


そのためか、出土している瓦も小西段階のコビキAの瓦が支配的であり、どうしても作事しなければならない箇所のみ、新たな瓦(滴水瓦や桔梗紋軒丸瓦)を手配しなのではないだろうか?


















徳山藩発祥の地は豊臣由縁の地か?・周防下松城

【所在地】

山口県下松市桜町二丁目

http://www.chizumaru.com/map/map.aspx?x=474899.798&y=122603.552&scl=4700 #

【はじめに】

徳山藩と聞けば、大体の方が”周南市(旧徳山市)動物園周辺”に存在したことはご存知であろう。

この徳山藩、立藩当初は、徳山に藩庁をおかず、下松に藩庁をおいていた。

このこともご存知の方は多いかと存じるが、この初期徳山藩庁であった下松城に関しては、詳細な事柄は不明な点が多く、所在地もあまり知られていない。


我が長州においても、下松城の所在地を明確に知る人間は多くなく、史学的・考古学研究も検証も、調査も行われておらず知名度は低い。


萩藩は、長門国には萩城が所在したが周防には岩国城が存在し、元和令で岩国城は廃城になるが、幕府としては”周防の城郭”として存続しても差し支えないという見解であったという逸話が有る。

ただ、毛利宗家の”岩国城主吉川家”に対しての因恨故か廃城となり結果、周防には築城の猶予が徳山藩成立直後は顕在し”下松城”という名称で”築城”されたのではと推察している。


この下松城は、”陣屋”と明記されず”城”と各文献にも記載されており、構造などを検討するに重要な事項ではないかと考える。


”城”と記載されていることを裏付けるように、古絵図には、”天守様”の櫓まで記載されているともいい、本城郭を検討することは長州の江戸初期の城郭を論ずるに大変重要ではと考える。




更に私が本城郭に強く興味を持った理由に、豊臣秀吉が畿内より肥前名護屋に赴く際、この下松城近くの花岡に宿泊したとの文献が残ることである。

この宿泊した場所は現在、不明であり、憶測も推察もなされていないが、この下松城が何らかの関連を持っているような気がしてならない。(後述)

【沿革】

毛利輝元の子で毛利秀就の弟に当たる毛利秀隆元和3年(1617 )に3万石を分与されたことから立藩し、同時期に築城されたと思われる。


しかし就隆は江戸 に滞在することがほとんどで、実際に下松に入ったのは寛永15年(1638 )であった。なお、実際に幕府より藩として正式に認められたのは、寛永 11年(1634 )3月のことであった。


藩政においては萩藩とほとんど変わるところはないが、家臣団の多くは関が原 後に浪人した者や本家の藩士における三男などの取立てにより編成されていた。

慶安 3年(1650 )6月、下松は交通に適してないという理由から就隆は藩庁を同国徳山に移した。なお、徳山ははじめ野上と言われていたが、就隆が徳山と改称したのである。


【縄張り】


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<現状地形から縄張りを推察し、地図に加筆>


下松城の碑が建立される地点は、多少の高台となり、背後は丘陵となる。

南側に、直線的に二箇所、折れを持つ歩道が確認でき、城郭の枡形の痕跡ではと推察する。

もしこれが虎口とするなら、一直線に虎口を配する形式だけを見るなら、防御性の低い居館的な要素を強く感じるが、それぞれの虎口が内枡形であった可能性は高く、生粋の居館には感じれない。

特に、城郭中心部分の枡形痕跡と思われる両側は高さ3mを超える法面となり、現在は石垣で固められる。

現在の石垣が、城郭存続時のものとは思われないが、旧来から石垣で固められ、住宅地と変容しそのまま改修された結果と私は捉える。



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<中心部前面の石垣>


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<中心部枡形と推察する折れをもつ歩道>

石垣の基底部分は上部の石垣と趣を異にする。


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<内側から見た折れる歩道>


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<石碑周辺>

法面内側は広さがあり、本丸らしさが有る。

現在の町割から城郭の塁線を推察した際、陣屋形式の居館とは趣が異なり、横矢を多く用いていたように見受けられる。


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<石碑北側の屈折した町割り>



石碑の西側は方形の基壇状をなす。

現在駐車場となっているが、本来は櫓台であったのではないだろうか?
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<石碑(画像左端)西隣の駐車場>


この城郭が廃城になり新たに築造された徳山藩庁(徳山城)に比べはるかに城郭らしさが現在僅かに確認できる遺構からも感じることが出来る。


【下松の豊臣秀吉宿泊所】


最初に記載した”下松に於ける秀吉肥前名護屋動座時の宿所”であるが、本城郭の約600m北側に所在するお屋敷山なる地域に何らかの関連は無いかと私は考えている。

<お屋敷山と下松城の位置相関地図>

http://www.chizumaru.com/map/map.aspx?x=474741.549&y=122441.833&adr=35207&scl=20000&memo=1&tab=&lk=&msz=&svp=&moyo=adr&ex=474741.549&ey=122441.833&cat =


現在、お屋敷山は貯水場となり、山頂は何ら意向らしいものも無く、言い伝えも無い。

桜の名所となってはいるが、”御屋敷山”という意味深な名称に触れる文献はなく、遺構・遺物も存在しないことから、現在のところ、空想に過ぎない状況にある。


ただ、現在下松市花岡周辺及び市内に確認される城郭の中で秀吉が宿泊するに値する遺跡は無く、寺院も存在しない。


だとしたら、現在遺跡として我々が認識していない箇所に何らかの痕跡があるのではと考えてみたくもなる。


何の屋敷も無く”御屋敷山”などと言う名称を、平凡な丘陵に関するというのもこっけいに感じてならない。


【瓦】

下松城から確認出来る瓦は慶長期のものは無論ないが、比較的古風な中心飾りの軒平瓦は確認できた。

コビキBの瓦も確認できた。

元和以降の築城の瓦のためか、焼成は良好で、硬質である。


なお、御屋敷山からは瓦は確認していない。

盆栽と城郭

誤解されることもあろうかと思い、こんな話でもたまには書いときます。
アメーバという閉鎖された世界で私のことを変な誤解に受け止められ方も居られる方もいるかもしれませんので。


