全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記

城郭とは天守だけを指すと考えていたのは私が小学校3年生の時でした。

城といえば天守があり、高石垣が存在し、華やかな場と思っていました。

時いくばくも経たず、地元の中世山城に訪問したら、天守どころか、石垣も存在しません。


城郭とは天守を含めた建造物すべて、天守がない場合は構成されている建造物全てと、石垣、そして堀、城郭を構成する全てを含めて【城】と表現するのが通常だったのです。

無論石垣の存在しない城郭も沢山あることはご存知の通りで、土塁、空掘程度の城郭のほうが多いでしょう。


私達現代人は城=天守と思いがちですが、それは織豊期に畿内で発生した瓦を使用した重層建築物の出現から(主説は信長の二条城、多聞山城、坂本城、)急速に全国に広がった文化であり、全国に3万~4万ある殆どの

城郭は現代人が思うところの【砦】のような様相だったのです。


城郭研究の世界、いや歴史を研究されている方全ては安土桃山時代と表現されず、【織豊期】と表現します。

織とは・・・織田信長の織。豊とは豊臣秀吉の豊です。この二人の華やかな好みが現代人のイメージする城郭の姿に直結していると言っても過言ではないでしょう。このときに花開いた織豊城郭文化は日本のルネッサンスと言われ、江戸時代が終わるまでの城郭文化の基礎ともなって生きます。

現在織豊期に出現した技術、文化を持つと推定される城郭は全国に300~400。それに織豊期に存在したと知られる城郭を含めた場合、1000以上になると思われ、とても私の一生では詳細に全ての調査対象を訪問することは難しいでしょう。


果て無き旅も、時間と共にある程度進んできました。

様々な方と出会い、ご教示いただき、そして研究協力体制も構築できたものの、後継者育成という大きな難問がありました。


ですが私の志を受け継ぐものもできたことで私の城郭研究の道はすでに何の問題もなくなりました。

各研究機関、研究者様とのパイプラインを更に強化し、万全の体制にし、城郭の本来の姿に迫るべく、猪突猛進の精神で頑張って行く次第です。



【当方訪問城郭】

<東京>:江戸城  

<千葉>:久留里城・千葉城・シンデレラ城(例外1汗

<神奈川>:石垣山城

<山梨>:甲府城

<静岡>:浜松城・掛川城

<長野>:高遠城・飯田城・松本城・上田城・松代城:小諸城

<岐阜>:岐阜城・黒野城:金山城:本郷城:岩村城

<愛知>:犬山城・清州城

<三重>:松ヶ島城・松坂城・神戸城・伊勢上野城・峰城・津城・田丸城

<富山>:富山城

<石川>:金沢城・大聖寺城・小丸山城・船岡山城

<福井>:丸岡城・小丸城・小浜城・高浜城・東郷槇山城・福井城

<和歌山>:和歌山城

<奈良>:大和郡山城・宇陀松山城

<滋賀>:長浜城・小谷城・安土城・近江八幡城・彦根城・水口岡山城・大津城・坂本城・大溝城・

<京都>:伏見(木幡山)城・聚楽第・周山城・山崎城・福知山城・舞鶴城・丹波亀山城

<兵庫>:姫路城・利神城・鶏籠山城・高砂城・赤穂城・船上城・三木城・由良城・岩屋城・洲本城・叶堂城・志知城・三田城・伊丹城・明石城・篠山城・黒井城・豊岡城・宵田城・但馬竹田城・御着城・湯山御殿・蛇山岩尾城・八上城

<岡山>:岡山城・金川城・徳倉城・虎倉城・沼城・冨山城・常山城・下津井城・撫川城・林野城・医王山城・岩屋城・荒神山城・笹葺城・津山城・経山城・備中高松城・鬼ノ身城・猿掛城・茶臼山城・備中松山城・明禅寺城

