ケンカは良くないと、
いくら口で言っても、
日頃から注意していても、
ケンカがなくなるわけではありません。

兄弟喧嘩!
親子喧嘩!
夫婦喧嘩!

身内だけでもこれだけあるし、
当然、外でも起こります。

職場の同僚でも、
気の合う仲間同士でも、
友達同士でもケンカは起きます。



ケンカの原因は様々ですが、
根本的な原因は一つ!


それぞれの自分が「正しいと思っていること」のぶつけ合いです。


ケンカを始めた側だって、
言ったことをなんでやってないんだ!
なんで言うことを聞かないんだ!
なんで言った通りにできないんだ!
なんで分からないんだ!
(俺が言ってることが正しいのに。)
と思っている。


受けた側だって、
やりたくないからやってないだけ!
そのやり方が合ってるとは思えないだけ!
その言い方はおかしいんじゃないの!
冷静になって話せないあなたがおかしい!
(私が思ってることが正しい。)
と思っている。




結局、ケンカなんてお互いの意見の押し付け合い。
この世に「これが完璧な正解」など無く、これまで培われてきた考えなどが、人を形成しているのに、お互いが分かり合えることなんてあるのだろうか!?


「分かり合えないこと」を、
分かり合えないのだろうか。




人間の数と同じだけ、思いや、考えや、意見や、意図があって行動している。

それなのに、
親が子に、
夫が妻に、
上司が部下に、
自分で勝手に思い込んだ「正しさ」を、
相手の気持ちも考えずにぶつける。
または態度で示す。

ぶつけられた方は、
納得いかなければ、これまた自分で勝手に思い込んだ「正しさ」を相手の気持ちも考えずにぶつける。
または態度で示す。



それが「ケンカ」だ。


ケンカが始まったからには、
どちらが悪いと意見を押し付け合うことよりも、
お互いが相手の思考を考慮してやるしかない。


一歩でも半歩でも意見を譲ってやるしかない!


ケンカがエスカレートしてはお互いに困るはずです。
家族間で口を聞かなくなって、
職場で罵声が飛びあって、
協力しなければ生きていけない人間なのに、
その後はどうなる!?


先に殴った殴られたまで発展するともはやケンカではない。
傷害事件だ。


そこまでくると「正しい」とか「正しくない」とか言ってる場合ではない。


「ケンカ」なんて、そんなに大したことではない。

ケンカは必ず起きるものだと知り、
結局は分かり合えないことを、初めから知っておくことが大事だと思います。



思い通りにいかないからこその人生。

不便で、
不自由で、
困難で、
人に邪魔されて、
家族から文句を言われて、
とにかく大変で、
それが当たり前の人生。

「人生」とは、「大変なこと」だ。

人は産まれながら、身体的特徴や能力がある程度決まっている。
社会環境や家族環境もある程度決まっている。
そんな様々な制限があるからこそ、人は輝ける!
それぞれの輝き方ができる!


サッカーでひとりだけボールを抱えて走って、敵のゴールに入れても何も楽しくない。
手が使えない制限があるからこそ楽しいのだ!

いきなりレベル99から始まるドラクエをやっても楽しくない。
ボスを倒すためにレベルを上げ、仲間を増やす過程があるからクリアできるのだ!

誰にも負けない強靭な体を手に入れオリンピックでずっと金メダルを取れたとしても周りは退屈なだけだ。
衰えがあるから、いつかは負けが訪れ、次の人材が生まれてくる!

いくら鍛えても怪我をするし、
いくら健康に気を使っても病気はするし、
いくら勉強を頑張っても忘れるし、
そんな人間がおくる「人生」「生き様」が楽しいのだ!

そんな人間しかできない人生を楽しもう!!
いつ死ぬかも分からない人とは、
重病の人でしょうか?
余命宣告された人でしょうか?
人生に絶望して生きる気力をなくした人でしょうか?


それは違います!

