社会的制裁
ポンド紙幣
先代と血筋が続いているとかで大名題を継いだHSという落語家が、脱税とか申告漏れとかで重加算税を課せらました。御祝儀が飛び交うような社会ではありがちのことですが、本人は当分謹慎するのだろうなと思っていましたら、先週のNHKを見てびっくり。『迷宮美術館』という、芸術家と作品に関する由来やエピソードをクイズ仕立てで紹介する、最近のものとしてはよくできた番組なのですが、そのゲストにHSが堂々と顔を出しているのです。
一方でNHKは、別のNBという漫才師が暴力団と交際があるという噂がたったので、間髪を入れず出演番組の放送予定を変更し、すでに収録済みのものを引っ込めたという事実があります。HSの出た番組の場合は以前に収録してあったのかもしれませんが、税にまつわる問題が公になってからかなりの時間がたっていますから、何らかの調整は可能なのにそれをしていない。またこの落語家は問題発覚以前から朝日新聞にエッセイのようなものを連載しているのですが、今も続いているところを見ると、重加算税云々は誤報だったのかと思うくらいです。
重加算税を払うに至ったことは別に犯罪ではないことはわかっています。それならば暴力団と付き合いのあること自体も、誉めたことではないにしても犯罪ではないでしょう。類似の例に女性歌手のグループでリーダー格だったKAのケースがあり、これは未成年でありながら喫煙しているところを2回も写真に撮られたということで芸能界から追放されたようです。未成年の喫煙を犯罪と言ってよいかどうかは知りませんが、2回目の場合そばにいた成人の男性は立件されていないようですから、やはり犯罪とするには至らないとされたのでしょう。
つまり、納税が適切でなかったHSのケースではその後の社会的制裁はない。暴力団と交際があるとされたNBの場合はNHK(および民放?)から締め出されつつある。未成年ながら喫煙していることが2回発覚したKAの場合は芸能界から追放されたと見られる。こう並べると罪と罰の釣り合いはこれでいいのかと、いささか首を傾げたくなります。
アメリカでは脱税は破廉恥罪のような扱いを受けるそうで、政治家なども政治資金の出入りを透明化することには異常に神経を使っていると言われます。日本ではその点甘いのではないでしょうか? 歌舞伎のこれも大名題であるNKについても所得隠しが云々されていますが、これもやはり御祝儀がらみの話で、他の若手歌舞伎俳優の何人かについても似たような話が出たりしています。この人たちはこのまま公衆の面前に出ているのでしょうか。これらのうち何人かはCMにも登場しているようですが、それもそのままなのでしょうか?
税逃れに甘いということは、公のお金の使い方にも甘いということに通じます。このことは年金の記録が行方不明になっていることとも通底しているでしょう。我々は税の使い方と同様、税の納め方にも目を光らせねばならないのではないと思います。
☆納税を うやむやにする セレブかな
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慙愧
安倍首相がなんと言うかと注目していましたら、「大変残念、慙愧に耐えない」というものだったそうです。「慙愧」とは何か。残念を繰り返したのかと辞書を見ると、「自分の見苦しさや過ちを反省して、心に深く恥じること」とありました(ヤフー辞書)。この「自分の見苦しさ」は光熱水道費の件で説明にもならない説明を繰り返していた松岡氏を、バックアップする答弁を自分も繰り返していたことを指すのでしょうか? 「自分の過ち」はかねてよからぬ噂のあった松岡氏を大臣に任命し、あまつさえ説明責任を果たさない有様を目の前で明らかにされながら、解任しようとしなかった過ちを指すのでしょうか? 行政改革担当相の佐田氏が先に辞任したことが松岡氏にとって致命的だったと思われます。閣僚の辞任が続けば内閣の存続が危ういという判断が、陰に陽に松岡氏に伝えられ、個人的には辞任してしまいたかったかもしれない氏を煩悶させたことは十分に考えられます。安倍氏は煩悶を断ち切れたのに、それをしなかったのです。
