熱闘! 政治家への道 ~元高校球児の夢~ -156ページ目

さくら...いわき市・松ヶ岡公園

ここ福島県いわき市も桜が満開になった。



私は今朝公園を訪れて、満開である事を確認し、昼間の陽気に誘われ、再びこの公園を訪れた。



市内の桜の名所「松ヶ岡公園」では二年分の桜を愛でる人で、平日の昼どきにも関わらず、多くの人で賑わっていた。



去年、この公園は東日本大震災の影響で閉鎖を余儀なくされた。
桜が咲いているのにも関わらず立ちいる事ができなかった市民の目にはこの咲き誇ったピンク花々の競演は感慨深いと思う...。

私は、いわき市民の方々にまじり、満開の桜を楽しんだ。

南相馬市の警戒区域解除...しかし、避難生活は続く

今日の午前零時をもって、南相馬市の警戒区域が解除された。

熱闘! 政治家への道 ~元高校球児の夢~


・沿岸部自治体初 *福島県内では3自治体目(田村市、川内村)

・帰宅困難地域の初設定 *1世帯


報道各社、速報で大きく取り上げている。

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*記事は全て本日付け

◇福島民報南相馬の警戒区域解除 3区域に移行「帰還困難」初設定
 東京電力福島第一原発事故の避難区域再編で、南相馬市の警戒区域と計画的避難区域は16日午前零時に解除され、市内の避難区域は避難指示解除準備、居住制限、帰還困難の3区域に移行した。...(以下、省略)

◇共同通信南相馬、1年ぶり自由に出入り 傾いた家、津波の傷痕

 東京電力福島第1原発事故で、政府が福島県南相馬市に設定していた避難区域を解除したのを受けて16日、約1年ぶりに同市南部に自由に入れるようになり、多くの住民が自宅や店舗の片付けに追われた。...(以下、省略)

◇時事通信「どこから手を付ければ…」=津波の爪痕そのままに
 「どこから手を付ければ…」。警戒区域が解除され、新たに避難指示解除準備区域などに指定された福島県南相馬市小高区には16日朝から住民が戻り、片付けなどを始めた。...(以下、省略)

◇読売新聞南相馬はあの日のまま…沿岸部初の警戒区域解除
 東京電力福島第一原子力発電所事故で設定された警戒区域と計画的避難区域が16日午前0時に解除された福島県南相馬市で、早朝から一時帰宅する住民らの姿が見られた。...(以下、省略)

◇毎日新聞南相馬市:普通のまちへ道のり遠く 警戒区域解除
 東京電力福島第1原発事故に伴って20キロ圏の福島県南相馬市に設定された警戒区域が16日に解除され、大半の地域が避難指示解除準備区域(年間被ばく線量20ミリシーベルト以下)と、居住制限区域(同20ミリシーベルト超50ミリシーベルト以下)に再編された。...(以下、省略)

◇朝日新聞電話も水道もなし「まだこれから」 南相馬小高区
 東京電力福島第一原発事故に伴う警戒区域などが16日解除され、新たな区域に再編された福島県南相馬市では、住民が早速わが家に立ち寄り、傷んだままの家の様子を見たり掃除をしたりした。...(以下、省略)

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「(帰宅困難地域と居住制限区域以外)出入りが自由になり、復旧・復興の足がかりとなる」、「除染を進めるために」などの理由で早期に解除されたということだが、

・宿泊禁止。ただし、消防署員や工場操業者の宿直は認める。

・水道、使えない。外から持ちこむ。

・トイレ、使えない。学校などの仮設トイレを使う。

・家庭ごみ、持ち出し処分できない。家の敷地内に置く。

など、数多くの問題を抱え、“受け入れる準備が何もなされない状態での解除”であることは否めない。


但し約3,900世帯の住民の多くは、この解除を歓迎しているようだ。



当然だと思う。


自分の家に自由に帰れない事が、いかに辛いことか。


「一時帰宅日」を一方的に決められ、警戒区域に入る際にチェックされ、帰る際には体と手荷物、車のサーベイ(放射線被ばく測定)を受ける。


警戒区域の解除で、これが無くなるのであれば、喜ばないはずはない。


市にとっては苦渋の決断だったとは思うが、市の分断が解消され行政の負担が減り、復旧・復興に専念できるという“果実”を選択したのだと思う。

さらに、インフラ整備や廃棄物処理、除染などの事業を国に握られている以上、国の方針に追従せざるを得ないという事情もあったと思われる。

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.しかし、
1世帯2人(帰宅困難地域)と約130世帯約510人(居住制限区域)の方々は、何ら今までと変わりの無い生活を送る。

約3850世帯約1万2740人(避難指示解除準備区域)の方々は、自宅に日帰りで自由に出入りができるという変化があるだけだ。


これが、警戒区域解除の実態。


区域再編がなされただけで、避難生活に変化はない。



決して、根本的な問題は解決していない、という認識を私は再確認した。



私は、この事について国内外に誤解(警戒区域解除=帰還)が広まらないよう願う。



そして、国はインフラ整備や廃棄物処理、除染などを進める手を緩める事など決してせず、誠心誠意、スピードを上げ、住民に安心して住める環境という“果実”を手に入れさせて欲しいと、強く願う。





