全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記 -36ページ目
<< 前のページへ最新 | 32 | 33 | 34 | 35 | 36

加賀前田藩の城郭(第一回) 加賀大聖寺城

本丸西奥に存在する櫓台 縄張りの話の途中で終わってしまいすいません。まだブログを使い慣れていないが故のミスです。写真も複数掲載して一度に見せたいのですがよくわかりません。

では縄張りの所見を述べたいと思う。

本丸を目指し登城すると一か所折れを伴う虎口を確認できた。また本丸から北東に存在する郭に向かう途中に枡形と思われる空間を確認できた。しかし西国の城郭のように横矢を多様はしておらず、又枡形も一か所と防御性機能は低い。山口宗永の主君、小早川秀秋は丹波亀山城、筑前名島城と居城を移ってきているがいずれも天守をあげ織豊系城郭に改修しているのに対しこの大聖寺城は積極的に織豊城郭化されたようには見受けられない。大きな要因として小早川秀秋の本拠、筑前から遠く離れていることもあろうが北陸地方自体、在地系の城郭を積極的に縄張りを織豊城郭化しなかったのではないだろうか?拠点的な城郭(その国の中心的な城郭)、たとえば敦賀城、北庄城、金沢城、福島城(新潟県)などは織豊系の様相を示すが、地区をまとめる目的のような城郭は戦国期の縄張りの様相を強く残している。例として、東郷槇山城、後瀬山城、石川県、富山県の織豊期の諸城など。ただ例外はあるとだけ申し上げておく。

しかし天守ということになると話は違ってくるのかもしれない。大聖寺城の本丸西隅に大きな櫓台が確認される。大きさからいって天守台といっても過言ではない大きさでここに大聖寺城のシンボル的な建造物があったと想像される。縄張りは織豊化しなくても天守を本丸の片隅に上げるだけで、周辺諸侯、周辺民衆への政治的、精神的影響を与えることができるので、そういった簡易な織豊化をしたのかもしれない。しかしこの櫓台周辺でも瓦片は確認されず、天守的な重層建築が存在しながら瓦は使用しない城郭だったようである。

逆に重層建築は上げず外観は瓦の使用のみで周辺へのアピールをしたようなケースも北陸のみではないであろうが見受けられる。

現在の最終的遺構は前田藩により整備されたのであろうが、天守などの重層建築と瓦という高級建材を使い美観を合い備えた城郭ではなかったように思われる。

石垣はこの櫓台の側面にわずかに痕跡をとどめており又本丸に大きな石が転がっていることからこの櫓台もしくはその周辺は石垣づくりだったと考えられる。

では第一回を終わらせていただきます。

最後までご覧いただきありがとうございました。

加賀前田藩の城郭(第一回) 加賀大聖寺城

大聖寺城を望む 北陸本線大聖寺駅から北に向かうと大聖寺城のあった錦城山が目に入ってくる。一枚目の写真は麓からの写真だが、単なる山にしか見えない方も多いと思う。織豊期の城郭は、ほとんどが元和一国一城令の犠牲となっているので現在は山林、住宅街あるいは消滅といったケースが少なくない。大聖寺城はその中でも地元の方が整備されており、又藩政時代立入禁止とされていたため遺構を良好に残す。また麓に駐車場もあり自家用車での訪城にもありがたい。

地元では関ヶ原の合戦の際、西軍についた小早川秀秋の将、山口宗永の居城として知られているが、その後前田藩時代も存続し、元和一国一城令(1615年)まで存続する。

織豊期城郭の要素として石垣、礎石建物、瓦があげられるがこの大聖寺城には発掘がされていないので礎石の確認はできない。瓦も確認はされない。しかし前田藩初期の城郭で瓦を使用した城郭は現在本城の金沢城のみしかない。話はそれるが前田藩の城郭で瓦が確認されるのは先に述べた金沢城、小松城、富山城のみで私個人の考えとしては、小松、富山両城の瓦は元和令以前の瓦には見受けられない。過去この大聖寺城で石製の鬼瓦が発見されたという話はあるがその資料の所在は不明で詳細を確認することはできない。もしこの鬼瓦が元和令以前のものだとしたら前田藩の西の最前線の城郭として重要視されていた表れとなろう。ちなみに笏谷石(しゃくだにいし)製の瓦を葺く例は北陸の越前地方のみに見られる例で他の例としては福井の丸岡城、北乃庄城、一乗谷朝倉氏舘、東郷槇山城などがある。縄張りに目をやるとだ縄張りは広大で近世城郭の影響を感じるものがある。

<< 前のページへ最新 | 32 | 33 | 34 | 35 | 36