<広島>:広島城・亀居城・五品嶽城・尾関山城・三原城・神辺城・鞆城・福山城・新高山城・吉田郡山城・宮尾城・相方城・高崎城・鎮海山城

<香川>:高松城・丸亀城・引田城・聖通山城・

<徳島>:徳島城・撫養城・海部城・牛岐城・大西城・川島城・脇城

<高知>:高知城・佐川城・安芸城・宿毛城・中村城・浦戸城・岡豊城

<愛媛>:松山城・仏殿城・今治城・甘崎城・正木城・国分山城・来島城・宇和島城・河後森城・大洲城・湯築城・隈ヶ嶽城

<鳥取>:鳥取城・若桜鬼ヶ城・桐山城・鹿野城・打吹山城・黒坂城・八橋城・米子城・江美城・影石城・松崎城

<島根>津和野城・益田城・浜田城・山吹城・鵜丸城・物不言城・松江城・月山冨田城・瀬戸山城・三刀屋城

<山口>:萩城・岩国城・高嶺城・櫛崎城・笠松山城・三丘嶽城・荒滝山城・山口城・姫山城・障子ヶ岳城・茶臼山城・滝山城・大内居館・築山館・長山城・若山城・霜降山城・徳山城・下松城・勝山御殿

<福岡>:福岡城・鷹取山城・益富城・黒崎城・若松城・松尾城・麻底良城・小倉城・門司城・香春嶽城・岩石城・豊前松山城・馬ヶ岳城・柳川城・久留米城・福島城・津村城・松延城・城島城・猫尾城・名島城・立花山城・鷲ヶ岳城・荒平山城・二丈岳城・古処山城・高祖城

<大分>:中津城・一ッ戸城・高田城・竜王城・杵築城・高森城・安岐城・冨来城・日出城・大分城・佐伯城・臼杵城・岡城・日隈城・月隈城・角牟礼城・高崎山城・

<宮崎>:佐土原城・飫肥城・高鍋城・延岡城・

<佐賀>:佐賀城・蓮池城・須古城・武雄城・住吉城・肥前名護屋城(徳川陣・伊達陣・堀陣・豊臣秀保陣・前田陣・なども含め)・唐津城・岸岳城・獅子ヶ城・

<長崎>:神代城・諫早城・深堀城・沖城・大村城・平戸城・原城・日野江城・勝本城・亀本城・大智庵城・佐世保城

<熊本>:熊本城・南関城・内牧城・宇土城・麦島城・愛藤寺城・八代城・水俣城・佐敷城・津奈木城・隈乃庄城・人吉城・富岡城・河内浦城・才津城・久玉城

<鹿児島>:冨隈城



【相互情報交換機関】

北陸城郭研究会・織豊期城郭研究会・中四国中近世城館検討会・岡山市教育委員会・山口市教育委員会・八代市教育委員会・NPO法人福岡城を考える会・丸亀市教育委員会・高知県教育委員会


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人知れず 眠れる古城に 佇みて


想う儚き 武士の夢

         (もののふ)



     
 

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ありがとう、思い出のブログ

最後の投稿からもう、10年近く経っていたとはビックリしました。

今、文章を書いていますのは紛れもなく天承庵と名乗っていた本人です。
城郭大好きという度を越して、何よりも城郭第一主義を貫き生きていたのですが、いろいろと生き方を変えざるを得なくなりました(笑)

子どもが増え、仕事は多忙の多忙…。
城にいく回数はだんだんとショッピングセンターや遊園地など子どもたちが喜ぶものに変わり、城に行き発見した喜びは子どもや妻の笑顔を見たときの喜びに変わり、城の研究で得ていた達成感は仕事で何かをなし得たときの達成感へとかわり……。
私の生活の中に今、城の研究というものは全く欠片も残っていません。

でも城が嫌いになって疎遠になっていたわけではないので、今でも城に関する本は見ていますし、息子たちと100名城、続100名城に行ったりしてるんですよ!
ちなみに無勉強で城郭検定にも合格しました!
二級ですが!(笑)

そんな私ですが、城を巡り経験した思い出や出会った人たち、旅先での出来事は本当に人生での大きな財産、かけがえのない思い出として今も大切な宝物です。
今も思い出しては心から懐かしく感じる大切な宝物です。

そんな宝物を詰め込んである、宝箱もしくは僕のオモチャ箱かもしれないですが、それがこのブログです。

もう昔のように山城を文化財の目線で探索することもないでしょう…。
でも過ぎていった思い出は風化させたくないという僕のわがままをアメブロは残していてくれた。
10年の月日が経っても残っていて嬉しかったです。
運営されている皆様ありがとう!

