監督と同志社大学 | 熱闘! 政治家への道 ~元高校球児の夢~

監督と同志社大学

あっ、と思った。


福島民報新聞の記事、23面「ふくしま人 ~3~ 新島八重3」を見て、高校生以来の謎が解けた。


高校時代、野球部の監督は会津高校の出身で、大学は同志社大学だった。


当時、京都にある同志社大学の事など知らず、なぜ会津出身の監督が京都の大学に進学したのだろうと思ってた。

地元を離れるのならば、東京を選択するのが福島にいた私の考えだった。


そこをあえて京都とは…。当の監督に真意を聞こうと思ったが、当時はまだ監督が恐く、とても聞くことができず、その後機会もなく、謎のままだった。


その“つながり”が、この記事で、自分なりにではあるが、分かった気がした。


新島八重とは、来年のNHK大河ドラマ「八重の桜」の事主人公であり、同志社大学の創設者、新島襄の妻だ。


今日の記事には、明治維新の戊辰戦争で敗れた会津藩士の娘である八重が、京都にいる兄・山本覚馬を頼って“上京”した後の生活の様子、兄の事、新島襄との出会いまでが記されていた。


監督と同志社大学をつなぐ線。


(以下、記事引用)
覚馬は、慶応四年の鳥羽・伏見の戦いで薩摩藩に囚われ、幽閉の身になった。いつ処刑されるか分からない。その切迫した中で、新しい国家の在り方を具体的に提言する「管見」なるものを書き上げ、新政府宛に出した。(中略)それを見た薩摩の西郷隆盛や小松帯刀、新政府の岩倉具視などは、彼の見識の高さ、先見性に驚き、一躍覚馬は囚人から客人扱いとなり、京都府顧問に招かれたのだ。
(中略)新島襄が、槙村正直京都府権知事の紹介で覚馬を訪ねて来るのは、それから、しばらくたってから、京都に英学校を建てたいとの、依頼のためだった。
覚馬は襄の話を聞きながら、その情熱と志の高さに深く打たれたのだと思う。
京都にキリスト教主義の学校を建てるなど、比叡山を琵琶湖に投げ込むより難しい、と言われながら、覚馬は全ての便宜を整え、校地に旧薩摩藩邸跡地まで譲り渡してやっている。
(以上、引用終わり)


“賊軍”とも呼ばれた会津藩にあって、山本覚馬は信念を貫きながらも新政府の要人として活躍した偉人であり、その人が創設に深く関わった同志社大学というのは全国の大学の中でも、会津人にとっては威光を放つ存在だったのではないだろうか、と私は考えた。


ここで、監督と同志社大学はつながった。


もちろん、真意は本人に聞かなければわからない。


しかし、この考えは長年のモヤモヤを一掃させてくれた、痛快なひらめきだった。