自分の過ちを認めているのならば安倍首相にもまだいくばくかの判断力が残っていることになりますが、「慙愧」の語を用いたのはあるいは「遺憾」という、手垢にまみれて軽くなった言葉を避けるためであったとも考えられます。これは考えたくない想定ですが、もし万一そうであれば安倍氏にも即刻辞職していただきたいですね。1933年に国際連盟を脱退して後の日本の敗戦への道を決定づけた松岡洋右外相は安倍氏の縁戚ですが、今度は同じ松岡姓の大臣が安倍内閣崩壊の引き金を引いたということになるのかもしれません。
松岡氏の自殺に対し、野党がいじめたからだとは御用評論家でもまさか言わないでしょうが、そこまでは意識しないまでも、次の国政選挙に与党に対して同情票を投じる日本人が出現しないとは言い切れないのは残念です。選挙ではまず何よりも先に現在の責任政党が責任を果たしているかを評価することで、その結果でもって投票の態度を決めるべきだと思います。
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取調べの録画
警視庁保険金殺人の裁判で、被疑者の取調べを録画 したDVDが法廷で映写されたそうです。裁判員制度の実施に向けて、取調べの任意性についての論議が長引きがちなので、裁判員を長時間拘束しなくてすむように取り入れた方法だそうですが、被疑者の取調べは密室で行われますから、すべてを裁判の際に映写しないとしても、暴力、脅し、虚言など不当な手段が用いられていない証として、全貌の記録は当然でしょう。そしてビデオ撮影という手段がある以上、それを用いるのも当然です。一方、我々がテレビを見ていて実感するように映像の説得力は圧倒的ですから、取調べの可視化(録画・録音)にあたって取調べの全過程を可視化すべきという日弁連の主張 も当然です。一方で年月は不明ながら次長検事のコメント というもののありますが、なんとも及び腰の印象を受けます。「取り調べ機能を損なわない範囲で」と述べていますが、少なくとも公判の段階では要求があればすべてが開示されるべきなのが原則とされるべきでしょう。
実は試みの段階ではありますが、被疑者の取調べをビデオで録画したという報告があります。近藤伸生著「聴覚障害者通訳のビデオ撮影--ろうあ者の常習累犯窃盗事件」*がそれです。大体がろうあ者ないし聴覚障害者を取り調べる際にはコミュニケーションの問題が避けられません。裁判の場ですと通訳や筆記が一応保障されますが、取調室のような密室では何が起こっているかわかりません。通訳が呼ばれることもありますが、その通訳が帰った後に警察官が自己流にコミュニケートして尋問してみたりします。聴覚障害者なら誰でも体験することですが、面倒になってつい頷づいたりすることもあります。それが肯定したと見られることがあるわけです。手話通訳の正確度も含め、こういったことを検証し被疑者の権利を保障するために、取り調べ状況の録画が試みられました。この試行がその後どう発展したかがわからないのは残念ですが。
阪神淡路大震災の後で危機管理が盛んに取り上げられるようになりましたが、考え方としては要するに障害者への対応をまず考えれば、一般への対応は自ずから定まってくると、私はずっと思っています。交通や建築関係の安全についても同じです。
障害者問題は高齢化社会の問題を先取りしているとよく言われますが、それだけではありません。多くの問題と類似のことが、障害者に関して先鞭がつけられていることが多いのです。障害者に対して開発された手法や機器が、後に健常者にも有用なものとなったものも少なくありません。グラハム・ベルが発明したとされる電話も、実は難聴の妻のために作った補聴器が元になったのだというのは最大の例です。世の中の人々の多くは無関心なのですが、障害者について知ることは実利的にも意味のあることだと思います。
*『季刊刑事弁護 』18号(1999)。
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欠格条項あれこれ(1)「素行」
欠格条項の多くは2001年に緩和されましたが、それまでの医事法を中心とする欠格条項の中には、非常識で非論理的なものがありました。これらは立法にあたる人々の少数者に対する視線がどのようなものであったかを示すと思いますので、いくつかを紹介してみます。
次のような欠格条項がありました。保健婦助産婦看護婦法(保健師助産師看護師法の前身)のものです。
