神道指令は、1945年(昭和20年)12月15日に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が日本政府に対して発した覚書「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」(SCAPIN-448)の通称である。
覚書は信教の自由の確立と軍国主義の排除、国家神道を廃止、神祇院を解体し政教分離を果たすために出されたものである。
これにより公的機間による神社への支援、資金援助が禁止され、「大東亜戦争」や「八紘一宇」など、国家神道、軍国主義的・超国家主義的とされる用語の使用も禁止された。
個人の信仰としての神道は干渉せず「上からの強制」である神道は廃止せよ、との国務長官ジェームズ・F・バーンズの命に基き、GHQ民間情報教育局のウィリアム・バンスが草案作成を担った。
バンスは日本国内の神道学者・仏教学者の教示を受けつつ、D. C. ホルトムの著作を深く参考にした。
島薗進によれば、この指令の背後には、神道から国家神道を切り離して廃止した上で国家から独立した宗教・信仰としての神道への信教の自由を否定しないという考えかたがある。
総司令部に助言していた宗教学者岸本英夫によれば、総司令部は当初日本側に自主的な政教分離を促す方針だったが、1945年10月末から11月にかけてその方針を転換し、総司令部自身が指令を策定する方向に動きはじめた。
岸本によれば、10月29日に民間情報教育局局長ケン・R・ダイクと宗教学の重鎮姉崎正治が会談した結果、自主的な政教分離を求める方針を断念したのではないかという。
12月10日に岸本英夫はバンスが作成した指令の草案についてのコメントを秘密裏に求められた。
岸本は「国体」の用語の使用を禁ずる規定を草案から削除することを提案し、バンスはそれを受け入れた。
岸本は国体論を禁じることによって国体を論じる『教育勅語』が神道指令を通じて不透明な形で廃止されるより、日本側の発意もしくはもっと直接的な指令により廃止されるべきだと考えた(岸本によればバンスらも『教育勅語』が慎重な取り扱いを要することは理解していたが、『教育勅語』に「国体」の語が含まれることを見落としていたのではないかという)。
ある時点の草案には靖国神社を廃止する記述、伊勢神宮を皇室の私的神殿として宮内庁管轄下に残す記述があったが、いずれも最終的には採用されなかった。
総司令部は神道指令を各種指令の中でも重要度の高いものと見なしていた。
神道指令立案に関わったウィリアム・ウッダードは、国家による強制性のあった神道(国家神道)を廃止することで日本国民の信教の自由を守ることができると考え、これは「民主化の重要な第一歩」であったとした。
総司令部民間情報教育局局長ダイクと宗教課長ブンセは指令発表後に、国庫からの補助金がなくなった後の神社のありかたについて、寄付金で運営していくことができると考えていると述べ、伏見稲荷や琴平宮を実例として挙げた。
指令を受けて日本政府は翌年1946年(昭和21年)2月の勅令第71号で国庫から神社への資金提供を廃止するなど、それまでの神社の国家管理に関わる法令を廃止・改正した。
同じく2月に神祇院が、3月に皇學館大學が廃止された。
間接的影響として、軍国主義者のための忠魂碑や銅像の建造禁止、戦死者の公葬の禁止、官公立学校生徒の社寺立ち入り禁止等が、政府通達等を通じて行われた。
神道指令は天皇の神道儀礼(皇室神道・宮中祭祀)に制約を加えなかった。
神道指令の精神は宗教への公金支出を禁じる日本国憲法第89条にそのまま反映されたと考えられている。
神社本庁は指令により神道の信仰が「不当に圧迫された」とした。
葦津珍彦は神道指令に関する1960年(昭和35年)の論文で、「重大な障害がない限り」("as long as there is no serious obstacle")占領軍は「被占領地の信仰と慣習に干渉すべきでない」("should not intervene in the religious faith or customs of an occupied area")ということがハーグ条約で定められていたとして、日本占領軍による神道の弾圧は国際法からの逸脱だと批判した。
新田均と武田秀章は神道と日本の国家は本来「区別しがたいほどに密接している」ものであり、国家と独立した歴史を持つキリスト教の政教分離と比べて神道の政教分離は非現実的であるとして、平成17年に神道指令を批判した。
島薗進と菅孝行は神道指令は神社を国家から切り離すことに主眼を置いており、天皇と皇室の祭祀に制約を加えなかった点で不徹底であったとする。