私はリアルな世界に於て、学者、識者の方からも様々な指摘も頂き批判も頂いている。まだまだ未熟ゆえ当然。そしてこれからもまだまだそんな日々を超え成長するだろう。
盆栽も全国では無名であり、修行中であり人に偉そうに言える立場ではない。
ただ観点や視点が違う人と話ても平行線であり交わらないとは感じるが、そこはお互い不可侵であるべきと感じる。

模擬天守が在るゆえ認識される城もあり、結果城に興味を持ち始める人もいる。

たとえば百名城も城に興味を持ち始める方が増えた結果は大きい。
ただ城という共通点があっても見方が違うのは当然。
体を良くするという目的でも鍼灸治療、整体、アンマ、手術、投薬、リハビリ、などなど様々な方法があるのと同じかなと感じる。(医学関係者様すんません。)

最近になり以前のぐるっぽ閉鎖を痛く反省している。
主旨をきちんとすべきだった。

でも自身を唯我独尊とは思ってはいないし、狭い世界で生きているわけでもない!
嫌われてもいるが、それなりに仲間もいる。
下僕でなく仲間!
無論、師もいる!
世間に排他されてもいない!

何をどう見て、勝手に憶測し、変なメールを私に送ってきているのか不思議でたまらない。

あまりに中傷が酷いので、通報させてもらった。

今までアメーバを始めてこれほど憤りを感じたこと、嫌になったことはない。

瓦を限定的に使用し整備した海賊城・安芸俵崎城

【所在地】

広島県尾道市瀬戸田町

http://www.chizumaru.com/map/map.aspx?x=479465.933&y=123792.794&scl=4700


【はじめに】


城郭を訪問する際に先ず必要なのは情報収集かと思う。

その城郭の沿革、縄張りなどを踏まえ、現地で踏査を実施すると、見えないものも見えてくる。


私は主に訪問する城郭を、城郭大系で洗い出し、その後発掘調査報告書などで情報収集に移ることが多い。

その他、情報提供頂き、訪問する場合も無論有る。


織豊期城郭及び、織豊系城郭を踏査する私は、沿革や縄張り図を主眼に、訪問先を決めるのだが、全く織豊系城郭の要素がなさそうに見えても、瓦なり、石垣なり、塁線、技巧的な虎口が発見され、目からうろこであることがある。


今回ご紹介する俵崎城は、恥ずかしい話ながら、存在すら知らない城郭であった。

しかし幸運なことに、広島城南で発見されたほぼ完形品の金箔鯱瓦の展示で知ることとなった。

縄張りや石垣は技巧性は一件見られないものの、瓦が確認されたのだ。

【沿革】

城郭の存在する生口島は古くから小早川氏の領地であり、小早川氏の出城として築城されたと思われる。

15世紀に小早川の新庶家に当たる小早川惟平が生口氏を称し、本城郭の城主になる。

16世紀前半、生口氏の動向は史料ではあまり見られないようであるが、村上水軍とは別の小早川氏の直轄水軍として本城郭で活躍したのであろう。

天正4年(1576)の石山本願寺に対しての毛利氏の物資補給において、生口景守の従軍が史料に確認される。

ただこの人物の居城は、芸藩通史では同じ島に所在する”茶臼山城”であり、規模からも本城郭は、支城として機能した可能性が高い。


廃城年代は明確ではないが、出土遺物から海賊停止令以降も何らか機能したと私は推察しており、およそ16世紀末から関が原後の毛利氏の防長二州への移封後に廃城になったのではと考えている。


【縄張りと遺構】


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<俵崎城縄張り図>

現在、道路改良工事により4郭の北側はほぼ消滅した。

1郭(本丸)も急傾斜且つ、きちんとした遊歩道が無いので、這い上がるようにして到達するしかない。

一般的には2郭までは、耕三寺側から遊歩道が存在し、郭や石組み井戸が確認できる。


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<北側から見る俵崎城>

画像に映る真新しい道路の部分が4郭の所在した箇所になる。


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<左側の低い地点が4郭の北東隅地点>


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<南東の厳島神社側から見る、俵崎城>

標高は30mで低い丘陵に位置し、本来は海に突き出たような半島状の地形であったといわれ、まさに海城である。



2郭は一番本丸と連動した様相の郭である。


現在、2郭に至る道は、本来虎口があったようにも見え、北西側に突き出た箇所は虎口への横矢掛にもみえる。
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<2郭北西側の突き出た塁線>



3郭は井戸郭又は水の手郭と呼ぶに相応の井戸が確認できる。

2郭から一段下り展開する3郭の南東下に狭小な郭が所在し、井戸が確認できる。

井戸郭を一二三段にする形は戦国期から織豊期の山城にしばしば見られる構造である。


ただ現在の見事な石組みが城郭が機能したときからのものか多少疑問を感じる。
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<3郭の石組み井戸現状>


現在消滅した4郭は1郭の北西に横長に展開する郭であった。

帯郭的要素が強いが、北西に塁堡状に突き出した一角もあり、本城郭においての戦闘の要といえよう。

ただし先にも述べたが、現在は見る影も無い状況である。


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<削り取られ、法面を改修された1郭北西及び4郭の現状>


1郭はどうみても本丸である。


切り立った切岸であるが本来は、2郭⇒4郭⇒本丸という登城路であったのではないだろうか?