そしてブログを見てくださっていた皆様本当にありがとうございました❗
皆様の人生が幸多きものであることを(全く城に関係しなくとも)お祈り申し上げます。

そして、私事ながらこれからもこの宝箱が残ってくれることを願って‼️

天承庵 影照

備前北曽根城(岡山県和気)

宇喜多氏の筆頭家老としても知られる明石全登の一族が支配したとも言われる城郭。

もしかしたら豊臣期にまで機能していてもおかしくない印象が否めないような石垣が主郭部大手(通称大手門跡)に見られ非常に興味をそそられる。

$全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記-北曽根城全体を望む
【北曽根城遠景】

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【主郭部西側塁線の石垣】
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【大手付近の石垣。残存具合は良好といえないが、石材は大振りであり間詰め石も見られしっかりした構造】
$全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記【主郭部大手の石垣。この石垣は現在根石に近い部分のみが残るような状況であるが、石垣が描く塁線はたどることが出来る。】
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【主郭部東側の切岸。石垣は現在認めることが出来ないが周囲に石垣にするには丁度いい石を確認することが出来る。過去には石垣で覆われていたのかもしれないが後世の石取り或いは破城で石材がなくなったのかは現段階では確実なことを述べることは難しい。】

$全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記【矢穴痕を見せる石材が存在し、この城郭が機能した時期が大幅に降る可能性もある。ただ後世の石取りの際の矢穴痕かもしれないので注意して判断したい。】

讃岐天霧城(香川県)

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【出郭】

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【主郭部虎口】
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【主郭部虎口内部構造】
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【主郭部を見上げる】
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【主郭部稜線に残存する石垣】
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【主郭塁線に構築された石垣】全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記
【主郭部石垣】

遠江二俣城

最近では豊臣期の堀尾氏の改修(織豊系城郭への改修)という説が定着してますこの二俣城。

結構な大きさのある枡形虎口、そして天守台。

いいですね!

天竜川の流れとマッチングして、ついつい長い時間家族と楽しんでました^^。
全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記
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全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記

天守台は残りがいいですが、虎口の石垣は残存具合はいいとはいえません。

天端石なんかはとくに。

これを破城の痕跡とも見れなくも無いかもしれませんが、むしろ後世の石取りでこんな感じになったのでしょう。

話によると、昔は本丸塁線は総石垣であったとか・・・・。

伊勢神戸城の石垣観察

神戸信孝(織田信孝)の居城として知られる神戸城ですが、その後も豊臣系新興大名の城郭として存続している関係からか、石垣を観察していると、時期の違いを感じさせられる箇所がある。

石垣の算木積みの箇所や転用石材など観察する箇所を総合して判断すると、果たして現在の天守台の石垣全てを信孝段階ということで決着をつけていいものだろうか?

石垣を構成する石材の中には矢穴痕があるものも存在し、この天守台周辺の石垣を”天正期の遺構”と決定することに一抹の不安を感じさせる箇所もある。

更に、現在の天守台の様相では確実に天守など重層建造物を建造するには、力学的に難しいような形状となっている。

現在の天守台を評価すると原型は信孝段階のものであったと考えられなくも無いが、豊臣政権下での改修が断続的に行われたと考えるのが妥当に思える。


$全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記【天守台】
$全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記【天守台に含まれる転用石材】
$全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記
【天守台西側の塁線を構成する古式な石垣】

伊賀名張城の遺構かな?

先日、三重に遠征しましたときの画像報告です。


伊勢に入封した藤堂高虎領の支城としてもしられる名張城ですが、一国一城令で廃城になり、その後の名張藤堂家(支藩ではない)の陣屋になったのですが、発掘調査では、名張城時代の石垣や瓦なども見つかっています。

ちなみに藤堂が入る前は、島原の乱で、知られる板倉重政の居城でもありました。


で、今は発掘調査も終わり、何の痕跡もなさげにみえましたが・・・
全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記
いい感じの石材で作られた石垣が・・・


石垣を構成する石材の中には・・・
全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記
こんな矢穴痕を持つ石材もあります。

矢穴が小さいほど確か新しい石材だったか、な?

ちょっと記憶が不鮮明ですが、何か名張城のものであって欲しいという主観的願望が高まります。


だって、今は”名張藤堂邸”にその存在感を上塗りされちゃってますから(泣)
全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記
(well came toudoutei!!)