第十条 左の各号の一に該当する者には、免許を与えないことがある。
三 素行が著しく不良である者
同様に「~ことがある」という相対的欠格事由に「素行」が含まれたものには、他にあん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師等に関する法律、栄養士法、歯科衛生士法、理学療法士及び作業療法士法、柔道整復師法、視能訓練師法、臨床工学技士法、義肢装具士法、救命救急士法があります。調理師法に至っては「免許を与えない」という絶対的欠格事由です。(法律名が変わっているものについては2001年以前の旧称)。一方、医師法、歯科医師法、診療放射線技師法、臨床検査技師、衛生検査技師等に関する法律および薬剤師法の欠格事由には「素行」は存在しません。
これは何を意味するでしょうか? あるいは他の説明もあるかもしれませんが、私はこれは医療業界におけるヒエラルヒーが、意図的に、あるいは無意識に表現されているもののように思えます。今は違いますが、欠格事由に「素行」が含まれている資格は専門学校あるいはそれ以下の学歴で取得できるものであるのに対し、含まれていない資格は大学以上の学歴が要求されるものです。資格そのものの難しさもあるかもしれませんが、しかし医師や歯科医師の「先生」の素行が悪くても不問にする一方、素行をもって資格の条件にするものがあるというのは、きつく言えば職業に貴賎があるという意識を前提としていると言えるでしょう。
「素行」は障害とは直接関係しませんが、欠格事由として障害と並べて列記されるものであり、立法者の意識を映し出す点ではよく似ています。2001年の改正で「素行」という言葉は法律からはほとんど姿を消し、今では入出国管理及び難民認定法、国籍法などの三つの法律と、勲章褫奪令など三つの政令や規則類に残るのみです。
☆法律は お上の意識を スキャンする
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いやな感じ
鳥取県琴浦町にある日韓の交流を記念した石碑の碑文から、同町が今年3月、韓国で日本海を意味する「東海」の表記を県内の市民団体の指摘で削り取っていたということです。14日のヤフーニュース
に毎日新聞の配信として出ましたが、一読してなんともいやな感じを受けました。
調べてみると第一報は鳥取県、島根県東部および兵庫県の但馬地方をエリアとする日本海新聞
で、5月9日に報道しています。以下同日の読売新聞、中央日報(韓国系)、10日には毎日の第一報の他、山陰中央日報、毎日、中央日報、朝鮮日報などに報じられています。
以上を総合すると石碑は日韓友好交流公園の「風の丘 」にあるもので、19世紀はじめに難船した韓国の船員を当時の鳥取藩が手厚くもてなして帰国させたなど、両国親善の事跡を日本語とハングルの両方で刻んであったものです。1994年の建立ですが、これに日本海(東海)と韓国での呼称を併記してあることを不適当という住民の意見が2件あったということで、琴浦町長がその部分を削除させたものです。削除部分が日本海新聞ほかのいくつかの報道に添えられていますが、単に消しただけという乱暴な印象を与えるものです。
この「住民の意見」についてはヤフー=毎日によれば、鳥取市の市民団体のもので、これは石破茂衆院議員(鳥取1区)ら地元選出の自民党国会議員3人らが顧問を務めているということです。昨年9月から、その団体の会長らが琴浦町を数回訪ね、碑文に「日本海(東海)が両国にとっての平和と交流の海であることを祈念し・・・」とあるのに対し、「日本海が国際的名称で、『東海』の表記は不要」と削除を求め、琴浦町長がこれに応じ、「東海」は同じ石碑にあるハングル訳の部分も同時に削り取られた、とあります。琴浦町と韓国の江原道は姉妹提携を結んでいるのですが、このハングル訳の部分については、中央日報 によると江原道のキム・ジンソン知事が、「鳥取県と江原道は『日本海』と『東海』を併記してきた。私が碑石の分を直接書いたのに『東海』を消してしまい、遺憾に思う」と報じられています。
この事件に対して、タイトルにあげた「いやな感じ」が具体的にどういうものかというと、もともとが情緒的な表現なのでうまくは言えませんが、あえてまとめてみると次のようになるでしょうか?