部分的に法面は石垣も構築されたようにも感じ、列石も見られ、残石のような岩も見られる。


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<2郭直上の切岸>

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<1郭南西側切岸>

*非常に危険なので、本城郭の1郭の法面の踏査及び、平坦地の確認は自己責任でお願いします*


1郭は発掘調査により木々が伐採され、よく確認できる。


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<1郭南側から北を撮影>

1郭の北西には僅かながら高まりが確認できる。これは同時に横矢掛にもなることから、周辺の戦国期の城郭にない先進的な要素の遺構に感じる。

この周辺の法面に確認される列石も推察要素の一つである。
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<1郭北西の高まり>


付近には礎石も残存する。

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<礎石>

但し、重層建築物建設のためのものとしては、稚拙に感じる。


【部分的に見られる織豊期に改修されたと思われる痕跡】

画像では分かり辛いかと思うが、縄張り図を改めて確認したとき

①・・・4郭北西の塁堡状の塁線

②・・・1郭北西の高まり及び、石列

③・・・2郭の北西塁線

④・・・2郭南東の虎口状遺構

などは、在地系の小規模な海城にしては進んだ技巧を感じる。

更に、発掘調査において、織豊期に比定出来る瓦も少数ながら確認されていることから、多少ではあるものの織豊系城郭要素を取り入れ改修されたと考えてよいように感じる。


【瓦】

先にも述べたが、4郭及び1郭から確認されている。

軒丸瓦は僅か2点であるが、巴の尾は圏線を描き、古風な作風であることから豊臣期に何らかの瓦葺建造物が存在したことは間違いないであろう。

瓦も北東側に集中し、比較的新しい城郭遺構も北東側に集中することは、この方角をビジュアル的に意識して改修したことも考えられる。

ただあまりに少ない出土量の少なさから、櫓などに大量の瓦を使用していたとは考えにくい。


発掘調査報告書ではコビキAのような表現をされているが、現物を見たところ、コビキはBのみのようである。

焼成はよい。

戦国の名城から、豊臣の畿内防衛の山城へ・丹波八上城

【始めに】


八上城と聞くと”波多野一族の居城”であるとか”明智光秀の母が磔になった”というイメージが強く湧き、私自身まさか豊臣期に整備そして機能し、現在目の当たりに出来る主たる遺構は豊臣期のものということなど思いもしなかったの正直な答えである。

これは、波多野氏に対するイメージの強さ故に起こった短絡な結果ではと思う。


近年の城郭における考古学の進化は目覚しく、文献では戦国期に”廃城”という考察がなされていたものの、実は存続或いは再度機能することとなり織豊系城郭に進化していたというケースが多く発表されることとなり、短絡な廃城年代の定説が多く覆されるところとなった。


同様のケースが丹波周辺でも、黒井城も然り、摂津芥川山城、河内烏帽子岳城と複数存在する。

これは、石垣の詳細なる研究、城郭における瓦の位置づけ、虎口の研究、塁線の発達などの戦国期の城郭には無い織豊系城郭の特徴が定義されたことの賜物であろう。


今回紹介する八上城もその一つで、戦国期の城郭遺構と考えられてきた石垣などは、豊臣政権時のものと考えられるのが現在では普通となり、その他の遺構も主郭部は豊臣期のものと考えられる箇所が多い。

確かに城郭中心部以外に展開する郭郡は戦国期の波多野氏の遺構と受け止めるが妥当と考えられるが、今後は様々な角度から、城郭の創始廃城を慎重に考察する必要性を強く感じる。


【城郭沿革】


石見の人ともされる波多野稙道が戦功をあげて永正年間に多紀郡郡代に就任した際、多紀郡多冶山に築城して居城としたことから八上城の歴史が始まる。弘治3年(1557)に一度松永久秀によって城を奪われたが、永禄9年(1566)に波多野晴道、秀治が奪還した。

天正3年(1575)に織田信長の命を受けた明智光秀による攻略が開始され、毛利氏や>赤井氏の支援があったものの天正7年(1579)に落城し波多野氏は滅亡した。

この合戦で、明智光秀の母(伯母とも)が磔になった城としても知られるが後世の創作という説もある。

その後は明智光秀の丹波統治の城郭として機能し、本能寺の変後は豊臣秀吉の畿内防衛の城郭として重要視される。

城主の中に後の五奉行となる前田玄以が見られるところは注目されるところであろう。

慶長7年(1602)、子の前田茂勝が八上五万石を領するが。 慶長13年(1608)に改易され、新たに松平康重が入封する。

しかし篠山城を築城したため八上城は廃城となった。

篠山城は、豊臣氏の住まう大坂城を包囲するための築城であり、この地が如何に畿内攻防において重要であったかを物語る。

【縄張り・遺構】


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<現地案内板より八上城の縄張り図>

南山麓に居館を配し、狭小な稜線に本丸を中心に概ね屏風状に郭が展開する。

先にも述べたが、本丸、二の丸、三の丸は豊臣期のものと思われる石垣、礎石も確認でき、主郭部は織豊系城郭に改修されたと考えて間違いはなさそうである。

ただ、虎口に関しては横矢が掛かる程度のものであり、卓越した豊臣期の技巧的な枡形の様相を見せない。

更に本丸北側においては多角形の郭塁線であり、天正期に改修されたままの状態で、大規模な普請工事はなされず、廃城を迎えたように感じる。

近隣の同時期の城郭で黒井城が存在するが、算木積みの技巧性や、郭の塁線、及び虎口の技巧性など本城郭のほうが古さを感じることを否めない。



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<山麓居館部の塁線の土塁>

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<同上>


山麓部から山頂部は高低差もある。

更に東西の広がりも大きく、稜線に出てから主郭部を見上げるとその高低差には圧倒される。

高低差のある稜線をうまく生かし、狭小な郭のみの弱点をカバーしている。



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<茶屋の丸から見る主郭部>


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<上茶屋の丸から主郭部>



伝右衛門丸から本城郭の様相は一気に変わる。

枡形虎口というわけではないが、折れを伴う虎口で横矢が掛かり、石垣も見られる。


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<伝右衛門丸下の堀切り>
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<崩落した石垣残石>


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<伝右衛門丸の塁線石垣>



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<同石垣隅角の状況>

この地点の石垣が最も自然な状態で残存しているが、隅角部の崩落や石垣天端の状況から慶長の廃城時の破却の痕跡ではと感じる。



伝右衛門丸の上は伝三の丸そして二の丸と続く。

登城路に対し、横矢が掛かるように郭が配される。


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<三の丸は左側の登城路に対し、切岸が形成され、横矢が形成される>


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<左が二の丸>



二の丸の上に本丸が造られる。

虎口も明確で、礎石も確認できる。多少内枡形となり、本城郭の虎口において最も進化した形を感じさせる。
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<本丸西側の内枡形遺構>


