先日、久しぶりにお会いした知人との話の中で、
「縁」ということが話題となったときに、
「修百世可同舟、修千世可共枕」との言葉を教えていただきました。
言葉はすばらしい。また漢字には魂があるように思います。

「同じ船に乗るには百年 の、枕を共にするには千年の祈りが必要」との
解釈もあるようですが、漢字の意に従えば少し違和感を覚えます。
つまり「百年」ではなく「百世」であることを考えれば、
「多生」という、百や千の前世ということでなないか、と思いますし、
また「祈」ではなく「修」であるからには、人間修養ではないか、と。

いうまでもなく人が一人でできる修養など大したことはなく、
他の人とともにする修養ほどむずかしいのではないでしょうか。
社会の一員として生きていると、そう感じざるをえません。
その修養の中で真に苦楽をともにできる人は少ない。
それでも、百世の修養をともにできた人であっても「同舟」です。
千世をともに過して「同枕」となるのです。すごいですね。

私は「同枕」をどのように訳するかは皆さんにお任せするとして、
「同舟」というのは必ずしも面識でき、言葉を交わし、
心を通わせる、とは限りません。
同じ舟にあっても、お互いに身知るとは限らないわけです。
われわれのよく知ることわざに「袖ふれ合うも多生の縁」があります。
もちろん「袖がふれた」からといって身知ることにはなりません。

「身知らなければならない」というのではなく、
同じ舟に乗り合わせるのも、道で袖が触れ合うのも、
長い長い前世の修養の道で、お互いに苦楽をともに汗を流してきた、
ということをしっかりと心の止めて、
その出会いを大切に考えていくことではないでしょうか。

海外のファーストフード店のカウンターでたまたま隣に座った青年が、
そうした「縁」についての考え方を、
「ロマンチックですね」と言ったことを思い出します。
百世、千世の前世があるか、無いか、それを確かめるすべはありません。
ただ「ある」と思って生きた方が、
心持ち未来は明るくみえてくるのではないでしょうか。

「修百世可同舟、修千世可共枕」との言葉を教えていただいた方も、
やはり海を越えて来られた縁深き人であると思えてなりません。