①一部団体の意見を町長が議会にも諮らず受け入れ、碑文の一部を削除させた。
②その際韓国側に知らせることもなかった。国際関係云々ということではないとしても、建立の経緯から江原道には通知すべき。知事が碑文を書いたというならなおさら。
③複数の自民党代議士が顧問をつとめるような公的な団体であれば、抗議するのはよいとしても、その結果について検証すべき。
④これが相当大きなニュースであるというのは私の主観としても、朝日やNHKのようなマスコミが報道しなかったのは頷けない。
⑤こういう抗議⇒削除という、行政行為のプロセスを無視した行為がまかり通るようになった感じがする。
⑥2チャンネルあたりで、早速削除行為を賞賛する投稿が増えている。
以上が私が「いやな感じ」を持った理由です。これらの中でウェイトの大きいのは⑤⑥でしょうか。ことわっておきますが韓国の「東海」という呼称を一般化したいという動きに私は賛成していません。しかし、韓国の人が書いたというハングル訳の中の「東海」まで無断で削除したというのは、かなり野蛮な行為と思われます。これらを総合して、この件は「いつか来た道」の先駆けのような気がするのです。
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弔問外交
4月23日に死去したロシアのエリツィン前大統領の墓参のために、5月3日に麻生外相がモスクワ市内のノボデビッチ修道院を訪れたということです。上のカットの聖堂はこの修道院とは関係はありませんが、ロシアの前大統領の葬儀がロシア正教の儀式によって行われ、しかもその墓所にはソ連のフルシチョフ元首相も眠っていると聞くと、イデオロギーを越えた人間と文化と風土の関係を思わないわけにはいきません。
ここで私は1963年11月25日のケネディ大統領の葬儀を思い出します。今でもどこかにしまってある筈の英字新聞の格調を感じる文章で読んだのですが、この葬儀にはフランスのドゴール大統領をはじめ、ソ連のナンバー2だったミコヤン副首相、イギリスのフィリップ殿下、日本の池田首相と大平外相などが参列し、外交関係のないキューバからも、たしか大統領が出席していました。これを読んだときの私の感想は、これだけの顔ぶれを揃えようとすれば、下ごしらえに気の遠くなるような手間がかかるだろうに、葬儀となればこのようになる。弔問外交とはよく言ったものだというものでした。
もちろんその機会をどう活用するかは各国首脳の器量によりますが、仮に目立つような成果は挙げられなくても、重要人物が出席することによって国家のステイタスを示すという効用があります。参列者の席次はその国とアメリカの関係に加えて、参列者の格の上下にも左右されるからです。
しかるにエリツィン元大統領の葬儀に日本政府が派遣したのは駐露大使でした。アメリカの父ブッシュとクリントンの両元大統領や、ドイツのケーラー大統領、イギリスのメージャー元首相らが参列しています。日本からの出席者をロシアのメディアは驚きをもって受け止めたそうです。麻生外相がわざわざ墓参に訪露したのは、このことで国内外に沸き起こった悪評の尻拭いのためでしたが、しくじりの上塗りの感もなくはありません。少なくとも日本の外務省の無知無能は覆いがたいところです。2005年4月8日の前法王ヨハネ・パウロ2世の葬儀に政府が派遣したのも、元外相とはいいながらきわめて軽量の印象を与える川口順子氏でした。
外務省には世襲と閨閥がはびこっているといわれます。外交には語学とプロトコル、すなわち外交儀礼の知識が不可欠ですから、世襲と閨閥によって知識を受け継いでいるのは悪いとは言い切れません。しかしそれは正しく受け継いでいる場合でしょう。弔問外交のチャンスを見逃すどころか、軽量の人物を派遣することによって国威を損じるようでは、外務省など解体してしまって、韓国のように外交通商部にしてしまえばいいのかもしれません。
ところが外務省のOBは何を勘違いしたのか国の防衛政策にまでくちばしを入れようとしています。「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」という首相の私的懇談会を立ち上げたのは外務官僚のOBだそうで、これは「最初に結論ありき」とされると共に、防衛省サイドの人物をほとんど含まないという点で異常なものです。また、外交知識のない安倍首相夫妻をコーチするために首相官邸に設けられた「連絡調整官」なる新設ポストについたのも、首相と親しい外務省出身者だそうです。後者は有効に機能しているならばまだいいとしても、「安全保障の法的基盤」というテーマは外務省のみで扱うべきものでは決してありません。