みんな平等に「いつ死ぬか」分かりません。


どんなに元気な人でも、
どんなに楽しい人生をおくっている人でも、
どんなに注意深く運転をする人でも、
どんなに健康に気を使っている人でも、
どんなにストレスを発散している人でも、
いつ死んでもおかしくはありません。

突然、強盗に刺されるかもしれないし、
突然、車が突っ込んでくるかもしれないし、
突然、心臓が止まるかもしれない。

日本では、
一日に約200人、年間で約7.9万人が突然死しています。
交通事故では、
年間で約一3,000人以上の人が亡くなっています。

これらは全て突然の出来事です。
どんなに頑張ったところで、防ぎようがないものです。


この世界では、、
自分でコントロールできることなんて、ほとんどないです。

今こうして生きていることは、世界から生かされているということです。

今、生きていること自体が奇跡です!



たとえ、
今は病気かもしれないし、
果てしない悩みがあるかもしれないし、
とてつもない借金があるかもしれない。

それでも、今、生きながらえている。

生きていることができている。


明日、死なないなんて保証はどこにもない。
今日すら、死なない様に生きるなんて不可能です。


だったら、いつ死んでいいように全力で生きよう!
いつ死んでも後悔ないようにやりたいことはやり尽くしていこう!

やりたいことを後回しにしている暇なんてあるのだろうか?
明日かもしれない死ぬ瞬間まで全力で生きてやる!
今の日本では均一化が図られます。
みんなと同じように学校に来なさい。
みんなと同じように勉強しなさい。
みんなと同じように運動しなさい。
みんなと同じように仕事をしなさい。
みんなと同じように生きなさい。


同じ年齢の子達と
同じ内容の授業を
同じペースで進んでいく。

同じ様な人達と
同じ様な考え方で
同じ様な仕事を進めていく。

みんなと同じで初めて「普通」となる。
これからはみ出すと「普通」ではないと判断される。


授業を聞いていられません。
授業中にじっとしていられません。
上司の意見に従うことができません。
まわりと仲良くできません、、、。

「普通」にできませんか?と言われる。



「普通」ができないと、
子どもなら親が呼び出されるなり、支援学級を紹介されるなり、
大人なら退職を勧められるなり、精神科を紹介されるなり様々な対応がなされると思います。


結局は、学校や雇っている側が手に負えない人を炙り出す構造になっている。
社会を管理し易くするため、経営者側目線が強い。
学習内容や業務内容を均一化するならまだしも、人まで均一化しようとしていることがよく分かる。


そうなると、歪みが生じる人が必ず出てくる。
「普通」に収まりきれない人達がいる。


人にはそれぞれ個性があり、
やり方も違えば、
考え方も違えば、
生活環境も違う。




これだけやればいい教育法や勉強法があるはずがない。
それを謳い文句にしている商売はインチキです。

優等生で過ごして、転んだときに立ち上がれるような大人になれるのでしょうか。
怒らないで育てて、他人から怒られたときに立ち直れる大人になれるのでしょうか。
みんなで一緒を目指して、競争心が芽生える社会になるのでしょうか。
海外からの情報を遮断して、世界で勝負できる人材が育つのでしょうか。

絶対に通り一遍では上手くいきません。
様々な方法、考え方、得手不得手から、自分自身を知り、自分に合った答えを導き出して使いこなせるようになるしかないはずです。

今の世の中に流されないように、自分にしかできない生き方で、生きていきたいと思います。

子ども達へ伝えていかなければいけない歴史があります。
それは「戦争」です。

2020年8月15日、終戦を迎え75年が経ちました。


つい75年前までは、
姿形は違えど同じ人間である特定の人を、
殺していた。

敵であると捉えた人を殺してよかった。

それが当たり前であり、生きていくためであった。
愛する家族を守るためであった。

そんな世界が現実にあった。


ほとんどの生き証人はいなくなり、
コロナや流れゆく時代の中で消えかけているが、
戦争で戦った人達がいたからこそ、
こうして日本人として生きていける。

当たり前の自由な生活ができている。
エンタメを見て笑うことができている。


もしあの超大国と戦っていなかったら、
どうなっていたか分からない。
戦争末期、負けるかもと心の底では分かっていたかもしれないのに立ち向かって行く人達がいた。
最後の最後まで歯向かっていくことをしなかったら、最低でも今の日本はなかったはずです。

当時の人達からすれば、未来である今の日本を、命をかけて守り抜いた。

沖縄まで占領してきた敵国に対し、最後の手段で、
特攻隊として戦闘機に乗り込んでいった若者達は、
未来の日本(家族)を守ることが、たった一つの夢であり願いであった。

命の限り戦い抜いた若者達が今の日本を見たらどう思うだろうか?
今の子ども達を見たらどう思うだろうか?



