「言いたいことは明日言え」とのことわざもあるが、
何事もめぐる思いを吐き出すにもタイミングがある。
宮崎監督のアニメ「千と千尋の神隠し」を観たとき、
勝手ながら、社会と向き合って制作をつづける宮崎監督の
感性や姿勢にあらためて感服した。
とくにキャラクターの「カオナシ」の存在である。
文字通り、顔がなく言葉が喋れず、透けるような影の存在だが、
そこに(欲で)近寄ってくるモノを片っ端から呑込むと、
陰は酷なり、呑込んだモノの声と言葉を使い始め、
さらに巨大化するとともに狂暴化する。
だが、おもしろいのは、そんなカオナシが心を引かれるのは、
欲も見栄もない「千」一人である。
これが何を意味するのか?
フランスのエマニュエル・トッド氏という人が
「シャルリとは誰か?」」という本を書いているが、
シャルリとは、いうまでもなくあのパリでテロ襲撃を受けた
風刺週刊紙「シャルリ・エブド」のことである。
詳細は省くが、当時「私はシャルリ」というカードが下げ
表現の自由が訴えたデモがあったことを記憶する人も多かろう。
端的にいえば、トッド氏はその不気味さを指摘しているのだ。
つい最近も、身近で同じようなことが起きていた。
言葉の並びは違うが「保育園落ちたの私だ!」と。
これもある種の主張を訴えた象徴となるフレーズである。
私が不気味に思うのは、その中身である。
トッド氏が「シャルリとは誰か?」と問い掛けるように、
「保育園落ちたのは誰だ?」との問いが浮かぶ。
もちろん「私だ!」と手を挙げる人は多かろうが、
考えなければならないのは、それはどこから始ったかである。
文士の端くれとして身を立てる私は読むのも嫌だが、
「日本死ね!」との、WEBに書かれた
得体のしれない訴えが始まりであろう。
名を伏せる理由は「匿名」との言葉も当たらないと思う。
まるで壁の落書きのようであるが、それを国会で取り上げ、
その答弁をとき(例え嫌いであっても)首相に迫る議員がいるとは驚くし、また恥ずかしいことではないか。
米国の大統領予備選でトランプ氏の言動に非難が集中するが、
私はまだトランプ氏は顔をさらし、出処進退を明らかにしているだけマシだと思われる。それこそ表現の自由であるが、それには身に批判も受ける覚悟が必要である。
TVニュースで数組の母子が担当閣僚に署名を渡すシーンを観たが、(私が親なら子どもは近しい人に預けていきたいが)あの場所に子どもを連れてくる必然がどこにあるのか。答えは自ずとみえてくるのが、それも恐ろしい。誰が仕組んでいると思われてもしかたない。
カオナシの不気味さがここにあり、またカオナシを増幅させるのは我々の心にある何かである。「保育園落ちたのは私だ」と、得体のしれない“カオナシ”を上手に使って、と思う人もいるかもしれないが、使っているつもりがいつしか呑み込まれている。
マスコミの言にして「ああ(日本死ね!)でも言わなければ、人の注意を引きつけない」と。自らの役割りと心を失っているとしかいいようがない。もし、ますます顔の見えない言葉が横行していくようであれば、これ以上の不気味な気持ちの悪いことはない。
カオナシが居なくなることはなく、ただ等身大に戻すことはできる。宮崎監督が描いたように、「千」のように対応すればよいのだ。
ちなみに今、あちらこちらから「ショーン・K」の名を聞くが、彼とてウソはついたものの、ちゃんと顔は出し、肉声で語っている。それに若きときには「ホラッチョ・K」とか、「オッペケペー・K」と呼ばれていたと聞くが、それには友だちからの親しみも感じられる。まさしく「愛称」と呼ばれるもので、カオナシの不気味さとは真逆にあろう。
何事もめぐる思いを吐き出すにもタイミングがある。
宮崎監督のアニメ「千と千尋の神隠し」を観たとき、
勝手ながら、社会と向き合って制作をつづける宮崎監督の
感性や姿勢にあらためて感服した。
とくにキャラクターの「カオナシ」の存在である。
文字通り、顔がなく言葉が喋れず、透けるような影の存在だが、
そこに(欲で)近寄ってくるモノを片っ端から呑込むと、
陰は酷なり、呑込んだモノの声と言葉を使い始め、
さらに巨大化するとともに狂暴化する。
だが、おもしろいのは、そんなカオナシが心を引かれるのは、
欲も見栄もない「千」一人である。
これが何を意味するのか?
フランスのエマニュエル・トッド氏という人が
「シャルリとは誰か?」」という本を書いているが、
シャルリとは、いうまでもなくあのパリでテロ襲撃を受けた
風刺週刊紙「シャルリ・エブド」のことである。
詳細は省くが、当時「私はシャルリ」というカードが下げ
表現の自由が訴えたデモがあったことを記憶する人も多かろう。
端的にいえば、トッド氏はその不気味さを指摘しているのだ。
つい最近も、身近で同じようなことが起きていた。
言葉の並びは違うが「保育園落ちたの私だ!」と。
これもある種の主張を訴えた象徴となるフレーズである。
私が不気味に思うのは、その中身である。
トッド氏が「シャルリとは誰か?」と問い掛けるように、
「保育園落ちたのは誰だ?」との問いが浮かぶ。
もちろん「私だ!」と手を挙げる人は多かろうが、
考えなければならないのは、それはどこから始ったかである。
文士の端くれとして身を立てる私は読むのも嫌だが、
「日本死ね!」との、WEBに書かれた
得体のしれない訴えが始まりであろう。
名を伏せる理由は「匿名」との言葉も当たらないと思う。
まるで壁の落書きのようであるが、それを国会で取り上げ、
その答弁をとき(例え嫌いであっても)首相に迫る議員がいるとは驚くし、また恥ずかしいことではないか。
米国の大統領予備選でトランプ氏の言動に非難が集中するが、
私はまだトランプ氏は顔をさらし、出処進退を明らかにしているだけマシだと思われる。それこそ表現の自由であるが、それには身に批判も受ける覚悟が必要である。
TVニュースで数組の母子が担当閣僚に署名を渡すシーンを観たが、(私が親なら子どもは近しい人に預けていきたいが)あの場所に子どもを連れてくる必然がどこにあるのか。答えは自ずとみえてくるのが、それも恐ろしい。誰が仕組んでいると思われてもしかたない。
カオナシの不気味さがここにあり、またカオナシを増幅させるのは我々の心にある何かである。「保育園落ちたのは私だ」と、得体のしれない“カオナシ”を上手に使って、と思う人もいるかもしれないが、使っているつもりがいつしか呑み込まれている。
マスコミの言にして「ああ(日本死ね!)でも言わなければ、人の注意を引きつけない」と。自らの役割りと心を失っているとしかいいようがない。もし、ますます顔の見えない言葉が横行していくようであれば、これ以上の不気味な気持ちの悪いことはない。
カオナシが居なくなることはなく、ただ等身大に戻すことはできる。宮崎監督が描いたように、「千」のように対応すればよいのだ。
ちなみに今、あちらこちらから「ショーン・K」の名を聞くが、彼とてウソはついたものの、ちゃんと顔は出し、肉声で語っている。それに若きときには「ホラッチョ・K」とか、「オッペケペー・K」と呼ばれていたと聞くが、それには友だちからの親しみも感じられる。まさしく「愛称」と呼ばれるもので、カオナシの不気味さとは真逆にあろう。