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<本丸側から内枡形を確認>


但し一段高い本丸の中核部に開口した二つの虎口は、豊臣期の城郭として評価したとき間違っても優れた技巧性を感じれないような、簡単な虎口である。


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<本丸”仮称”上段西側からの状況>


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<本丸”仮称”上段北側の坂虎口>



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<本丸東側の坂虎口>


これらの虎口が従来のものか多少疑問に感じるが、少なくとも卓越した技術の枡形を形成していたとは現在の遺構からは考えにくい。


先にも述べたが、本丸上段の塁線は多角形で文禄~慶長期の畿内の他の城郭と比較した場合やはり古さを感じる。


ただ、石垣を観察すると、天正期の石垣と考えられる箇所から、豊臣期末の石垣と感じられる箇所と少なくとも二期の石垣の時期差を見て感じることが出来る。

郭を大幅に改修するなど大規模な普請は、無かったように見られるが、小規模には改修されながら現在の姿になったのではと感じる。


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<東側の虎口付近の小ぶりな自然石材で構成された石垣>


全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記
<本丸北側の割合成形され大きさの有る石材で構成された石垣>



現状から本丸上段は新旧の石垣が混在し一応総石垣の姿であったと塁線の石垣の残存の状況から感じる。

ただ後世の破却そして、資料に見られる篠山城への石材のリサイクルの結果か、一部塁線は法面がむき出しの状態になっている外、隅角部の破損が見られる。


全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記
<本丸北東隅角部現状>


全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記
<本丸北西部の塁線>


全体的に見て、本城郭が国指定史跡レベルの貴重な城郭遺跡であることは間違いなかろう。

しかし、その評価は”豊臣期の山城”というより”戦国期の波多野氏の城郭”としてや”明智光秀の攻略した城郭”という感触が強いように感じる。

確かにこれた二点の評価は、歴史ファンにとっては非常に興味を湧かせる事実であろうが、遺構の多くは豊臣期の遺構が多い。


もし本城郭の評価を現実的に”豊臣早期の山城の遺構”とした場合も決して文化財的な重要性が落ちることにはならない。

キャッチフレーズとして”波多野氏の城郭””明智光秀か攻略した城郭”もいいであろうがもう少し主観的に評価し、本城郭本来の重要性を再検討する必要性があるのではと私自身は感じる。

【瓦】

案内板では二の丸、本丸から出土したと記載してあるものの、現在全く確認できない。

近隣の同時期に機能していた黒井城から天正期のコビキAの瓦が出土しているので慶長末期まで機能した本城郭からも瓦が確認されても何らおかしくはない。

ただ瓦葺建造物が林立していたとは現状では考えにくく、今後も情報を収集していきたいと考えている。

ブログコンセプトの変更

こんばんは、天承庵・影照です。


このブログも随分たくさんの方に見ていただけるようになったようで、様々な検索で来訪いただけるようになりました。

無論、一番多い検索ワードは城郭関連の用語や特定の城郭名なのですが、以外にも”広域城郭研究会”というキーワードでの検索の方も多く居られ、アメーバ以外のお客様も訪問される様になり、そしてこのブログの存在も、全国の研究者様にお知らせさせていただきました。


したがいまして、今までと流れが変わり、”ふざけた”ことを書いてる状況になくなってまいりました。

ですので、近日以下の内容を変更し、今までのようなおちゃらけた人間によるちょっとマニアックな城郭ブログというスタイルから、織豊期城郭の情報発信源になるべく前進指定校かと考えている所存です。


よって以下の内容を変更させていただき、従来のスタイルから本ブログのスタイルを変更していく所存です。

①プロフィール

②一部の”くだけた話”の内容の削除




今後、”広域城郭研究会”を真の研究会にするためにも本ブログを進化させるときは来ました。


ただ私自身、城郭オンリーの人間ではなく、盆栽そしてアジアのハコガメが好きだという顔もございますので、盆栽の記事やカメの記事は少ないですが、更新していきます。


どうか皆様、ご理解いただきますようお願い致しますとともに、今後ともご協力、ご鞭撻のほどよろしくお願い致します。


天承庵・影照

存続は僅か10年。豊臣秀次一代限りの名城・近江八幡城

【所在地】

滋賀県近江八幡市鶴翼山

山麓部からロープーウェイ有

山麓居館は近江八幡市図書館裏の公園から向かって左方向。但し現在竹やぶとなる。


【はじめに】


近江商人発祥の地として知られる近江八幡市は、現在観光工業の町として発展している。

近江商人発祥につながったのは、この町を発展させた悲運の関白として知られる豊臣秀次という意見でほぼ一致するところであろう。


天正13年(1585)に近江八幡に赴任した豊臣秀次はたった5年の在城期間ながら様々な政策を取り入れ、この町を発展させ、今でも豊臣秀次はこの町の英雄とされている。

ただ意外にもその秀次の居城として機能した近江八幡城はあまり知られるところでないようで、”近江八幡城”と明確な記載がされた案内板を市街地では見ない。


現在山頂部の遺構を見ても豊臣期の石垣が良好に残存し、国指定史跡レベルと私は感じ、まだまだクローズアップされるべき城郭と再感しながらの訪城となった。

【歴史と時代背景】

先にも記載したが、天正13年に豊臣秀次により安土城に変わる新たな近江の中心地として築城される。

豊臣政権が安定するる以前は無論”安土城”が近江の中心としてそして信長自身の居城として機能していたのだが、本城郭を築城するに当たり、安土城は完全に機能を失い結果、落城後の安土城の焼け残った建造物や石垣石材などをリサイクルしたと伝わる。


よく、”近江八幡城の山麓部の大手道と安土城の大手道”の共通性が唱えられる。現遺構を観察しても両城ともに大胆且つ壮大な直線道の両脇に家臣団屋敷らしき雛壇状の郭を配しており、安土城に替わる新たな近江の中心地としてや、織田色を払拭し新たな時代の到来を周辺に知らしめる目的があったとも思われる。

天下が豊臣のものとなり、世相が平穏になったこの時期にあえて一族の豊臣秀次がこの急峻な山城を築城した目的は、豊臣政権の首都である大坂や京を守護するという目的があったともいわれ、事実大坂周辺においてこれほど大規模な豊臣期の山城は、本城郭と佐和山城しか見当たらない。

