戦国の名城から、豊臣の畿内防衛の山城へ・丹波八上城 | 全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記

戦国の名城から、豊臣の畿内防衛の山城へ・丹波八上城

【始めに】


八上城と聞くと”波多野一族の居城”であるとか”明智光秀の母が磔になった”というイメージが強く湧き、私自身まさか豊臣期に整備そして機能し、現在目の当たりに出来る主たる遺構は豊臣期のものということなど思いもしなかったの正直な答えである。

これは、波多野氏に対するイメージの強さ故に起こった短絡な結果ではと思う。


近年の城郭における考古学の進化は目覚しく、文献では戦国期に”廃城”という考察がなされていたものの、実は存続或いは再度機能することとなり織豊系城郭に進化していたというケースが多く発表されることとなり、短絡な廃城年代の定説が多く覆されるところとなった。


同様のケースが丹波周辺でも、黒井城も然り、摂津芥川山城、河内烏帽子岳城と複数存在する。

これは、石垣の詳細なる研究、城郭における瓦の位置づけ、虎口の研究、塁線の発達などの戦国期の城郭には無い織豊系城郭の特徴が定義されたことの賜物であろう。


今回紹介する八上城もその一つで、戦国期の城郭遺構と考えられてきた石垣などは、豊臣政権時のものと考えられるのが現在では普通となり、その他の遺構も主郭部は豊臣期のものと考えられる箇所が多い。

確かに城郭中心部以外に展開する郭郡は戦国期の波多野氏の遺構と受け止めるが妥当と考えられるが、今後は様々な角度から、城郭の創始廃城を慎重に考察する必要性を強く感じる。


【城郭沿革】


石見の人ともされる波多野稙道が戦功をあげて永正年間に多紀郡郡代に就任した際、多紀郡多冶山に築城して居城としたことから八上城の歴史が始まる。弘治3年(1557)に一度松永久秀によって城を奪われたが、永禄9年(1566)に波多野晴道、秀治が奪還した。

天正3年(1575)に織田信長の命を受けた明智光秀による攻略が開始され、毛利氏や>赤井氏の支援があったものの天正7年(1579)に落城し波多野氏は滅亡した。

この合戦で、明智光秀の母(伯母とも)が磔になった城としても知られるが後世の創作という説もある。

その後は明智光秀の丹波統治の城郭として機能し、本能寺の変後は豊臣秀吉の畿内防衛の城郭として重要視される。

城主の中に後の五奉行となる前田玄以が見られるところは注目されるところであろう。

慶長7年(1602)、子の前田茂勝が八上五万石を領するが。 慶長13年(1608)に改易され、新たに松平康重が入封する。

しかし篠山城を築城したため八上城は廃城となった。

篠山城は、豊臣氏の住まう大坂城を包囲するための築城であり、この地が如何に畿内攻防において重要であったかを物語る。

【縄張り・遺構】


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<現地案内板より八上城の縄張り図>

南山麓に居館を配し、狭小な稜線に本丸を中心に概ね屏風状に郭が展開する。

先にも述べたが、本丸、二の丸、三の丸は豊臣期のものと思われる石垣、礎石も確認でき、主郭部は織豊系城郭に改修されたと考えて間違いはなさそうである。

ただ、虎口に関しては横矢が掛かる程度のものであり、卓越した豊臣期の技巧的な枡形の様相を見せない。

更に本丸北側においては多角形の郭塁線であり、天正期に改修されたままの状態で、大規模な普請工事はなされず、廃城を迎えたように感じる。

近隣の同時期の城郭で黒井城が存在するが、算木積みの技巧性や、郭の塁線、及び虎口の技巧性など本城郭のほうが古さを感じることを否めない。



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<山麓居館部の塁線の土塁>

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<同上>


山麓部から山頂部は高低差もある。

更に東西の広がりも大きく、稜線に出てから主郭部を見上げるとその高低差には圧倒される。

高低差のある稜線をうまく生かし、狭小な郭のみの弱点をカバーしている。



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<茶屋の丸から見る主郭部>


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<上茶屋の丸から主郭部>



伝右衛門丸から本城郭の様相は一気に変わる。

枡形虎口というわけではないが、折れを伴う虎口で横矢が掛かり、石垣も見られる。


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<伝右衛門丸下の堀切り>
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<崩落した石垣残石>


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<伝右衛門丸の塁線石垣>



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<同石垣隅角の状況>

この地点の石垣が最も自然な状態で残存しているが、隅角部の崩落や石垣天端の状況から慶長の廃城時の破却の痕跡ではと感じる。



伝右衛門丸の上は伝三の丸そして二の丸と続く。

登城路に対し、横矢が掛かるように郭が配される。


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<三の丸は左側の登城路に対し、切岸が形成され、横矢が形成される>


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<左が二の丸>



二の丸の上に本丸が造られる。

虎口も明確で、礎石も確認できる。多少内枡形となり、本城郭の虎口において最も進化した形を感じさせる。
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<本丸西側の内枡形遺構>


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<本丸側から内枡形を確認>


但し一段高い本丸の中核部に開口した二つの虎口は、豊臣期の城郭として評価したとき間違っても優れた技巧性を感じれないような、簡単な虎口である。


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<本丸”仮称”上段西側からの状況>


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<本丸”仮称”上段北側の坂虎口>



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<本丸東側の坂虎口>


これらの虎口が従来のものか多少疑問に感じるが、少なくとも卓越した技術の枡形を形成していたとは現在の遺構からは考えにくい。


先にも述べたが、本丸上段の塁線は多角形で文禄~慶長期の畿内の他の城郭と比較した場合やはり古さを感じる。


ただ、石垣を観察すると、天正期の石垣と考えられる箇所から、豊臣期末の石垣と感じられる箇所と少なくとも二期の石垣の時期差を見て感じることが出来る。

郭を大幅に改修するなど大規模な普請は、無かったように見られるが、小規模には改修されながら現在の姿になったのではと感じる。


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<東側の虎口付近の小ぶりな自然石材で構成された石垣>


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<本丸北側の割合成形され大きさの有る石材で構成された石垣>



現状から本丸上段は新旧の石垣が混在し一応総石垣の姿であったと塁線の石垣の残存の状況から感じる。

ただ後世の破却そして、資料に見られる篠山城への石材のリサイクルの結果か、一部塁線は法面がむき出しの状態になっている外、隅角部の破損が見られる。


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<本丸北東隅角部現状>


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<本丸北西部の塁線>


全体的に見て、本城郭が国指定史跡レベルの貴重な城郭遺跡であることは間違いなかろう。

しかし、その評価は”豊臣期の山城”というより”戦国期の波多野氏の城郭”としてや”明智光秀の攻略した城郭”という感触が強いように感じる。

確かにこれた二点の評価は、歴史ファンにとっては非常に興味を湧かせる事実であろうが、遺構の多くは豊臣期の遺構が多い。


もし本城郭の評価を現実的に”豊臣早期の山城の遺構”とした場合も決して文化財的な重要性が落ちることにはならない。

キャッチフレーズとして”波多野氏の城郭””明智光秀か攻略した城郭”もいいであろうがもう少し主観的に評価し、本城郭本来の重要性を再検討する必要性があるのではと私自身は感じる。

【瓦】

案内板では二の丸、本丸から出土したと記載してあるものの、現在全く確認できない。

近隣の同時期に機能していた黒井城から天正期のコビキAの瓦が出土しているので慶長末期まで機能した本城郭からも瓦が確認されても何らおかしくはない。

ただ瓦葺建造物が林立していたとは現状では考えにくく、今後も情報を収集していきたいと考えている。