実は蒲生氏郷も改修していた?!伊勢松ヶ島城

松ヶ島城といえば”織田信雄”というイメージは払拭できない当方であるが、私が最も注目する遺物である”瓦”から織田信雄段階以降も存続している可能性が出て来た。


ただ、瓦だけから生まれた可能性であって憶測にも及ばない状況なので、あまり大々的には申し上げることは控えたい。


単純に言えば、織田信長の金箔軒丸瓦は凹面に金箔を貼り付けるものであり、これは信雄が松ヶ島城の後に居城とした清洲城からも同様の瓦が確認されているためほぼ間違いないといえるのではないだろうか。

そんな中、私個人が見つけた資料及び、岐阜県で(何故岐阜県?)保管されている松ヶ島城の金箔瓦は凸面に金箔が貼られている。


今後の課題としていきたい。


全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記
<天守山(天守台か)を臨む。畦が当時の塁線を思わすように横矢掛かりになるような屈折を見せる。>


全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記
<付け櫓台があったのか?天守山には張り出した部分もある。>

初期宇喜多氏の織豊系城郭か?備前天神山城

従来天神山城は、浦上氏滅亡後は廃城となったということが定説であった。


しかし、馬屋の段という郭から出土する瓦から、本城郭の最終年代の可能性が広がった。


但し、土木的な遺構である、石垣などは稚拙な自然石を積み上げただけのものであり、織豊系城郭として機能した他の宇喜多氏の城郭とは比較にならない。


全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記

<主郭周辺の石垣>


虎口に関しては、多少折れを伴った様相を現在でも確認でき、周辺の戦国期の城郭の虎口に比べたとき、技巧の差は歴然である。


全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記
<主郭周辺の虎口>


瓦の出土箇所が何故本丸から数段下の目立たない郭に使用されていたのかということは非常に興味深い。

天守や櫓が建造されていたほどの瓦の出土量とは現在のところ断言できないが、馬屋の段周辺の切岸には高さも在り、枡形虎口のような技巧的な虎口遺構もある。

豊臣後期の城郭にも存在するが、虎口周辺のみ織豊化して本城郭は終末をむかえたのであろうか?


全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記
<高さを持つ枡形状遺構>

お知らせ

暫くブログ更新しておりませんことアメーバ各位並びに読者の皆様、定期的に閲覧いただいておられる皆様に深くお詫び申し上げます。
当方、当面の間このネット空間での城郭活動に関しまして暫くの間消極化させ、現実世界での活動報告に傾注していく方向です。

ネットでのやり取り、報告のメリットもありますが、どちらかと言うとデメリットが強いリスキーな感を否めません。

以前のような定期的な活動報告の方向にしていく時期などは未定です。

その時はまた変わらぬご指導ご鞭撻お願い申し上げます。

古風な縄張りと織豊系の郭の共存・岐阜岩村城

【所在地】

岐阜県恵那郡岩村町字城山


【はじめに】

長州から信州を目指すにあたり、途中下車せずに向かうにはあまりに苦しいので、途中日本三大山城として知られる、岐阜県の岩村城に寄ることにした。


同じ岐阜県でも、この岩村城が所在する地点は、岐阜市内とは標高がかなり違い、落葉松なども普通に生えており、高山性の植物も確認できるほどの標高である。


梅雨が訪れる前の訪問であったが、日差しが刺すようで紫外線を感じながらも、澄んだ空気も浴び、気持ちよい一日となった。


【沿革】


築城は文治二年(1185)、源頼朝の家臣加藤景廉と伝えられる。

景廉の子、景朝は遠山氏を名乗り、以来戦国末期までこの地を中心に、東美濃最大の勢力を振るうが、織田信長の美濃支配により、本城郭も信長の支配化となる。


織田信長支配下になった時点の当主、遠山景任に信長は叔母を妻に送り込む行為から、信長が本城郭を織田家一族の城郭扱い並みに重要視していたことを伺い知れる。

これほどにまで本城郭を重要視した理由は、すぐ東に勢力を振るう武田信玄の存在が大きいであろう。

事実、遠山景任死後の天正元年(1573)武田信玄の命を受けた秋山晴近により落城し、景任の後家となった信長の叔母は晴近と再婚した。


一説に、この信長の叔母は当時知られる美貌の持ち主であったとか。


しかし、この武田氏支配は短命に終わり、武田信玄の死、そして長篠の戦による武田氏の急速な勢力の弱体化により、再び織田信長の攻撃を受けることになり天正三年(1575)半年近くの篭城戦の末落城する。