全国的に見ても大名の居城で山城は急激な減少傾向時期であり、大規模な石垣や連動した山頂部の郭配置を見てもいかに本城郭が密命を帯びた城郭であったかを如実に感じさせられる。

無論全国に残存する豊臣期の山城において、これほど完成度の高い城郭は石田三成の佐和山城、但馬竹田城くらいしか見当たらない。


天正16年(1588)に豊臣秀次は、清洲城に移る。

その後二年間、本城郭が誰により管理されていたか明確ではないが、豊臣政権或いは豊臣秀次の管轄で維持されていたと思われる。

天正18年(1590)から、本城郭は京極高次が2万8千石で入城し管轄するところとなるが、五年後の文禄4年(1595)には廃城となり、高次自身は6万石を以って大津城を築城し、移ることになる。

廃城とした理由は諸説あり、

①京極氏の石高では管理が出来なかった。(現実的な説)

②豊臣秀吉が、名君誉れ高かった秀次色を払拭するため。(政治的な説)

など言われるが、上記二説とも信憑性を感じる。


以後、本城郭は昭和37年(1962)に秀次の菩提寺である瑞龍寺が本丸に移るまで、人知れず永い眠りに入る。

【縄張り・遺構】


全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記
<近江八幡城全体縄張り図>織豊期城郭研究会発刊”織豊期城郭の瓦”より


本城郭は、大分別して”山頂部”の遺構と”山麓部”に別れ、山頂部を近江八幡城、山麓部を秀次居館と呼ぶこともあるが山頂と山麓が連動し”近江八幡城”が機能していた訳であるから名称を分ける必要性はない。


山城部は鶴翼山山頂に位置する本丸を中心に稜線沿いに、南西に西の丸、南南東に二の丸などの郭を展開し、北側は本丸直下に狭小な北の丸が配され一条の空堀が中核部と出城的な尾根を遮断する以外は織豊系の明確な遺構が確認されておらず南を意識した城郭であることは一目瞭然である。

大手道も南に向き、本城郭が南を意識した縄張りであったことに納得させられる。


全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記
<一際高く聳え立つ鶴翼山(近江八幡城遠景)>


《山麓部遺構》

現在発掘調査を元に整備が行われているようであるが、今回訪問したときは放置状態に近かった。

山麓部の大手道を挟み左右に展開する”称・家臣団屋敷”の雛壇状郭の石垣が一部整備され展示されている。


発掘調査では、居館の礎石は粘土で封印されるように埋没されていたことが判明し、新たな城郭破却のスタイルが確認された。

秀次の封印という意味で、本城郭も訪問しやすい居館部は30センチもの分厚い粘土で封印したのであろうか。

それに対し、石垣は多少破却されてはいても、比較的良好に残存していることから、江戸期の軍事的無力化を目的とした破却と一線を画す”存在隠滅を目指す”或いは”城主の封印”を考える破却と考えられ大変興味深い。

同様のケースに長崎県の原城が上げられる。

両城とも政権の大敵のシンボルの城郭である。
全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記
<山麓部”称”家臣団屋敷の石垣>

これより山に向かい進むと、山麓部の大手門が所在した大規模な内枡形虎口が現れる。


全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記
<大手道現状>




全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記
<山麓部大手門の内枡形現状>


非常に大規模な枡形で、圧巻させられる。


全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記
<居館側から見た山麓部大手枡形>



石垣は高さや算木積み技法などから天正期においての最先端であったことが伺え、慶長期の石垣に見られるような鏡石状の巨石も確認できる。
全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記
<枡形石垣に組み込まれた巨石>


枡形を回り込むように左に曲がれば、存城時における山頂部への道が存在したと思われ、僅かに痕跡をとどめる。


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<山頂部への道>


発掘調査で出土した広大な殿舎建築の礎石は発掘調査から何年も経過したにもかかわらず対策は講じられておらず、ブルーシートに覆われ、落葉が積もる有様である。


全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記
<殿舎建築の礎石が眠る居館部郭面>


後述するが、山頂部の複雑な塁線に相反するかのように、山麓部は直線に近い塁線であることも大きな特徴で、あくまで居館部は政務及び生活重視であったことを物語る。

《山頂部遺構》

全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記
山頂部の縄張りを観察すると、本丸南に開口する枡形虎口、北側に配される狭小な郭、西に展開する割合広さの有る郭などは、同時期に縄張りされた”肥前名護屋城”に似るように感じる。

両城の郭を相対させると、

八幡山城の出丸=名護屋城の弾正丸

八幡山城の二の丸=名護屋城の三の丸+東出丸虎口プランの縮小版

八幡城北の丸=名護屋城遊撃丸

と共通性を感じ、縄張りからも最新技術の戦闘的な城郭であったことをうかがわせる。



因みにリフトから降車する場所はすでに二の丸である。



~二の丸~


全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記
<二の丸南側石垣>





全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記
<二の丸西側の横矢掛を持つ石垣>



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<二の丸虎口>

両脇には櫓台が配され櫓門の存在を感じさせる。


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<二の丸虎口南側の櫓台>


~本丸~

二の丸虎口から本丸虎口までは直ぐではあるものの、二重枡形となりかなり厳重な構えを見せる。


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<本丸二重枡形の二の丸側開口部>



これをくぐれば本丸に至る最後の枡形が現れる。


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<本丸に至る最後の枡形>

昭和37年に瑞龍寺がこの地に移転した際、石垣も多少改修されたと思われるが、ほとんどが当時の石垣と思われ、貴重な遺構である。




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<枡形内部>



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<本丸から枡形を見下ろす>

その他後述する天守所在地点以外の本丸の石垣は概ね残存する。




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<本丸西側の櫓台状に張り出す石垣>




全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記
<本丸西側の横矢掛と算木積み残存状況>



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<本丸北東側の張り出した石垣>



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<本丸東側石垣>



細かく屈折した塁線で横矢が掛かるように石垣が構築されている。


~天守所在箇所~

天守は枡形虎口の向かって左側、本丸南西隅に所在したといわれ、事実とすれば本丸虎口に対し強力な攻撃力を発揮する箇所に配されている。

丁度この箇所の石垣はほとんど崩落している。

この地点に天守が存在したと考えた場合、城下町側に面するため、ランドマーク的な存在感も充分に発揮出来ることから、再度納得させられる。


この地点の石垣の残存状況が著しく劣悪なことも、後世の破城のケース(天守台隅角部の破壊)に見られる傾向であり、この地点に天守が存在した可能性は更に高まる。


全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記

<本丸南西の石垣崩落地点>


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<本丸南西の石垣。これより南側はえぐられた様に石垣が無くなっている。>


