『「仲間の変化を喜び受容することで抽象度が上がる」というパターンを受け入れる。』
先日、新しい苫米地論文が公開されましたね。
そんな中、シン・気功Club Mastery では、
「ゲシュタルトを作ってから、数理を読んでいく」という取り組み方を教わりました。
これは、
少量のデータ(今回は、定理15と補題0)を繰り返し書く (アウトプットする)
ということでもあると思います。
まといのば本家主宰の記事を引用します。
「まといのば」ではあえてLLM(Large Language Models:大規模言語モデル)の大量のデータに対して、「刺激の欠乏(poverty of the stimulus)」を少量のデータと言っています。
ここにもComparison(比較)があります。白黒の二項対立的な構造が見て取れます。
インプット → F → アウトプット
というFunctionalismの基本にして、「まといのば」でもさんざん使ってきた図を考えると、Inputの下に大量のデータを入れれば生成AIモデルとなり、Inputの項目に少量のデータ(刺激の欠乏)を入れれば、FはUG(普遍文法)となるのです。そしてアウトプットはComputerにおいては生成AIの吐き出す回答であり、人間(Universal Grammar)においてはI言語からのE言語となります。まずは母国語を話し始めるのです。
(『まといのば』本家主宰のブログより)
何が少量のデータなのかに関しては、我々(学ぶ側)には分からない(下から上は見れない)ので、
先生や先輩から圧縮して渡されたものを繰り返しアウトプットすることが大切なのだと再認識しました。
新しい苫米地理論を独学で学んでいたのなら、現在の理解度に到達するまでに、数十年はかかっていただろうと思います。
(そもそも情報量の多さに耐えかねて途中でドロップアウトしていたと思いますが。)
独学で学んでいた可能世界と比較すると、
物理時間での長い年月を一気に飛び越えた感覚になります。
(NDU論文の定理1,2,3に取り組んでいた頃が、遥か遠い昔に感じますよね。)
新しい苫米地理論の中核は、定理15であり、
『頭の中が整理されて(情報)エントロピーが減少すると、辻褄が合うように物理空間のエントロピーが増大する』という内容であることを理解しました。
この定理15に関しても、まといのば先生から圧縮した形で教わることで、だんだんと馴染んできました。
やはり、自分一人で取り組むのではなく、
適切な場に入ることで、変化が加速していくのだと思います。
『壊れた橋』の例では、
ゴール
『この町のみんなが笑顔でいられるように』といった曖昧ですが、誰もがそうあったらいいなと思えるような前向きなもの。
ミッション
『町の外れの壊れた橋を直す』という、ゴールを実現させるための正当な行動の指針。
『壊れた橋を直す』というミッションに今回は参加できていなくても、
『この町のみんなが笑顔でいられるように』という前向きなゴールに共鳴している町の人全員が、(橋が直ったことで)次に移動することができるのです。
(直接的に参加するしないに関わらず、橋は町の皆んなが利用でき、前向きなゴールに向かって新たに進んでいくことができる。)
場にいるだけで移動していけるということに繋がっていきます。
なので、どの場・コミュニティに参加しているかによって勝手に(場が共有する理想世界へ)移動してしまうのです。
仲間の変化は、未来の自分にも起こり得る変化であり、先に移動した仲間は、
抽象度の階段を登って変化した際の臨場感や、変化後の風景をブログなど様々な形で伝えてくれています。
個人だけを見て、どうやって追いつこうかと考えると、(下から上は見れないので)計算量が多くなり、結果的にそれを避けるようにEgoが舵を切って他者との関わりを避ける方へ(孤立へ)向かってしまうのだと思います。
大きな視点で観ると、
他者の変化も自分の変化も、High-Shared TCZへ収束する流れの中で起きているので、
他者の変化を積極的に受容し、自分ごとにすることで、( ‘That’s Me’ )
High-Shaded TCZに落ちていく流れをより一層加速することができるのだと思います。
(この曲は、ILLIT(アイリット)の‘It’s Me’)
そして、自らも様々な形で熱としてアウトプットしていくことで、High-Shared TCZの場を温め、
熱によってゆらいだ変化を、互いに観測してラチェットを入れることで、抽象度の階段を上がっていく
という流れが生まれていきます。
仲間の変化を自分ごと( ‘That’s Me’ )として喜び、自分のやり易い形で場に熱を投下していきましょう。
今回も読んでくださりありがとうございました。