今の日本を守った人達のおかげで、今の私達がいます。


そんな今を生きる我々は、
なにかを簡単に諦めて、いいのでしょうか?
なにかを人のせいにしてて、いいのでしょうか?

我々が生きている「今」は、
当時の人達が繋いできた「今」です。

当時の人達が生きたかった今の時代を、
命をかけて守り抜いた今の時代を、
死ぬ気で生きていこうと思います!

生きていることが当たり前ではないことを、
子ども達に伝えていきたいと思います!
誰でも失敗は繰り返す。
同じことでも新しいことでも失敗は繰り返す。
どんなに注意を払って生きていても必ず失敗は繰り返す。
結局、人は失敗を防いで生きることなどできない。


だから、
失敗しないことが大切な訳ではない。


失敗の経験は貴重だ。


失敗したことで、
次は失敗しないように気を付けられるようになる。

失敗したことで、
私と同じ失敗をしないように、誰かに注意することができるようになる。

人は、失敗したことで成長ができるのだ!!





失敗をしたことで一番やっちゃいけないことが、
「落ち込んだ結果、萎縮する」ことだ!




過去にどんなに大きな失敗をしたかなんて、これからを生きる者にとっては全く関係ない。

失敗したことで、
それを怒られたこと、
それをバカにされたこと、
それを周りからネチネチ言われ続けていること、
そんなことが、これからを生きていく私達になんの関係があるのだろうか。
もし関係するのなら、私なんて、もう5年前には死んでいる。


過去に失敗したからといって、
「もうできないこと」や「やっちゃいけないこと」なんて絶対に存在しない。
 
もし、なにかができなくなっているのであれば、、
自分で勝手に過去の失敗を悪の現象として膨らませ続けた結果、今の自分が萎縮してしまっているだけだ。


はっきり言って過去にダメだったことがあろうが、なかろうが、今の自分には全く関係ない。

勉強できなかったからといって、これから学者になれないはずがない。
スポーツができなかったからといって、これからオリンピックに出れないはずがない。

誰がそんなこと決められるだろうか。

もし決めているとしたら、自分で勝手に決めてるだけだ。



これからの残りの人生、どんどんチャレンジしなければ勿体ない!
チャレンジした者しか失敗は経験できない。

いつまでも過去の失敗に囚われず、
いくつになってからでも「挑戦」する気持ちを忘れてはいけない。

子どもと一緒にいる時間は、
人生において非常に大切な時間だなと思います。

今の時期、
今の環境、
今の様子、
今の身長、
今の顔、
今の考え、
今の成長は、
この「今」を逃すと二度と見れません。


子どもとの触れ合う機会を犠牲にして、
朝早くから夜遅くまで働いて、
どんなにお金を稼いだとしても、
どんなに成功を納めたとしても、
まさに今を成長している子どもの姿を
後から接することも、見返すこともできません。


例え、
お金がなくても、
広い庭がなくても、
高級な車がなくても、
おもちゃに囲まれていなくても、
美味しいものが食べれなくても、
子どもは文句を言いません。


例え、
他の家族が金持ちでも、
年下の成功者が溢れていても比較する必要はありません。

例え、
海外旅行に連れて行けなくても、
仕事がうまくいかなくても、
そして、どんな他人よりも、
すべての嫌なことを吹き飛ばしてくれる子ども達がいます。





子ども達と触れ合った時間や経験に「勝るもの」はありません。

なにかがうまくいっていなくても、
十分すぎる家族がいます。

心や精神の余裕を作るのは家族です。
家族と接することがなによりも大切です。


それでも、
忙しい人は言うでしょう。


子どもが寝静まった後に帰宅し、
子どもが起きるくらいに出勤する日々で、
子どもと触れ合うことがほとんどない状態であったとしても、必ず得ているものがあると。

それがお金であったり、
仕事のスキルであったり、
名誉であったり、
地位であったり、
子どもと触れ合う時間を削らないと得られないものがあると。



それが本当に
「自分にとって心からやりたい仕事」であり、
「自分にとってかけがえの無いもの」であり、
「自分にとって心が満たされる事柄」であり、
「自分にとって本当に充実した時間」であれば問題ないと思います。

