つれづれに想う。

 

平成以降の殺人事件では死者数は最多となった「相模原市の障害者施設での殺傷事件」。あまりにも多くの問題を孕みんでいるようで、非常に痛ましい。不幸にも亡くなられた方々のご冥福を祈りたい。また何らかの傷を負われた方々には一日も早く傷が癒えることを祈ります。

事情は異なれども、何か他人事には思えない。この事件についてはどう考えればよいのか。どう自身のなかで消化していくべきか。事件の全容が少しずつ明らかになるにつれて、ますます闇は深くなっていくようで答えはみつからない。

また答えをみつける必要もないのかもしれないが、それでも目を閉じて通り過ぎることはできない。そこに他人事ではない、自身の心にも通じる何かがあるような気がする。「テロ」というレッテルを外してみれば、世界で今起きている痛ましい事件もまた、どこか深い闇の底で根を同じくしているようにも感じられる。

自分だけが、その闇の外に生きていけるわけでもなく、気づかぬうちに引きづり込まれないように、しっかりとその闇の奥を凝視していたいとも思う。仏典には「毒気深入 失本心故」との言葉があるようだが、「毒気」とは何も薬物を指すのではないだろう。

こうした事件への反応や対応は様々で、それは必要なことには違いないが、それで闇が晴れるわけではなかろう。やはり根本的な解決はひとり一人の心にあるはずだ。

「パンドラの箱」ではないが、毒気はすでに世界に充満し、その深入を防いで本心を失わないためには何が必要か。自身の胸に手を当てて考えている。簡単な問題ではないが、だからこそ時間をかけて忍耐強く、自らを信じて問い掛けつづけてゆくしかない。

「正」という字は「一」を「止める」と書くが、この「一」が心に止めていることが、毒気の深入を防ぎ、本心を失わないことになるのではなかろうか。自身の心と世界に通底する闇の根を凝視しつつ、今「その『一』とは何か?」を考えている。

 

合掌

何もかもがはやい。われわれは感覚のなかで生きている。

思い起こせば、幼少のころは何もかもがゆっくりとして、

またすべてが遥か遠かったように思う。

 

沖縄・九州へ行くのも数時間、北海道に行くのも数時間。

はたまた欧州への十数時間の旅も、「行く」と決めて、

動き始めればついその地に立っている。

いや、立ったかと思えばもう帰路にある。

 

時間に余裕があるから行けるのではなし、

元手に余裕があるから行けるのでもない。

理由があれば、心が動くから行くのである。

ある意味、それを遮るものは何もない。

そんな時代(歳?)になってきたという。

 

とはいえ、足早に過ぎゆくときに抗して心に止まるのは、

おいしい食でもなければ、すばらしい風景でもない。

その心を通わせる出会いの人、旅の友、

ともに語り、ともに歩き、ともに過ごす友の存在である。

「友」といって関係性は色々あろうが、

何の斟酌もなく、思いのたけを話し、素直に聞ける関係だ。

 

ここに来て思うことは、生活も人生も仕事も、

只々人との出会い、友情、信頼といった関係構築に

心を働かせてきた。

もちろん上手くいかないこと多々あるが、

少なくとも一つは「良かった」と思えることがあれば、

それで生活も人生も仕事も十分だと思える。

 

人の訃報に接する機会があれば、「あと数十年か」と、

思うよりも時が残されているわけではないことを知る。

かといって夢はあるが、

それまでに成し遂げなければならないというものでもない。

一つでも多く人との善き関係ができれば、それでいい。

そのつながりのなかで、夢も思いも広がってゆき、

また永久に生きつづけてゆくのだと信じている。

雨潸々と この身に落ちて
わずかばかりの運の悪さを
恨んだりして
人は悲しい 悲しいものですね
それでも過去たちは
優しく睫毛に憩う
人生て 不思議なものですね
風散々と この身に荒れて
思い通りにならない夢を
失くしたりして
人はか弱い か弱いものですね
それでも未来たちは
人待ち顔をして微笑む
人生て うれしいものですね
愛燦々と この身に降って
心密かなうれしい涙を
流したりして
人はかわいい かわいいものですね
あああ 過去たちは
優しくまつげに行こう
人生て 不思議なものですね
ああ 未来たちは
人待ち顔をして微笑む
人生て うれしいものですね

 

 

いい歌は人生の節目節目に心に蘇るものですね。
人もこの地上の生物である以上、人生と自然とは不可分。
いや、不可分というだけではなく、不思議に連動している。

雨は「潸々と この身に落ちて」
風は「散々と この身に荒れて」
そして、
愛は「燦々と この身に降って」

雨や風は、苦しみや悲しみ、弱さの擬人ですね。
では、「愛」は何の擬人でしょうか。
擬人というのも変なのですが、燦々とこの身に降るのは…。
世界を明るく照らす、陽光でしょうか。

でも、不思議なもので「雨」にも「風」にも感情はなく、
それらに接したとき、その表われる感情は「この身」の内からわくものです。
雨や風と、陽光との違いは、感情の中身というよりも、
その触れたときの表れ方にあるような気がします。
「ふい」に表われる感情と、
「心密か」に、じんわりと表われる感情との違い?

何が、そうさせるのか?
それが人の、また人生の不思議なところなのかもしれません。

ふいに悲しみに胸が占められても、
「それでも過去たちは 優しく睫毛に憩う」
一時的に過去を悔やむことや恨めしく思うこともあるでしょう。
でも、その過去にたくさんの愛を注がれて、
今があることは「この身」が知っています。

ふいに人の弱さに心が苛まれても、
「それでも未来たちは 人待ち顔をして微笑む」
「微笑む」とは一体、何がうれしいのでしょうね?
そんなあなたを愛し、期待し、再び立ち直るその日を、
温かな眼差しでじっと待っている未来がある。

「愛」の深い根は信頼です。
その愛を感じ、信頼の根でつながったとき、
理由のないうれしい涙が湧くのではないでしょうか。

「人はかわいい かわいいものですね」
自然はきっとそう思っていると、私は思います。