~西の丸~

西の丸は現在、琵琶湖を見渡す展望台に成り果てており、記念撮影をするには格好の箇所である。

捉え方を変えれば、存城時は琵琶湖を監視する役割があったのではと感じる。


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<西の丸から見る琵琶湖。手前に礎石が確認できる>




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<礎石配置近撮>


最も本丸と連動した郭と感じる。


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<西の丸から見る本丸>




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<西の丸西側の櫓台>


~出丸~


本丸に次ぎ塁線の石垣の残存状態が良好な郭であろうかと思う。

塁堡状に突き出た郭で、山頂を目指す攻め方に対しての攻撃力は充分であろう。

但し、塁線は直線であり、横矢を持たないのは本城郭において異色である。


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<出丸北側の塁線の石垣>




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<出丸北西隅角部の崩落状況>



~北の丸~

出丸同様直線的な塁線の郭であるが石垣は良好に残る。但し傾斜がきつく、郭から見下ろし、石垣を撮影した。



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<北の丸全景>



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<直線に続く北の丸石垣>


これらの遺構は天正期に築城された当初のまま残存するもので、後世の改修を受けず現在に残る非常に稀な城郭遺跡であり、この時期の標準化石ともいうべきところであろうかと思う。

又、先にも述べたが江戸期以前の特殊な破却を確認できる城郭としても貴重である。

本城郭の重要性、価値がきちんと認識されれば、国指定史跡になる日も近いかと思う。

整備の進行を切に願う。

【瓦】

確認される瓦は全てコビキBである。

焼成良好なものと軟質なものとの差が極端である。


山麓部の飾り瓦は全てといっていいほど金箔瓦であるのに対し、山頂部の飾り瓦の金箔瓦の割合は極端に低い。

軒先瓦は豊臣秀吉自身の城郭の大坂城、聚楽第などの瓦と共通するものも確認できることから、築城に際し秀吉からの技術援助があったと容易に推察できる。

又、安土城の軒丸瓦の文様に類似するものも確認でき、秀次自ら編成した南都系の瓦職人も築城に際し、瓦を作成したのではと推察する。

入隊3ヶ月の新米自衛官たち

平成九年3月。


我々ははれて陸上自衛官の任務を拝し、山口駐屯地に配属され、前期教育課程を受けることになる。


教育課程と聞くと、まるで”資格取得講習”みたいであるが、完全なる、自衛官としての”教育”である。


国防に対する意識改革や、武器の扱い、上下関係の認識、諸動作(敬礼)など、そして初歩的な戦闘技術の習得・・・。


入隊して一週間目位の夜だったと思う。

皆、勢いで自衛官になったものの、銃など物騒なものを毎日見ることで、カルチャーショックを覚え、不安職が濃厚になって、皆で話し合った。


内容は・・・”戦争になったらどうする?”という内容。


同期全員が満場一致で”絶対逃げる!”

と言ったことを記憶している。

思い残すことは18歳の若者にはたくさんあるのは当然で、家族や、恋人、様々な想いを皆が熱く語ったことを思い出す。



日に日に訓練は自衛隊らしさを増し、銃の実弾射撃、戦闘訓練、そして行軍(20㎞)、研修で特攻隊基地のあった山口県徳山市の大津島に行くにつれ、みなの表情に変化が現れ始めたように感じる。

二ヶ月もたつと最早18歳のはつらつとして若者らしい表情ではなく、何か”洗脳された”人間のように集団化した人間と化していった。

激化する訓練も、皆脱落することなくクリアしていき、何事も”全力疾走”する姿は退廃的を大人らしさとする同年代と一線を画すものになった。


皆が”絶対拒否”したレンジャー訓練、空挺教育隊など精鋭部隊に対しての憧れも日に日に強くなった様に感じ、直属の幹部自衛官に前期教育終了後の進路指導を相談しに行くものも増えた。