内閣の成員の基礎教養のなさは小泉内閣以来目立っていますが、こういうときにこそ外務省がつちかったプロトコルの知識を役立てるべきです。それを役立てるどころか肝心のときに知らぬ顔で、一方では首相の「お友達」ということであれこれと引っかきまわすだけでは先が思いやられます。いずれ外務省は対米宣戦布告を遅らせて日本の声望をどん底に落とした、あの事件の二の舞をやらかすかもしれません。
☆このような 国には不要 交際費
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国民投票の最低投票率
宮崎哲弥という比較的若手の評論家がいます。テレビでは時々見かけますが、私は聞こえないのでどういうことを言っているかはわかりません。短い文章を見かけることはありますが、とくに反発するとか共感することはありませんでした。それが今出ている『週刊文春』の「仏頂面日記」という1頁の文章を読んで、これは少々考えものだなと思わされました。
宮崎氏はその文の一部で国民投票法案に最低投票率の規定は不必要と断じているのですが、その理由として最低投票率規定は棄権分の票を、事実上反対票に参入してしまう不公正な仕組みだと述べています。現在の政治はよほど声高に反対を言わない限り、国民は政府の政策に賛成しているという前提で成り立っているのですが、そっちの方はどうなんだという以前に、やはり宮崎氏のあげている、仮に投票率が4割ならば全国民の2割ちょっとで憲法改定が可能になるという例には抵抗を感じます。
これについては宮崎氏もそうなので、だからこそ改憲派であれ護憲派であれ、憲法投票を必死で呼びかけなければならないとしています。しかし「不公正な仕組み」と言ったのは、どうやら護憲派が棄権を呼びかけて、最低投票率に満たない事態にして、改憲案を葬るという可能性を感じたからでしょうが、改憲派の動向については想像力は発揮しないのでしょうか? 現在でも一般の選挙で形勢が悪いと投票率の低下を与党が望むのは、まだ投票態度を決めていない人がいるが、「その人たちが関心がないと言って寝ていてくれればいいが」という森元首相の失言に如実に現われています。改憲派である政府与党が改憲投票への参加に水をかけ、行政機関も暗黙のうちにそれに近い動きを見せ、一方で金・利権・古い地縁・宗教といった理由での固定票を動員すれば、低い投票率で勝利することもありうる・・・という想像の余地はないものでしょうか? 早い話が総務省による一般の選挙での投票についての啓発活動も、小選挙区制になってからは目立たないものに変わっているという実感があります。
まったくの主観ですが、反保守派の言論は、どちらかというと始めから旗幟鮮明なように感じられます。(大新聞の社員の場合は必ずしもそうではありませんが)。これに対して保守派のそれは二つに分かれるようです。一つは媚中派、抵抗派などの言葉を用いて自論の主張とそれに反する側への口汚い批判を旨とする人々。もう一つは穏やかな物腰で、実は権力に都合のよい意見を良識派の意見と見せかけて流す人々です。後者の方が危険性は高いでしょう。
ここで最低投票率について少し調べてみました。いくつかの自治体で重要なテーマについて住民投票が行われましたが、国民投票法に対する住民投票法というものはありません。そこで三つの市の条例をサンプルとして調べてみました。防府市
、逗子市
、広島市
のものです。まず住民投票の発議は住民、市議会、市長の三者ができるものが防府市と逗子市で、広島市は住民のみです。逗子市は市長の発議は市民参加制度審議会の2/3以上の賛成が必要です。また防府市では発議の最終決定権は市長にあるようです。一方住民については、有権者数に対して防府市では1/3以上、逗子市は1/5以上、広島市は1/10以上の署名が必要となっています。
おそらくは総務省のひな形があるのでしょうが、市の規模などにより数字も異なります。一方で同一なのは最低投票率です。三市ともに有権者の50%以上が投票することによって、住民投票が成立したことになります。成立しない場合は開票しないという点でも例外がありません。
地方の住民投票も憲法の国民投票も、最終的にはyesかnoの二件択一の形になるでしょう。いわば○×によって地域の重要問題の決をとろうというのですから、最低で5割の住民が意思を表明してほしいという常識が地方条例には見られます。ここでは性善論・性悪論の前に、常識が働いています。憲法の改定を決める国民投票といえば、地域の問題とはスケールの違う重要な問題です。もし4割以下の投票率で憲法改定が決まったとすれば、後世の史家は何というでしょうか?
