軍歌「敵は幾ら万」の歌詞の二番の一節、
「風に閃く聯隊旗
記紋は昇る朝日子よ
旗は飛びくる弾丸に
破るることこそ誉れなれ」
というのがある。
聯隊旗は軍旗であり旭日旗である。
その旭日旗を掲げてはならぬと主張する国がある。
例え弾が飛んでこようと負けてはならぬ「旗は飛びくる弾丸に破るることこそ誉れなれ」なのである。
敵は幾万は、日本の軍歌。
作詞は山田美妙斎、作曲は小山作之助。
元は、1886年(明治19年)に刊行された詩集『新体詩選』に収録された、「戦景大和魂」という題の8章の詩であった。
小山が作曲にあたりこれから3章を抜粋した。
大東亜戦争時の大本営発表の戦勝発表の際、前後で流された。
歌詞の基となったのは史記の一節にある中国前漢時代の将軍李広の英雄譚である。
一、
敵(てき)は幾万(いくまん)ありとても
すべて烏合(うごう)の勢(せい)なるぞ
烏合の勢にあらずとも
味方(みかた)に正しき道理(どうり)あり
邪(じゃ)はそれ正(せい)に勝(か)ちがたく
直(ちょく)は曲(きょく)にぞ勝栗(かちぐり)の
堅き心(こころ)の一徹(いってつ)は
石(いし)に矢(や)の立(た)つためしあり
石に立つ矢のためしあり
などて恐(おそ)るる事(こと)やある
などて猶予(たゆた)う事やある
二、
風(かぜ)に閃(ひらめ)く連隊旗(れんたいき)
記紋(しるし)は昇(のぼ)る朝日子(あさひこ)よ
旗(はた)は飛びくる弾丸(だんがん)に
破るることこそ誉れ(ほまれ)なれ
身(み)は日(ひ)の本(もと)の兵士(つわもの)よ
旗(はた)にな愧(は)じそ進め(すすめ)よや
斃(たお)るるまでも進めよや
裂(さ)かるるまでも進めよや
旗にな愧(は)じそ耻(は)じなせそ
などて恐るる事やある
などて猶予う事やある
三、
破れて逃(に)ぐるは国(くに)の耻(はじ)
進みて死(し)ぬるは身(み)の誉(ほま)れ
瓦(かわら)となりて残る(のこる)より
玉(たま)となりつつ砕け(くだけ)よや
畳(たたみ)の上(うえ)にて死ぬことは
武士(ぶし)の為(な)すべき道(みち)ならず
骸(むくろ)を馬蹄(ばてい)にかけられつ
身(み)を野晒(のざらし)になしてこそ
世(よ)に武士(もののふ)の義(ぎ)といわめ
などて恐るる事やある
などて猶予う事やある
大日本帝国陸軍は、日本史上において先駆けて旭日旗を考案・採用し、「軍旗(旧称・陸軍御国旗)」として制定した。
意匠は国旗である日章旗に準じ日章は中心に位置し、十六条の光線(旭光)を放つ。
なお、海軍はその陸軍に遅れること19年後の1889年(明治22年)、(陸軍の)「軍旗(陸軍御国旗)」に倣い旭日旗を「軍艦旗」として制定した(日章位置は旗竿側に寄る)。
「軍旗」および「軍旗の意匠の旭日旗」は、五芒星(五光星)や桜星(桜花)とともに、明治最初期から「帝国陸軍の象徴」として国民に広く知られており、戦争画・写真、軍歌、メディア(新聞・ラジオ放送・ニュース映画など)、駐屯地公開イベントである軍旗祭などを通して一般市民からも親しまれていた存在であった。
なお、制式・正式の名称は「軍旗」であるが「連隊旗(聯隊旗)」の通称・呼称も採用当時から多々使用されている。
軍旗は陸海軍の大元帥たる天皇から直接手渡しで授けられる極めて神聖なものであり、また天皇の分身であると認識されたいへん丁重に扱われ、帝国陸軍や連隊をあらわす旗という意味以上の存在とされた。
軍旗に対しては天皇に対するのと同様の敬礼が行われた。
陸軍の礼式曲(礼式歌・礼式喇叭譜)中、軍旗に対するものとしては「足曳(あしびき)」が制定されており、これは主に軍旗に対する敬礼を行う際に吹奏された。
1936年(昭和11年)に起こった二・二六事件では、戒厳司令部が「勅命下る 軍旗に手向かふな」(「お前達のやっていることは天皇に対する反乱であり、天皇から鎮圧命令が出された」という意味)と書かれたアドバルーンを掲揚した。
またラジオ放送においても「兵に告ぐ。勅命が発せられたのである。既に、天皇陛下の御命令が発せられたのである。 (中略) 今からでも決して遅くないから、直ちに抵抗をやめて、軍旗の下に復帰するようにせよ」と勧告、反乱将兵に対し原隊帰順を促している。
日本においては、他国の陸軍と同様またはそれ以上に軍旗が神聖視され、軍旗を喪失することは極めて重大な失態と考えられた。西南戦争を描いた月岡芳年の浮世絵(錦絵)『鹿児島征討記内 熊本城ヨリ諸所戦争之図』では、「野津大佐軍旗を奪還す」の副題の通り、西郷軍に一度奪取された歩兵第十四聯隊軍旗を野津道貫陸軍大佐が奪還するシーンを華々しく描画している(これは陸軍による宣伝であり実際は奪還していない。戦後警察が発見)。
