宇喜多氏の山城の完成形を感じる・備前常山城
【所在地】
岡山県玉野市字藤木
JR宇野線常山駅正面より、登山道有。山頂付近まで車道もある。
【毛利の拠点から、宇喜多の要衝へ。】
児島半島北岸中ほどの備前富士と呼ばれる美しい様相の山に築かれたこの山城は、宇喜多の山城としては関が原合戦直後まで存続した貴重な山城である。
宇喜多の山城は、文禄年間以降、本格的な普請を行わず、作事重視のビジュアルを強化した城郭がほとんどであるものの、この城郭は石垣、瓦、礎石が確認され、宇喜多の山城の中でも突出した感を否めない。
これは毛利と織田の戦闘が本格化した際の本城郭の性質や、立地条件からして備前平野の押さえとして重要であったこと、そして瀬戸内海への交通を監視するに適した地であることなどの結果と私は考えている。
10年前に訪問し、久しぶりとなる常山城で見分し感じたことをここにしるし、微量ながらも諸氏の情報元となれば幸甚である。
【城郭の歩み】
明確な築城年代は不明。
応仁の乱頃、児島郡を支配した国人の上野氏が築城したといわれている。
上野氏は戦国期を周辺諸侯と手を結ぶことで、本城郭を拠点に勢力を固めていく。
更に戦国期後半の当主である上野隆徳が備中の戦国大名の三村元親と血縁関係になることで益々上野氏は隆盛する。これにより、本城郭は三村氏にとって敵対関係であった宇喜多氏への前線拠点として、重要性は高まっていった。
しかし、その隆盛が最終的には上野氏が毛利氏と三村氏の衝突たる備中兵乱に巻き込まれる結果となる。
毛利氏は、三村氏一族を壊滅させると、掃討作戦を展開する。
天正2年(1574)三村氏最後の拠点となった本城郭を毛利の大群が押し寄せ、婦女子まで戦闘に参加するいわゆる”常山合戦”という悲劇の篭城戦になる。
この戦で上野氏が滅亡すると、毛利氏は城番を配し、天正4年(1576)には毛利氏傘下であった宇喜多直家の預かるところになり、宇喜多氏の重臣戸川秀安が入城する。
暫くし、宇喜多氏は毛利氏に対し反旗を翻し、織田方に属すことになり、再び本城郭は、毛利氏の攻撃を受けるところになるが、これを宇喜多氏は撃退し、以来廃城まで宇喜多氏の支配するところとなる。
関が原後、宇喜多氏が備前から去ると、新たな備前の支配者小早川秀秋の支配するところなり、重臣伊岐真利が入城するも、慶長8年(1603)秀秋の病死によるお家断絶をきっかけに廃城となる。
伝承として、本城郭の廃材を備前下津井城改修に転用したといわれるが、考古的には立証されていない。
【縄張り・遺構】
二方向に雛壇上に郭が展開し、本丸、栂尾丸、青木丸、惣門丸は石垣造りとなり、先にも述べたとおり、宇喜多氏の山城としては珍しく石垣を多用していることが確認できる。
他の宇喜多氏の石垣造りの山城は、天神山、三石、荒神山、が著名なところであるが、本城郭と比較したとき、明らかに技巧性を異にし、いかに宇喜多氏が本城郭を重要視したかを感じることが出来る。
現在栂尾丸には電波塔が建設されているが、比較的遺構は良好に残存する。
栂尾二の丸は現在、駐車場となり遺構面はアスファルトの下に埋没している。
栂尾丸から直線的に本丸まで郭が配されるが、途中に設けられた虎口は小規模ながら、クランクを形成した虎口となり、技巧性を見出すことが出来る。
本丸に残存する石垣は西側に良好に残存する。更に西側の郭面には礎石が確認され、石垣と共存する礎石から本城郭の象徴的な建造物の存在をここに仮想させる。又この地点がもっとも瓦の散布も多いこともこの仮想を強くさせる。
縄張り図では本丸が方形に表現されるが、元来は多角形であったと思われ、事実石垣の隅角部は直角とならない。
概略形成された石材で構築された石垣ではあるが、隅角部や石材加工の具合から、現在見る本城郭の遺構は概ね文禄年間のものではと感じる。
破城のせいか、塁線状に分断した格好で石垣が残存しているが、周辺の宇喜多氏の石垣と比較することで、宇喜多氏の城郭の進化、そして石垣技術の進化を観察でき、本城郭の存在意義は大きい。
【瓦】
現在のところ、採取されている瓦、散布する瓦においても全てコビキA。
岡山城2式(岡山市教委情報)の瓦が主体で、石垣とも年代が合致する。
下津井城の瓦と同系のものも確認されているものの、全く同じものは確認されておらず、伝承を再検討する必要性がある。
【補足観光情報】
紅葉が見事でもあり、眺めも抜群。板屋紅葉の紅葉を楽しみながら城郭散策も乙ではなかろうか?