平成9年6月末頃、前期教育終了。


山口駐屯地で同じ学び舎で暮らした同期との短い生活が終止符を打つ。

遠くは北海道、多くは東海、関西に散っていき、又新たな生活を各自別々の駐屯地ではじめることとなった。


たった3ヶ月の同期という形式での生活・・・

それが、同期という枠を超え、”親友”という形式に変化するのに時間は比例しないと改めて感じた生活だった。

殴り合いの喧嘩もあったし、衝突も多かった。

でも、最後の夜は皆”恥を捨て”各自のベッドですすり泣き、別れを惜しんだものだ。


皆、今も”有事の際には戦う”という考えの人間は多い。

自衛官という職種がどのようなものか、自覚していることを最近元自衛官との交流の中改めて感じる。

たった三ヶ月で、友愛、そして国防というローティーンには理解しがたい現実を各自それぞれが答えを見つけ

そして巣立った。



何の仕事でも一番大切なのは”教育”であるということを聞いたことがある。

事実、大人になっても国のトップが狂乱していたら、異を唱えず、従い、間違いを間違いと捉えない。

したがって、教育が行き届いていない職場では合法であり非合法であり人間としての良識に欠ける人間が多いのも事実。


我々自衛官は教育に関しては万国の軍事組織の中ではトップレベルの教育らしい。

これは元自衛官で現在フランス外人部隊に所属している方もそう話されている。


自衛隊は決して世界最弱の部隊ではない。

あのひたむきにまっすぐに生きていた同期たちの顔を想い出してもうなずける。


だからこそ、退職後も洗脳が消えないのも事実。

退職し、やさしいにしろ、喧嘩っ早い奴にしろ、自衛官魂が消えず民間に溶け込めない人間のほうが多数と感じる。

それはあの前期教育の三ヶ月に形成されたと今更ながら感じる。

逆に前期教育や後期教育で脱落した奴らは民間でうまくやってるような気がする。


もし民間でうまくいかない元自衛官の人がこれを見たとしたら私はこう伝えたい。


”あなたは優秀な自衛官だから、外野でのプレーは向かない”のだと。

宇喜多氏の城郭から、小早川、池田氏の支城へと変化・備前下津井城

【所在地】

岡山県倉敷市下津井

JR瀬戸大橋線下津井駅下車。バスは少ないため、タクシーをお勧めする。

マイカー利用の際は城郭周辺は道が細く注意されたい。


【はじめに】

城郭好きになったのは、今から20年以上前になるが、凝り性になったのはそれほど年月はたっておらず、今年の7月でやっと10年を迎える程度のキャリアしかない所謂自分は、城郭の世界において古参ではない。


ただ、縄張り図も、石垣の新旧も、遺構を見分けることも出来なかった私が、多少城郭を語れるほどに成長できたことを、今更ながらうれしく感じている。


平成12年7月に、石見七尾城(島根県益田市)で、織豊期城郭訪問の楽しみを感じ、その年の12月末、初めての遠征をここ岡山県で行った。

そしてこの下津井城、常山城はそのときに訪問した記念すべき城郭でもある。

全く、虎口も、礎石の配置も、石垣も分からず訪問した初心の頃を回想し、再訪し新たなる気持ちで遺構を確認することで、今回じっくりと観察出来た次第である。


【歴史】

文禄年間に宇喜多氏により小規模な城郭が築かれたとの説がある。

慶長五年(1600)の宇喜多氏改易までにある程度の整備が宇喜多氏により行われたようであるが、明確な城主は不明。

関が原後からは小早川秀秋の家臣の平岡重定が入城し、整備し、小早川氏改易後、慶長7年(1602)に池田氏が更に整備したようである。

岡山県内の城郭でも、岡山城、津山城、備中松山城に次ぎ、縄張りや石垣の完成度が高い城郭として評価されている。

廃城は寛永16年(1639)で、元和一国一城令以降も機能したようであるが、これは四国と本州の航路の要衝として特例措置がなされたのであろうか?

但し、慶長以降にさかのぼる瓦は確認できず、整備は慶長年間で終わったように感じる。

【縄張り・遺構】


全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記
<下津井城縄張り図(織豊期城郭の瓦より)>


本丸を中心に東西に郭を配し、左右に縄張りを展開する独特な縄張りである。

天守台が、城郭の外郭に接し天守の戦闘能力を最大限に活用する縄張りは、朝鮮出兵時の倭城の縄張りの影響を感じさせる。

ただ、本城郭は、他の宇喜多氏の城郭と比較したとき、石垣、虎口など突出している。

宇喜多氏領内の城郭でこれほど整った城郭は、荒神山、金川など数例しかなく、宇喜多氏の城郭と見るより、関が原後の城郭として、現在の遺構を観察したほうが妥当に感じる。

現在二の丸下が駐車場になり、二の丸の見事な石垣が観察できる。


全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記
<二の丸の石垣>


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<二の丸東端の石垣>


大手は二の丸南側の虎口と伝えられる。


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<二の丸大手虎口>

ただ私個人としては二の丸西側の虎口が大手ではと感じる。

蓮郭式に展開する石垣作りの郭と空堀の連動性はこの城郭の中でもっとも技巧性がある。


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<二の丸の虎口>


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<二の丸虎口から見る西出丸への土橋>




東側へ展開する郭は三の丸から本丸へとつながる。


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<東出丸>

こちらの虎口は横矢を生かした虎口を形成する。


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<向かって右側に郭を配する三の丸虎口>
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<三の丸虎口近影>


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<三の丸から見る虎口>


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<三の丸虎口付近の櫓台>


本丸は北西隅に天守台を置く。


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<本丸南東隅に立つ石碑>


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<南側から見る天守台>

この城郭の縄張りを見ると納得できるが、北側の塁線は著しく横矢を多用するのに対し、南側の塁線は概ね直線的に仕上げられる。

これを改修時期の差とも捉えることはできようが、私個人としては、”北側の攻防を重点的に考えた城郭”であるが故の、結果と捉えている。

塁線以外の根拠として、

①天守の配置箇所

②石垣破却を北側に重点をおいている

という二点も加えたい。

本来海を意識して築城するような地形であるが、北側に重点をおいたと考えるのが妥当と感じる本城郭に今回非常に強い関心を覚えた。


三の丸北側には更に井戸郭が残存するが、ブッシュに埋もれる格好である上、周辺の道が悪く、非常に危険であるので確認されたい方は注意されたい。


全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記
<井戸>
全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記

<井戸郭南側に見る本丸石垣>

【改修時期は?】

先にも述べたが、石垣や縄張りは、慶長5年を下限とする他の宇喜多氏の城郭(居城岡山城を除く)の中では突出しており、無論現在の遺構の全てを宇喜多氏のものと考えるのは到底無理があるように感じる。


本城郭のような倭城系の天守配置の縄張りの城郭は、関が原前よりむしろ関が原後の城郭に多く見られる。

類例の縄張りに周防岩国城(山口県岩国市)を私は比例したい。

郭配置などに違いはあれど、天守配置の同様事例は、安芸亀居城(広島県大竹市)、長門櫛崎城(山口県下関市)など倭城の影響は関が原後の軍事緊張の中、西国の外様大名の間に広まったのではと感じる。


では本城郭を現在の姿にしたのは小早川秀秋かという考えも浮上するが、小早川はお世辞にも城郭縄張りに長けていないことが他の備前、美作の城郭からも見えてくる。

小早川秀秋の管轄として存続した宇喜多氏の城郭は本城郭以外に、美作林野城、美作医王山城、備前金川城

備前虎倉城、備前富田松山城があるが、金川城以外は虎口、石垣ともに稚拙で、概ね宇喜多氏の縄張りを踏襲し部分的な改修で終わったと捉えるのが妥当な城郭が多い。


従来より本城郭は慶長7年(1602)に入封した池田長政により改修されたと伝わり、遺構からも納得させられる。

ちなみに金川城も、小早川氏滅亡後慶長7年(1602)備前に入封した池田氏の元でも機能しており、本城郭と併せて改修されたのではないだろうか?