☆談合の 癖出て内輪で 決めたがり
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ニュースのポイント
安倍首相が靖国神社の春季例大祭にあたって、「真榊(まさかき)」と呼ばれる供え物を奉納したと報じられ、これについて首相は国のために戦ってなくなった人々へ敬意を表するなどと述べましたが、一方で「今まで通り、参拝するかどうか、供え物を出したかどうかは言わない」との考えを繰り返したとのことです。「内閣総理大臣」の肩書きをつけて奉納するからといって、公人の行為となるわけではないとは官房長官の言。
本人の気持からも、支持者への義理立てからも、何かせずにいられなかったのは理解できないでもありませんが、「何も言わない」という決意が政治家として妥当なものとは到底思えません。将来事実が明らかになったときの反応の強さが、すぐ判明したときの幾層倍になる可能性を考える想像力はないのでしょうか? ま、健全な想像力があれば、首相として何をまずやるべきかの優先順を、ああも見事に間違えることはなかったかもしれませんが。
今回はこのことには深入りしませんが、問題なのはいくつかの報道にあった、例大祭では「三権の長は昔から奉納していたではないか。行政の長がやってはけしからんというのは理解できない」と政府筋が反論したといいう部分です。
「三権の長」「昔から」となると、両院議長や最高裁長官も奉納していたのか。行政の長も今回の安倍氏と以前の中曽根氏以外にも奉納していたのか? 両院議長については奉納していたという報道もありますが、とすれば社会党出身で護憲派の土井議長のときはどうだったのか? 最高裁の長官が奉納したというのは事実か? これらは立場の如何にかかわらず確認しておきたいことだと思います。
ところがこれについての報道が見当たりません。わたしが気づいていないだけならよいのですが。両院議長が? だったら土井氏のときは? というのは政治記者ならとっさに出る反応だと思うのですが、最近の記者クラブ制で温室育ちの記者は、素人よりも鈍感力が強いのでしょうか。ニュースバリューという言葉は、死語に近いのでしょうか。
そうこうしているうちに、遅ればせながらこれに関する報道が出るかもしれません。遅きに失してもことを明らかにしようという姿勢が見られれば結構なことです。あるいはやはりマスコミではそういう疑問は扱われず、週刊誌のようなミディコミに期待することになりますか。それもなければ、このようなブログしかないということになります。
☆パソコンの キーはペンより 弱いのか?