もし、そうでなければ、
少しでも「避けられる仕事」「避けられる残業」「誰かに任せられる仕事」があるのであれば、少しでも早く帰って思いっきり子ども達と接した方が良いと思います。


子どもにとっては、今の環境が慣れてしまったことかもしれません。
もう今更、親と接することが面倒くさいことかもしれません。


ただ、接することを続けることでしか、
子どもとの信頼関係が成り立ちません。


信頼関係が築けていない親が、
子どもに怒っても効果がない。

そんな親が、
子どもに社会を教えても聞くはずがない。

そんな親と、
遊びに出かけるはずがない。


今の関係を見直して、言うことを聞かない子であれば、信頼関係が構築されていないことに気づくべきです。


本当に子どものことを思っているなら、
まずは毎日、思いっきり遊んで、話して、体動かして、頭を動かすことです。


親しかできないことが必ずあります。
子どもが望んでいるのはお金で買えるものや体験だけではありません。

一緒にご飯を食べながら、学校で経験したことを聞いたり、習い事でできるようになったことを褒めたりすることが重要です。

一緒にテレビを見ながら、ボーッと過ごしたり、ゲームをしたり、お互いの一日を話したりするだけでも意識が変わります。
最初は面倒くさいと思いますが、だんだん慣れてくると嬉しいし、楽しいはずです。

子どもは、これからどんどん成長していきます。
悩んだり挫けたりなど当たり前に起こります。
そんなときに「どんなことがあっても大丈夫だ」と教えてあげられる状態を築いておきたいものです。
そのためにも、まずは「信頼関係を築く」ことが大事です。


多くの子ども達が勉強できないことを「俺は頭が悪いからだ」と自分の生まれ持った能力のせいにします。

勉強ができないことを「生まれつき、できないのだ」と決めつけます。

これはただの言い訳でしかありません。

一概には言い切れない部分もありますが、
勉強ができない本当の理由は、
ただの努力不足です。






人間は、自分のやることを正当化する生き物です。



よく起こる「ケンカ」の主な原因は、お互いが自分が正しいと思っている考えを相手に押し付けること、または相手に強要することから発生します。


要は、「自分が正しい」とみんな信じている。
自分の考えや行動が、世の中的に一番合っていると信じていて、相手が間違っていると思って生きています。

同じ様に、
できないことは、できないことの正当化を図ります。
すると、できないなりの理由が必要になるのです。


だから、
勉強ができないことについても、正当化するための理由が必要となります。
それが本質である努力不足ではなく、生まれつき頭が悪いせいだと理由付けします。

他にも、
スポーツができないとしたら、スポーツができないなりの理由を正当化します。
それも本質である努力不足ではなく、生まれつき運動神経が悪いせいだと理由付けします。




生まれつき持った能力のせいにすれば、できない理由が簡単に作れますから、そのせいで「できなくても仕方がない」とします。
本当は違うと、薄々気付いているはずなのに、そのどうしようもない様な理由がある以上、なかなか抜け出せません。


自分がお菓子食って、ゲームして、テレビ見て、夜遅くに寝ることを、本当はやめた方が良いことだと分かっているのに、「みんなやってる当たり前のこと」と自分なりに正当化して習慣化されています。

その習慣があるせいで、いつまで経っても、本を読んだり、健康に気をつけたり、ランニングすることを正当化できません。
本来、やればできることぐらい分かっているはずなのにです。

いかに早く、
無駄なナニカのせいにしていることに気付くか、
いかに早く、
本来の自分がやればできていた幼少期の「あのころの気持ち」に戻れるかが重要だと思います。



子どもから「なんで勉強するのか分からない」とは良く言われます。
大人になってから「なんの役に立つか分からないと」と。

はっきり言って、学校で習った理科の数式や歴史の流れなんて、普通の仕事では、ほぼ使いません。
子どもが「意味がない」と思うのも無理がありません。


ただし、
勉強には社会で必要な「知らないことを学ぶこと」や「やったことがないことを学ぶとき」に必要なプロセスが含まれています。

どんな人でも、就職してすぐに「この資料作っといて」と言われて、すぐにできるでしょうか?