反面、軍旗奪還のために無謀な作戦を行い却って部隊が損害を受けるなど、本末転倒ともいうべき事態も発生した。
なお、西南戦争下の1877年(明治10年)2月22日、歩兵第14連隊は植木町田原坂付近にて西郷軍の大部隊と激戦となり、移動中の連隊旗手・河原林雄太陸軍少尉は戦死し軍旗が奪取された。
この事件に対し連隊長心得(連隊長代理)・乃木希典陸軍少佐は、総指揮官・山縣有朋陸軍大将に対し待罪書を送り処分を求めた。
この軍旗喪失は不可抗力として不問に処され翌年1月21日に再授与されている。
なお、再授与直後に軍旗は発見され陸軍省が回収・保管している。
親授は「軍旗親授の儀」(『皇室儀制令』 大正15年10月21日皇室令)により、旗手や連隊長は正衣(大礼服)着用の上、諸式にのっとり宮中(皇居)にてとりおこなわれ勅語とともに軍旗が下賜された。
旗手(連隊旗手)は、新任の少尉(稀に中尉)の中の成績最優秀者が1年間交代で務め、連隊本部附であった。
旗手の要件は品行方正・成績優秀・眉目秀麗・長身であることが求められ、また暗黙の要件として童貞で、悪所通いをしない高潔な人物が選ばれた。
旗手は日常の勤務においては、連隊副官の秘書のような形で、連隊本部の事務処理に当たった。
さらに軍旗には誘導将校と数名の軍旗衛兵が付され、また戦場では軍旗を守護するために1個中隊が編成されるが、これは本部中隊たる予備兵力として運用された。
観兵式などにおける分列式において、連隊が『陸軍分列行進曲(観兵式分列行進曲)』および『観兵式行進曲』にのせて分列行進する際は、軍旗(旗手・衛兵)を先頭に連隊長以下連隊将兵がこれに続いた。
軍旗は決して後退しないとの建前から、軍旗を反転させる際の号令としては「回れ右」は用いられず、「右向け右」を二回繰り返すとされた。
軍旗は完全に失われない限り再授与されることはなかったため、佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱、西南戦争、日清戦争、北清事変、日露戦争、第一次世界大戦(日独戦争)、シベリア出兵、満州事変、第一次上海事変、日中戦争(支那事変)、張鼓峰事件、ノモンハン事件、第二次世界大戦(大東亜戦争)などを経た歴史の古い連隊の軍旗は、旗部分が殆どなくなり房だけとなった物がきわめて多かった。
これらの軍旗は激戦を戦い抜いてきた連隊の栄光の象徴として大変な名誉とされており、1886年(明治19年)に原詩が発表され、1891年(明治24年)に曲がつけられた軍歌『敵は幾万』の第2番では「風に閃く連隊旗 記紋は昇る朝日子よ 旗は飛びくる弾丸に 破るることこそ誉れなれ」と謳われている。
平時においても演習時に軍旗が損傷することも少なくなく、これら損傷記録は各軍旗とともにあった公式文書である「軍旗損傷誌」や「軍旗日誌」、軍関係者や民間向けに頒布される冊子や軍旗縮図に絵入りで記されていた。
行軍時には無駄な汚損を防ぐため、筒状の布袋(覆い)を被せ保護する。
歩兵第321連隊(1945年7月23日親授)では軍旗の喪失を惜しんだ連隊長・後藤四郎陸軍中佐の考えにより、旗竿のみを収めた奉安箱を奉焼。
旗と竿頭はGHQ統治下を経て日本の主権回復に至るまで神道天行居という団体の施設に隠し通したため、これがほぼ完全な姿で現存する唯一の軍旗となっている。
これは旗竿を復元したうえで靖国神社に奉納され、遊就館の特別陳列室に展示されている。
このほかにも一部の連隊では奉焼を経て残った破片や灰、もしくは奉燃を免れた一部が連隊将兵の手により持ち帰られている。
歩兵第57連隊・歩兵第86連隊・歩兵第143連隊などの物は靖国神社に奉納され遊就館の第15展示室に、歩兵第39連隊では血染めの旗片を同連隊の慰霊碑内に納め更にその一部は姫路駐屯地史料館に、歩兵第63連隊の破片は出雲駐屯地資料室に、歩兵第70連隊では連隊長・石川粂吉陸軍大佐の「連隊長は軍旗とともにある」という信念により竿頭と房の一部および軍旗日誌を主権回復に至るまで保管、現在は篠山市の戦没者慰霊施設(遺芳殿・遺芳館)に収蔵されている。
歩兵第14連隊では奉焼式に参加した将校准士官以上および、各中隊の下士官・兵代表の全員に対し切り分けた房を配布、また一部の青年将校が埋没された竿頭の破片を掘り起こし保管している。