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欠格条項緩和の果実
欠格条項というのはこのブログでも何回か触れていますが、改正前の医師法
第3条 未成年者、禁治産者、目が見えない者、耳が聞こえない者又は口がきけない者には、免許を与えない。
を典型的なものとするように、障害をもつ者には個別の能力、適性を考慮せず、一律にある資格を与えないという規定でした。この第3条が
第4条 次の各号のいずれかに該当する者には、免許を与えないことがある。
1.心身の障害により医師の業務を適正に行うことができない者として厚生労働省令で定めるもの。
と改正されたのは2001年ですが、この改正をうけて工学部を退学、医学部に挑戦して合格し、来年国家試験を受ける予定の人が大石崇史君です。このいわば欠格条項緩和の一期生である大石君を、NHKが金曜夜の「特報首都圏」という番組において『心の声、聴く医師に』というタイトルで取り上げています。1月19日の放送ですが、私は実を言うとそのときその番組の存在に気づいていませんでした。最近になってビデオを入手でき、内容を見て感じるところがありましたので、すでにこの番組に触れたブログもありますが、このブログとして取り上げたいことがあるので、ずいぶんな後追いですが、あえて書くことにしました。
番組はまず欠格条項の解説に始まり、医師の息子として医師になることを希望していた大石君が、改正を知って受験し、今は実習や授業で医学教育を受けていることを映していました。授業には手話通訳がついている場合もありますが、実習などでは読話が中心で、手術などではマスクで口が隠れますから、教える側が「ここは○○」といったカードを準備するというような工夫も見られました。実習の開始に当たっては関係する教官が会議を開いて、いろいろと大石君への対応を協議していました。また患者との接し方については教授が、個別に大石君に対していろいろと教えている場面もありました。このあたり、私の大学生活の場合は(文科ですが)入れてくれたというだけで、個人的にお世話になった級友や先生は多いのですが、組織としては何もしてくれなかったなあと感じたものです。40年以上前のことですから仕方のなかったことではありますが、早く生まれすぎたという感は否めません。
この番組で一番印象に残ったのは、後半に『がんばらない』 で有名な諏訪中央医院名誉院長の鎌田實氏が出演し、語られたコメントです。氏によると大石君が聴覚障害をもちながら医師という仕事に挑戦している意味は、
・アメリカでは聴覚障害を持つ医師が60~70人はいる。適性がないとは言えない。
・患者とのコミュニケーションを大事にしなければならないことから、同級生も感化を受ける。
・教授が患者とのコミュニケーションについて教えていたが、昔はあんな教育はなかった。(私の現在のかかりつけの先生も、そういう教育は受けていないそうです)。
・これで大学の空気が変わり、コミュニケーションを大切にするようになる。
・看護師を大事にせざるを得ないから、そういうことから本当のチーム医療が発展する。
・もっとも困難視された医師にもなれるということで、今後はホテルなど接客業にも道が開ける。
鎌田氏はこれまでにとくに障害者問題にタッチされたということはないと思いますが、このような犀利な分析をされているのを見て、優れた人間というのは違うものだと感じ入りました。私としては欠格条項の改正はまず平等の実現という理念的なものから要求すべきものと思っていたので、鎌田氏のおっしゃるような面での効果もあるのだと知り、どこかでひそかに感じていた障害者のエゴではという思いを払拭できたという気持です。実は私の呼吸困難での毎月の検診の前の担当医師が今は大石君の学んでいる大学におられ、直接の指導もしておられます。このことを今の担当の先生(やはり同門らしい)に話したことから、いろいろなアクセスが生じ、今の先生にビデオを見せていただくこともできました。私の独りよがりかもしれませんが、前の先生が大石君に最初接したときも、私に接した経験があるから引くこともなかったのではと思っています。これは奇縁に属する話でしょう。
なお、番組全体にわたってのことですが、大石君への情報保障の実態が見えにくかったのは残念です。手話通訳付(自費だそうですが)で授業を受けていたり、級友に手話を教えたりというシーンはありましたが、教授による患者とのコミュニケーションの指導や、医師である父上との語らいなど、かなり編集されていたと思いました。大石君の読話の能力は大したもののようですが、現実には専門用語もまじる会話が、紙に字を書くというような場面を抜きに行われたとは思えません。これは専門の話をする場合は、健聴者でもある程度そうなのではないでしょうか? そういう場面は省かれた感じですが、外国語の通訳とは異なりコミュニケーションそのものが主題の一つだったのですから残念です。もっともこれは常にあることで、聴覚障害者がテレビに出たときに知人の要約筆記者がついたのですが、一度も画面には出されなかったそうです。要約筆記は手話に比べ認識されていませんから、機会があればその実地の姿を出してほしいのですが。
