銃と社会 | 回廊を行く――重複障害者の生活と意見

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     リンカーン暗殺実行犯ブースの最期


 銃撃事件が起こると思い出すのはリンカーンとケネディの暗殺ですが、犯人とされる人たちは銃をどうやって手に入れたのでしょうか。リンカーンの場合は南北戦争直後でしたから、おびただしい銃器が残されていたのには不思議はありません。ケネディ暗殺犯とされるオズワルドは通信販売で銃を買ったようで、その記録も公表されていますが、犯行に使用したという銃とはサイズが違うとか、いろいろの説があるようです。


 ケネディの時代には銃の購入が野放し同然でしたが、現在ではさすがに犯罪歴などがチェックされるようです。ところがヴァージニアの射殺犯の場合は問題となるような履歴がなく、「合法的に銃を買ったのだからどうしようもない」と、彼に銃を売ったガンショップの主人が言っていました。「木の葉を隠すには森に隠す。死体を隠すには死体の山に隠す」というのはイギリスのカトリック思想家で推理小説作家のG.K.チェスタートンの言葉ですが、アメリカではよほど大量の人が殺されないと銃撃事件の山の中では目立たないようです。チェスタートンが生きていたら、「何という狡猾な仕組みだ。銃を誰でも持てるなら、何もわざわざ死体の山を築くまでもない」と言ったことでしょう。死体の山の中に埋没した政治的殺人もあったかもしれません。


 同じ市で同じ市長という地位の人物が狙撃されたということは、原則として銃器の所持が禁じられている日本において、警察が前回の事件後に何らの努力もしなかったことを意味します。そして警察の最高の責任者である安倍首相は、第一報を聞いて「捜査当局で厳正に捜査が行われ、真相が究明されることを望む」と述べました。政治的テロに関する鈍感さを非難され、「こういうことで互いを非難するのはやめたが方がいい。(報告を受けたのは発生から)10分後だから、真相をまず究明するというのが正しい」と反論したそうです。10分後の第一報であっても撃たれたのは市長だという情報は含まれているでしょう。それを聞いて「政治テロ」「選挙中」「民主主義」などという言葉が頭を横切らなかったとすれば、安倍さんは首相どころかそもそも政治家なの?と言われても仕方がないところです。もし、第一報に「撃たれたのは長崎市長」という情報が含まれていなかったならば、この批判は取り消すとしても、今度は非常時の情報伝達について大きい問題があるということになり、これは最終的にはもちろん首相の責任です。


 単なる刑事事件としておきたい、職業的犯罪者による多くの非業の死の一つとしたいという潜在意識があったのでしょう。いや、単なる潜在意識であるかどうか。市長がまだ危篤状態のときに安倍内閣の防衛大臣が「万一のことを考えると、今の法律の欠陥が如実に出る」などとお先走りの発言をしたことも、何かを示しているかのようです。発言の早い遅いは別として、問題を日常の行政体系に持っていきたいという意向が見えます。つまり、今度の銃撃による選挙中の市長暗殺を、無理無体な要求をする暴力団員によるままある殺人事件と、矮小化したい姿勢が透けて見えるのです。長崎市長は自民党出身ですが、被爆都市の市長として核兵器禁止に尽力し、国際的な場でアメリカを堂々と非難しています。このような勇気の持ち主を快く思わない向きが、国の内外にいたことはこの際銘記しておいてよいでしょう。


 アメリカを銃器蔓延社会としている圧力団体として全米ライフル協会があるのは有名ですが、ウィキペディアによるとそのスローガンは「人を殺すのは人であって銃ではない」というものだそうです。この論理だと核兵器の場合は原爆による大量殺戮は投下のボタンを押した者の行為であり、核兵器の製造者や、あるいは投下を命令した者の責任ではないということになるのでしょうか。そう言えば交通戦争という言葉がしきりに使われた頃、メーカーは責任は車にはなく運転者にあると言っていたものです。


☆人を撃つ 人のうしろに 人がおり



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