パリの展示会視察では定番となったセヌー川遊覧は圧巻です。
朝一から会場内を歩きに歩き視察したあと、
VIP(なぜかわれわれはVIP待遇なんです)ルームで視察後の意見交換、
たぶんこれをやっている包装関係の視察団はないと思います。
パリも釣瓶落しで、1日目終わって会場を出る頃は陽が落ちています。
東京と違い、日が落ちるとだいぶ暗い感じです。

それから、電車と地下鉄を乗り継ぎ約1時後に、船着き場に到着すると、
すでに真っ暗で、しかもパリのこの時期は雪が降ることもあるほど寒い。
それだけに乗客はそれほど多くはありません。
1階の室内席と2階野外席があり、いつも寒さに耐えて2階席で両岸に
ひしめく歴史と文化の遺産を息を呑んで観覧します。
これが圧巻で、何度見ても感動は冷めません。
とくにエッフェル塔の雄姿は圧巻で、遠くから段々と迫り、
ついには真横を過ぎるころには寒さもピークですが、
それでも、誰も階下には行かず、
寒さに耐えて過ぎゆく光景に釘づけとなります。
昼間の遊覧は経験がありませんが、想像ではこれ以上はないと思います。

再び船着き場に到着して下船し、川面から路面に上ると
再びエッフェルが表れます。たぶん乗船中かもしくはこのタイミグで、
エッフェルのライティングはキラキラとフラッシングします。
なぜか、この威容は東京タワーにも、スカイツリーにもありません。
ようやく夕食をとるのは20:00くらいとなりますが、
そのときには、脳裏に焼き付いた光景は走馬灯のようです。

これで視察の長い初日が終わるわけですが、
いわば弊誌の海外視察の洗礼です。
先日、久しぶりにお会いした知人との話の中で、
「縁」ということが話題となったときに、
「修百世可同舟、修千世可共枕」との言葉を教えていただきました。
言葉はすばらしい。また漢字には魂があるように思います。

「同じ船に乗るには百年 の、枕を共にするには千年の祈りが必要」との
解釈もあるようですが、漢字の意に従えば少し違和感を覚えます。
つまり「百年」ではなく「百世」であることを考えれば、
「多生」という、百や千の前世ということでなないか、と思いますし、
また「祈」ではなく「修」であるからには、人間修養ではないか、と。

いうまでもなく人が一人でできる修養など大したことはなく、
他の人とともにする修養ほどむずかしいのではないでしょうか。
社会の一員として生きていると、そう感じざるをえません。
その修養の中で真に苦楽をともにできる人は少ない。
それでも、百世の修養をともにできた人であっても「同舟」です。
千世をともに過して「同枕」となるのです。すごいですね。

私は「同枕」をどのように訳するかは皆さんにお任せするとして、
「同舟」というのは必ずしも面識でき、言葉を交わし、
心を通わせる、とは限りません。
同じ舟にあっても、お互いに身知るとは限らないわけです。
われわれのよく知ることわざに「袖ふれ合うも多生の縁」があります。
もちろん「袖がふれた」からといって身知ることにはなりません。

「身知らなければならない」というのではなく、
同じ舟に乗り合わせるのも、道で袖が触れ合うのも、
長い長い前世の修養の道で、お互いに苦楽をともに汗を流してきた、
ということをしっかりと心の止めて、
その出会いを大切に考えていくことではないでしょうか。

海外のファーストフード店のカウンターでたまたま隣に座った青年が、
そうした「縁」についての考え方を、
「ロマンチックですね」と言ったことを思い出します。
百世、千世の前世があるか、無いか、それを確かめるすべはありません。
ただ「ある」と思って生きた方が、
心持ち未来は明るくみえてくるのではないでしょうか。

「修百世可同舟、修千世可共枕」との言葉を教えていただいた方も、
やはり海を越えて来られた縁深き人であると思えてなりません。
数か月ぶりに、知人から返信のメールがきました。

「ご無沙汰を致しております。
ご案内をありがとうございます。
小生月初より夏休みドッグ入りを致しており
今回のご案内の対応が出来ません事をお詫び致します。
もう秋ですね」

唐突な返信と、ドッグにしては長いなと思い、
その返信に返信したところ、

「ご連絡ありがとうございます。
9月1日から10月30日の2ヶ月間は病院に
つながれておりまして、11月つかの間の退院、
勤務についております。
悪性腫瘍のため、死の淵を彷徨っておりました。
足のすねにできたおできが実は諸悪の根源で
摘出手術と皮膚移植の治療を致しておりました。
今更、ガンでは驚きも悲しみもしないのですが
2ヶ月はさすがにやる気をなくさせます。
そして、来月は第2弾の脾臓摘出手術が待ち受けております。
そんなわけで、忘年会はお預けでございます。
元気に行ってまいります」

何とも受け止めようがありません。
ただ最近思うことは、あまり人の心を考えすぎても仕方ない、
ということです。どんなに考えてもわかるものではありません。

大学時代に、同期にやつの悩み相談にのっていたら、
急に「どうせ、お前に俺の気持ちは分かるか~」と
言い放たれたことがありました。
そのときなぜか冷静に「分からんし、分かりたいとも思わん」と。
なぜなら、大事なことは、他人が気持ちを理解するかどうかではなく、
その悩み(課題)を本人が乗り越えられるかどうかだからです。
そんなふうに言うと、冷たい奴だと思われるかもしれませんね。

高校時代に、よく友人から「連れション」を誘われました。
(「連れション」が分からない人は流してください)
「俺はいきたくない」とか言いますと「冷てえなぁ~」とか言われます。
まぁ、そんな訳で冷たいかどうかの問題ではなく、
心地よく用を足せればいいわけです。

そこで「元気に行ってまいります」といわれたからには、
私としても、「元気があれば何でもできる。迷わずに行けよ。
行けばわかるさ」と返信したわけです。
ただし「戻ってきたら新年会をやりましょう~」とつけ加えて。

自分事だけではありません。人生色々とあるものです。