落城後の話として、身の毛がよだつような逸話が有る。

落城し、信長に挨拶に来た秋山夫妻を信長は生きたまま逆さにし磔にしたという。

甥に当たる信長に生き地獄を味わされた叔母は、信長に呪いの言葉を吐きつけそして絶命したという。

主人であった晴近はこのような地獄の極刑に7,8日生き延びそして絶命したという。


秋山氏の後は川尻鎮吉が入城、天正10年からは森蘭丸の持ち城となり、その歴史的事実をキャッチフレーズに観光PRしている様子を城下町から山頂の本丸までいたるところで見ることが出来る。

この森蘭丸は本能寺の変で討死することは良く知られているが豊臣期に入っても暫く森蘭丸の弟忠政の支配が続き、慶長4年まで森氏支配が続いている。関が原直前には田丸具忠が入城するが、関が原で西軍に与したため所領没収と成り、江戸期には丹羽氏五代、その後は大給松平氏などの親藩支配が続き、明治維新を迎え廃城となる。

【縄張り・遺構】


全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記

<岩村城縄張り図>

本丸・二の丸は横矢掛かりや枡形虎口を配置し、織豊系城郭の縄張りを見出せるが、出丸や八幡郭などは本丸などの主郭部との共成度合いが低く、戦国期の郭配置のものを織豊系の石垣普請などで改修したように見受けられる。



全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記
<本丸から出丸を撮影。蓮郭式とも見えるが共存性が低い郭配置>


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<本丸西側の石垣>
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<本丸北の埋め門枡形内部現状>


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<本丸東側長局埋め門の外枡形を外側から撮影>


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<本丸・二の丸間の虎口現状>


天守は今のところ存在したという伝承も、遺構も確認されてはいないが、、縄張りからして天守を配置する箇所であろう本丸の南には二重櫓が建造されていた。


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<本丸南側の櫓台>

天守に相当するのは、大手門三重櫓で、現在も見事な枡形や櫓台の石垣が確認できる。


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<大手門三重櫓台の石垣>


【豊臣期の遺構】

画像で確認できるように、石垣のほとんどが石材の加工度合いが高い”切り込みハギ”状の石垣で、1600年代のものとは考えるには無理があるように見える。

具体的には古くても1700年代半ばくらいであろうか?

そんな石垣で構成された本城郭にも古風な石垣を確認することが出来る箇所が多少存在する。

本丸北東周辺には古い石垣が顕著に残り、不自然な石垣塁線となる。

画像右側は、明らかに本城郭の主体的な石垣の構築方法と技術を異にし、少なくとも豊臣期の遺構と考えて差し支えないと感じる。


全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記

<不自然な塁線、隅角となるうえに算木積みも古風>

周辺をみると石垣が古い。


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<本丸北東隅の石垣>

尚、主郭部から大手門に進んでいくと狭く長い郭を確認できる(縄張り図参照。大手門から氷餅蔵間)。

中世山城などではこのような狭長な郭を見ることが出来るが、その場合は稜線の狭さゆえであったり、そこまで土木技術が進化していなかったりの場合が多い。

本城郭の場合は、本丸など他の郭を見ても充分郭は広さを持っているので、この郭は意図的にこのように仕立てられたように感じる。


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<緩やかに傾斜を持つ狭長な郭>

この郭を見た場合、真っ先に頭に浮かぶのは私の場合”登り石垣”であるが、公認されている登り石垣が存在する洲本城や彦根城、伊予松山城、朝鮮半島の倭城のそれのように、山稜を区切り攻城側の横移動を遮断する効果はあまり見出せないので判断に苦しむところでは有るが、この”登り石垣状”の郭によって北側からの攻め手が南側に移動することは出来ないので、倭城以前の”登り石垣状”の遺構かもしれない。

古い登り石垣状の遺構としては明智光秀の城として著名な”丹波周山城”があるので両城の遺構の比較を行い私個人、今後の検討課題としていきたい。

【瓦】

発掘調査が行われており、織豊期の瓦から近世後半の瓦が確認されている。

http://dac.gijodai.ac.jp/vm/virtual_museum/database/jpg/2833/0002l.jpg

<岩村城出土瓦(岩村町歴史民族資料館蔵)>


朱紋は非常に小さく、巴の尾は僅かに離れている特徴は周辺の織豊期の城郭瓦と共通する。

但し現在城郭遺構に瓦は散見されず、近世まで存続した城郭ながら、積極的に瓦を用いなかった城郭なのかもしれない。

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