【瓦】

従来本城郭を改修するに当たり、廃城とした常山城の瓦をリサイクルしたとの伝承がある。

しかし岡山の研究者の方によると常山城と本城郭と同一の瓦は今だ発見されておらず、伝承に対しての再考が必要に感じる。

但し、同系列の岡山城二式並行の瓦(コビキA)の瓦は確認されており、宇喜多氏時代から瓦葺建造物が存在したということだけは間違いなさそうである。

但し、現在確認できる瓦はほぼコビキBであり、ここからも本城郭は関が原後の織豊系城郭であるという認識で良いように感じる。

宇喜多氏の山城の完成形を感じる・備前常山城

【所在地】

岡山県玉野市字藤木



JR宇野線常山駅正面より、登山道有。山頂付近まで車道もある。

【毛利の拠点から、宇喜多の要衝へ。】

児島半島北岸中ほどの備前富士と呼ばれる美しい様相の山に築かれたこの山城は、宇喜多の山城としては関が原合戦直後まで存続した貴重な山城である。


宇喜多の山城は、文禄年間以降、本格的な普請を行わず、作事重視のビジュアルを強化した城郭がほとんどであるものの、この城郭は石垣、瓦、礎石が確認され、宇喜多の山城の中でも突出した感を否めない。


これは毛利と織田の戦闘が本格化した際の本城郭の性質や、立地条件からして備前平野の押さえとして重要であったこと、そして瀬戸内海への交通を監視するに適した地であることなどの結果と私は考えている。


10年前に訪問し、久しぶりとなる常山城で見分し感じたことをここにしるし、微量ながらも諸氏の情報元となれば幸甚である。

【城郭の歩み】

明確な築城年代は不明。

応仁の乱頃、児島郡を支配した国人の上野氏が築城したといわれている。

上野氏は戦国期を周辺諸侯と手を結ぶことで、本城郭を拠点に勢力を固めていく。

更に戦国期後半の当主である上野隆徳が備中の戦国大名の三村元親と血縁関係になることで益々上野氏は隆盛する。これにより、本城郭は三村氏にとって敵対関係であった宇喜多氏への前線拠点として、重要性は高まっていった。


しかし、その隆盛が最終的には上野氏が毛利氏と三村氏の衝突たる備中兵乱に巻き込まれる結果となる。


毛利氏は、三村氏一族を壊滅させると、掃討作戦を展開する。


天正2年(1574)三村氏最後の拠点となった本城郭を毛利の大群が押し寄せ、婦女子まで戦闘に参加するいわゆる”常山合戦”という悲劇の篭城戦になる。

この戦で上野氏が滅亡すると、毛利氏は城番を配し、天正4年(1576)には毛利氏傘下であった宇喜多直家の預かるところになり、宇喜多氏の重臣戸川秀安が入城する。


暫くし、宇喜多氏は毛利氏に対し反旗を翻し、織田方に属すことになり、再び本城郭は、毛利氏の攻撃を受けるところになるが、これを宇喜多氏は撃退し、以来廃城まで宇喜多氏の支配するところとなる。


関が原後、宇喜多氏が備前から去ると、新たな備前の支配者小早川秀秋の支配するところなり、重臣伊岐真利が入城するも、慶長8年(1603)秀秋の病死によるお家断絶をきっかけに廃城となる。

伝承として、本城郭の廃材を備前下津井城改修に転用したといわれるが、考古的には立証されていない。

【縄張り・遺構】


全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記
<縄張り及び周辺地形>

二方向に雛壇上に郭が展開し、本丸、栂尾丸、青木丸、惣門丸は石垣造りとなり、先にも述べたとおり、宇喜多氏の山城としては珍しく石垣を多用していることが確認できる。

他の宇喜多氏の石垣造りの山城は、天神山、三石、荒神山、が著名なところであるが、本城郭と比較したとき、明らかに技巧性を異にし、いかに宇喜多氏が本城郭を重要視したかを感じることが出来る。


現在栂尾丸には電波塔が建設されているが、比較的遺構は良好に残存する。


全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記
<栂尾丸現状>

栂尾二の丸は現在、駐車場となり遺構面はアスファルトの下に埋没している。

栂尾丸から直線的に本丸まで郭が配されるが、途中に設けられた虎口は小規模ながら、クランクを形成した虎口となり、技巧性を見出すことが出来る。


全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記
<青木丸の石垣作りの枡形虎口>



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<北二の丸のクランクとなる虎口>


本丸に残存する石垣は西側に良好に残存する。更に西側の郭面には礎石が確認され、石垣と共存する礎石から本城郭の象徴的な建造物の存在をここに仮想させる。又この地点がもっとも瓦の散布も多いこともこの仮想を強くさせる。


全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記
<本丸北側の石垣>



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<露頭する本丸礎石>
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<本丸西北の石垣>


縄張り図では本丸が方形に表現されるが、元来は多角形であったと思われ、事実石垣の隅角部は直角とならない。

概略形成された石材で構築された石垣ではあるが、隅角部や石材加工の具合から、現在見る本城郭の遺構は概ね文禄年間のものではと感じる。


全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記
<本丸生西北石垣隅角部>

破城のせいか、塁線状に分断した格好で石垣が残存しているが、周辺の宇喜多氏の石垣と比較することで、宇喜多氏の城郭の進化、そして石垣技術の進化を観察でき、本城郭の存在意義は大きい。


【瓦】

現在のところ、採取されている瓦、散布する瓦においても全てコビキA。

岡山城2式(岡山市教委情報)の瓦が主体で、石垣とも年代が合致する。

下津井城の瓦と同系のものも確認されているものの、全く同じものは確認されておらず、伝承を再検討する必要性がある。


【補足観光情報】

紅葉が見事でもあり、眺めも抜群。板屋紅葉の紅葉を楽しみながら城郭散策も乙ではなかろうか?