今さらながら、「骨折り損の草臥れ儲け」とのことわざに触れ、
「ああ、『くたびれ』って『草臥れ』って書くんだ」と、
何か(誰もが知る)意味とは違った印象を受けて、
我ながら新鮮な驚きが感じられた。

そういえば故郷で学校に通っていたころは「くたびれたぁ~」と、よく聞いたような(何だか方言にも感じられる)懐かしい響きのある言葉だ。
そんな思いで、この漢字「草臥れ」をみたとき、「労多くして、功少なし」と訳したのでは、何だかもったいないような気がした。それなら「どう訳す?」といわれても困るのだが…。

ただ「功」というのは必ずしも一様ではないということだ。
故郷で聞いていた「くたびれたぁ~」とはけして、「損した」ということでないし、単に「疲れたぁ~」ということでもない。
精一杯汗をながした労はけしてムダではなく、必ずそれが報われるときがくる。

それがホントかどうかというよりも、それを信じているかどうかにある。くたびれて、草原に臥したときに感じる大地の息吹、そして寝転がって見上げた吸い込まれそうな青空。子どものころは、よく大地に臥していたが、今ではほとんどなくなった。

この漢字をみたとき、骨折りが損に思えて、草臥れという儲けがある。(それを儲けと思うかどうかだが)歳を重ねると、草原に臥すことも努力を要するようになる。骨折ってこその得である。
今、どこかの校長の発言がTVなどで取り沙汰されているが、
そんなに全国ネットで、映像入りで非難されることであろうか。
教育員会や文科相まで出てきて謝罪や非難されている。
これは「犯罪なのか?」と思ってしまうほど。
しかも非常に非難が稚拙だと思われるのは、発言の一部のフレーズのみを切り文としていることである。
文章や言葉には文脈があるということは知らないのであろうか。
むしろ、その「『文脈』がおかしい」というなら理解もできるが、まさしく「言葉尻」を捉えて非難するのはどうだろうか。
とくに話言葉というのは「生もの」である。ときに感情がこもりいい過ぎたり、言い足りなかったりすることは誰にもあろう。
だからこそ「文脈」が大事で、何を伝えたいかったのか。
(教育者との批判もあるようだが)生徒に対する愛情はあるのか。「非難」するならば、まずそれを知ってからであろう。
そうなれば、校長のこれまでの発言や行動、または実績を知る必要がある。
そんなことは一切知ろうとせず、ただ発言の一部を捉えて非難するのは幼稚としかいえない。しかも、それが全国版のTVキャスターでさえ憚らないというのはどうだろう。社会がいまだ女性に対して開かれていないことへの不満の矛先となったのではなかろうか。
断片的な映像からだが、注視の校長の態度は発言からは、そんな女性蔑視といったようなものはうかがえない。むしろ、目は生徒であり、教育に注がれているように感じられる。けして理想的な校長ではないかもしれないが、(私の学生時代にもいたが)一風変わった教師がいて、意外に生徒に熱い思いをもっていた人もいた。変わり者だとの認識されても、生徒に思いは伝わっていることもある。
教師も人間であり、誤ることもあれば、思想や考えは多様であるはずだ。だからといって「何でもいい」というのではない。「命の大切さ」を育むといったことに反しなければ、もう少し考えに寛容であってもいいのではなかろうか。
どこかのTVキャスターが、校長の子育てを終えた後からでも、本格的に学ぶことはできるとの主旨の発言を「それは誰でもできることではない」と批判していたが、私はいいことだと思う。堺屋太一氏も本で書いているが、高齢社会とはすなわち長寿社会であり、リタイア後の10~20年あれば、何でも学びプロとなれると。
「子育てが先」というのではなくても、むしろ生涯学習は推奨されるべきではないだろうか。
校長の「その後、勉強をいつでも再開できるよう、中学生の間にしっかり勉強しておくことです」との言葉は非常に素直に心に届くことであり、愛情さえ感じられるのは私だけであろうか。
これは地方の一校長だけの話しではなく、最近よく感じられることである。果して、われわれのそうした短絡的な怒りはどこから湧いてくるのか、口に出す前にしばし考えてみる必要はある。
そのちょっとした怒りが、人の心を傷つけ、それだけではなく生活をも乱してしまうこともある。そして最も大事な何かを壊してしっては悲しいことである。
開店から、たまぁ~だが、
横浜での取材のとき、時間に余裕があれば立ち寄る喫茶、
なぜか雨の日の夕方が多い。
今風なカフェというのではなく、やはり喫茶である。
雨天も手伝ってか、店のなかは暗く褐色のライトと、
ドリップコーヒーの湯を沸かす火が暖かく落ち着いた光を放っている。これはどこかでみた光りだ。

そうだ。航海ランプの光だ。海洋の夜の闇は深く、海上を航行する船舶には、その航行の方向を他船に示すいくつかのライトがある。夜間上空を飛ぶ航空機の翼にも、緑色と赤色のライトが備わっている。
学生時代、それを「赤玉ポートワイン」として覚えたものだ。
ポートは船舶用語で左舷のことで、左舷には赤色のライトで、
右舷には緑色のライトを燈す。そして航海ランプとは船尾灯だ。

練習船で夜間当直で起こされ、船内から一旦船外に出て、
外階段から船橋に昇ってゆく。
まだ寝ぼけ眼で、しかも明るい船室から星光りもない真っ暗な闇夜にまぎれ、何も見えないところで航海ランプの光をみるわけである。なにかほっとするような暖かみを感じ、
片目ずつあけて目を闇に慣らしながら昇ってゆく。

商船大を出て、船乗りにはならず、今のジャーナルの道を進んだのも、実海ではなく、社会、世界という海原の航海士となろうと思ったからである。今にして思うことは、やはり人生もまた航海であるということだ。自らの人生の善き航海士とならなければならず、また社会を善く導く航海士ともなりたい。
私に限らず、そう思って生きる人であれば、どこかで航海ランプのありがたみを知るに違いない。そんな場所があるに違いない。

 雨の日に 燈るランプの 温かさ