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*参考

◇南相馬市 *以下、市HP より

・2012年4月16日 市長からのメッセージ(YouTube)

・「警戒区域、避難指示区域等の見直しに関する市からのお知らせ

・「警戒区域・計画的避難区域の解除に係る対応策ロードマップ

・「南相馬市復興計画

◇河北新報消えぬ不安 南相馬警戒区域16日解除 立ち入り自由に (2012年4月11日)
(本文、省略)

 <避難住民、解除への思い>
○長谷川さん(70) 小高区(原町区の仮設住宅)
 立ち入りが自由になるのはいい。ライフラインの復旧がまだで国は除染計画を示してほしい

○富田さん(33) 小高区(栃木県足利市の借り上げ住宅)
 一番下の子は0歳。子どもが安全に住める状況にならないと戻って来られない。しばらく様子を見たい
○菅野さん(72) 小高区(原町区の仮設住宅)
 私以外の家族は郡山市にいて、みんな「戻りたくない」と言う。住むかどうか分からないが、家は直す

○山下さん(60) 原町区(原町区の仮設住宅)
 津波で家がなくなり移転するつもり。ただ先祖の墓があり、警戒区域が解除されたら墓を直したい

○吉津さん(59) 小高区(いわき市の借り上げ住宅)
 国が警戒区域変更の理由を説明すべきだ。人が自由に行き来できると盗難の危険が増す

○杉重さん(58) 小高区(原町区の借り上げ住宅)
 住民が今後どんな生活を望むのかアンケートを取るべきだ。今は復興のグランドデザインがない

○只野さん(63) 小高区(原町区の借り上げ住宅)
 自宅には積極的には戻りたくない気持ち。残してきている猫に会いたい

○阿部さん(65) 小高区浦尻(相馬市の借り上げ住宅)
 解除されても家の片付けができるだけ。立ち入ることができてもコメが作れず、やりきれない

【注】住所の後のかっこ内は避難先



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*追記(2013年4月7日)
時事通信営業続ける理容店「憩いの場に」=ポリタンクで水調達-警戒区域解除1年 (2013年4月7日)
 東京電力福島第1原発事故を受け、警戒区域となった福島県南相馬市小高区が、指定を解除されてから間もなく1年。区域内では宿泊できず、インフラの復旧も進まない。同市の理容業加藤直さん(63)、幹子さん(61)夫妻は解除直後に店を再開。仮設住宅から通いながら営業を続け、店舗は常連客らの「憩いの場」となっている。...(以下、省略)

監督と同志社大学

あっ、と思った。


福島民報新聞の記事、23面「ふくしま人 ~3~ 新島八重3」を見て、高校生以来の謎が解けた。


高校時代、野球部の監督は会津高校の出身で、大学は同志社大学だった。


当時、京都にある同志社大学の事など知らず、なぜ会津出身の監督が京都の大学に進学したのだろうと思ってた。

地元を離れるのならば、東京を選択するのが福島にいた私の考えだった。


そこをあえて京都とは…。当の監督に真意を聞こうと思ったが、当時はまだ監督が恐く、とても聞くことができず、その後機会もなく、謎のままだった。


その“つながり”が、この記事で、自分なりにではあるが、分かった気がした。


新島八重とは、来年のNHK大河ドラマ「八重の桜」の事主人公であり、同志社大学の創設者、新島襄の妻だ。


今日の記事には、明治維新の戊辰戦争で敗れた会津藩士の娘である八重が、京都にいる兄・山本覚馬を頼って“上京”した後の生活の様子、兄の事、新島襄との出会いまでが記されていた。


監督と同志社大学をつなぐ線。


(以下、記事引用)
覚馬は、慶応四年の鳥羽・伏見の戦いで薩摩藩に囚われ、幽閉の身になった。いつ処刑されるか分からない。その切迫した中で、新しい国家の在り方を具体的に提言する「管見」なるものを書き上げ、新政府宛に出した。(中略)それを見た薩摩の西郷隆盛や小松帯刀、新政府の岩倉具視などは、彼の見識の高さ、先見性に驚き、一躍覚馬は囚人から客人扱いとなり、京都府顧問に招かれたのだ。
(中略)新島襄が、槙村正直京都府権知事の紹介で覚馬を訪ねて来るのは、それから、しばらくたってから、京都に英学校を建てたいとの、依頼のためだった。
覚馬は襄の話を聞きながら、その情熱と志の高さに深く打たれたのだと思う。
京都にキリスト教主義の学校を建てるなど、比叡山を琵琶湖に投げ込むより難しい、と言われながら、覚馬は全ての便宜を整え、校地に旧薩摩藩邸跡地まで譲り渡してやっている。
(以上、引用終わり)


“賊軍”とも呼ばれた会津藩にあって、山本覚馬は信念を貫きながらも新政府の要人として活躍した偉人であり、その人が創設に深く関わった同志社大学というのは全国の大学の中でも、会津人にとっては威光を放つ存在だったのではないだろうか、と私は考えた。


ここで、監督と同志社大学はつながった。


もちろん、真意は本人に聞かなければわからない。


しかし、この考えは長年のモヤモヤを一掃させてくれた、痛快なひらめきだった。