たぶん難しいと思います。


先輩達が教えてくれて初めてできるようになると思います。
パソコンのwordやPowerPointの使い方から教わって、自ら使ってみなければ、できるようになりません。


この流れって学校の授業と全く同じです。


授業でやり方を聞いて(インプット)、テストでどれだけ身についているか確認する(アウトプット)。
職場の先輩から資料の作り方を教わって(インプット)、自分で作ってみる(アウトプット)。

ある意味、このやり方やこの流れを「勉強」として、「国語」や「理科」や「算数」でやってるだけです。


勉強の仕方を知らなければ、いくら仕事では使わない知識を学ばず(勉強せず)に他のこと(スポーツなど)に熱中していたとしても最終的には人生で起こる様々な困難を突破できません。

勉強の仕方さえ知っていれば、
仕事で悩んだときや上手くいかなかったときは、コミニュケーションの技術を習得すればいいなと感覚的に分かる。

その後、この技術を得ていれば、悩みを解決できそうな、得意そうな人に繋がるような人脈を増やすことができます。


プレゼン方法や資料作成能力が足りないと感じたら、それを勉強する。
その知識を持っていれば、「もっとこうした方がいい」と上司に企画立案できるようになります。
学校でいうところのテストにあたり、高得点が狙える知識を持っていることになります。


ただ、
勉強したことや見聞きしたもの(インプット)を放っておくだけでは意味がありません。
そのうち忘れて終わります。
勉強ばかりしてきた頭でっかちの子どもでは、それこそ意味がありません。
使えるまでが必要なプロセスです。

勉強をする本当の意味をしっかり伝えて、
アウトプットまでできるような「体づくり」が子どものうちから必要だと思います。

生きている以上、常に新しい知識が必要になりますが、新しい知識を得るときに邪魔になるものがあります。

それは「常識」です。

歳を取れば取るほど、余計な常識に邪魔をされて、新しい事が頭にすんなり入ってきません。

「こんなことがある筈がない」とか、
「今更こんなこと必要ない」とか、
「そんなことが通用するはずがない」と、
今までの経験で得てきた「常識」が頭にこびり付いている限り、新しい知識を否定し始めます。


「常識」が覆されたり、聞いたことがないようなこと、知らない範疇の内容であれば、尚更、すんなり受け入れることができないからです。

人は、自分が正しいと思って生きていますから、今までの考え方から見て、逆説的な内容や否定的な内容は受け入れて難いのもとなります。


ただし、
「常識」と呼ばれるものほど曖昧なものはありません。


学校の算数や国語の問題にはちゃんとした正解があります。

しかし、人生には「これだ!」と言った正解がありません。

だからこそ、
大人達は、みんなが何となく「この方がいいよね」「こういう考え方が合ってるよね」と思っていそうなことを「自分の中の常識」として作り上げます。
正解のない世の中を生きていく上で、何かを判断するときに基準が必要だからです。

それが自分の経験から築き上げた、自分だけの基準だとは知らずに、みんな同じ意見だと錯覚してしまうのです。


そもそも、自分が作ったオリジナルな常識を、
それが正しいなんて誰も証明してくれませんし、いま持っている常識なんてものは、これまでの人生で「自分が作り上げてきた自分だけの価値観の結集」に過ぎません。
そんな「常識」と呼ばれるのもなんて千差万別ですし、一歩外に出た他人だらけの世界には全く通用しません。



人生には、様々な壁が立ちはだかります。
その都度、正解のない解決策を見つけなければ前に進めません。
「これかもしれない」と思う解決策を試行錯誤しなければなりません。

正解がないものに対し、様々な角度から物事を見つめて、様々な角度から問題解決へのアプローチを続けて、見えてくるものを見つめて、感じるものを感じて次の策を考えなくてはなりません。

「これだ」という正解がない以上、いかに正解風なことに近づけられるかが重要です。
いま解決できていないのであれば、いま持っている知識だと足りないから解決できていないことに気付くこと。
新たな知識を得る必要があることを身をもって感じることが必要です。

そのためには、自分にある「常識の外側に目をやる」ことが大切だと思います。