最後に、私は1997年に欠格条項を有する法律についてまとめたものを含む論文を出しています。それまでにも厚生省や他の組織によって調査は始まっていたようですが、文章としてまとめたのは私のが早いものに属すると思います。ささやかなものですが国会議員の手元に届く雑誌に載りましたから、参考とされてその後の改正作業にわずかででも影響し、それが大石君の挑戦や鎌田氏の発言につながったと考えると、早く生まれすぎたことへの慰めともなります。
☆平等が 次なる果実に 結びつく
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銃と社会
銃撃事件が起こると思い出すのはリンカーンとケネディの暗殺ですが、犯人とされる人たちは銃をどうやって手に入れたのでしょうか。リンカーンの場合は南北戦争直後でしたから、おびただしい銃器が残されていたのには不思議はありません。ケネディ暗殺犯とされるオズワルドは通信販売で銃を買ったようで、その記録も公表されていますが、犯行に使用したという銃とはサイズが違うとか、いろいろの説があるようです。
ケネディの時代には銃の購入が野放し同然でしたが、現在ではさすがに犯罪歴などがチェックされるようです。ところがヴァージニアの射殺犯の場合は問題となるような履歴がなく、「合法的に銃を買ったのだからどうしようもない」と、彼に銃を売ったガンショップの主人が言っていました。「木の葉を隠すには森に隠す。死体を隠すには死体の山に隠す」というのはイギリスのカトリック思想家で推理小説作家のG.K.チェスタートンの言葉ですが、アメリカではよほど大量の人が殺されないと銃撃事件の山の中では目立たないようです。チェスタートンが生きていたら、「何という狡猾な仕組みだ。銃を誰でも持てるなら、何もわざわざ死体の山を築くまでもない」と言ったことでしょう。死体の山の中に埋没した政治的殺人もあったかもしれません。
同じ市で同じ市長という地位の人物が狙撃されたということは、原則として銃器の所持が禁じられている日本において、警察が前回の事件後に何らの努力もしなかったことを意味します。そして警察の最高の責任者である安倍首相は、第一報を聞いて「捜査当局で厳正に捜査が行われ、真相が究明されることを望む」と述べました。政治的テロに関する鈍感さを非難され、「こういうことで互いを非難するのはやめたが方がいい。(報告を受けたのは発生から)10分後だから、真相をまず究明するというのが正しい」と反論したそうです。10分後の第一報であっても撃たれたのは市長だという情報は含まれているでしょう。それを聞いて「政治テロ」「選挙中」「民主主義」などという言葉が頭を横切らなかったとすれば、安倍さんは首相どころかそもそも政治家なの?と言われても仕方がないところです。もし、第一報に「撃たれたのは長崎市長」という情報が含まれていなかったならば、この批判は取り消すとしても、今度は非常時の情報伝達について大きい問題があるということになり、これは最終的にはもちろん首相の責任です。
単なる刑事事件としておきたい、職業的犯罪者による多くの非業の死の一つとしたいという潜在意識があったのでしょう。いや、単なる潜在意識であるかどうか。市長がまだ危篤状態のときに安倍内閣の防衛大臣が「万一のことを考えると、今の法律の欠陥が如実に出る」などとお先走りの発言をしたことも、何かを示しているかのようです。発言の早い遅いは別として、問題を日常の行政体系に持っていきたいという意向が見えます。つまり、今度の銃撃による選挙中の市長暗殺を、無理無体な要求をする暴力団員によるままある殺人事件と、矮小化したい姿勢が透けて見えるのです。長崎市長は自民党出身ですが、被爆都市の市長として核兵器禁止に尽力し、国際的な場でアメリカを堂々と非難しています。このような勇気の持ち主を快く思わない向きが、国の内外にいたことはこの際銘記しておいてよいでしょう。
アメリカを銃器蔓延社会としている圧力団体として全米ライフル協会があるのは有名ですが、ウィキペディアによるとそのスローガンは「人を殺すのは人であって銃ではない」というものだそうです。この論理だと核兵器の場合は原爆による大量殺戮は投下のボタンを押した者の行為であり、核兵器の製造者や、あるいは投下を命令した者の責任ではないということになるのでしょうか。そう言えば交通戦争という言葉がしきりに使われた頃、メーカーは責任は車にはなく運転者にあると言っていたものです。
☆人を撃つ 人のうしろに 人がおり
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