ちょっと渋谷まで足を伸ばし、JPDAの創作展「日本を包む」展に行ってきました。8つの言葉をもとに、112人のパッケージデザイナーが表現した世界観とはおもしろい試みかと思います。ある意味では、言葉のみを頼りに、何の制約もなく内なる世界観を表現するのはむずかしくもあり、気恥ずかしいことかもしれません。
ただ言葉を生業とするだけに、「『うつくしい日本語』から膨らむ世界観」とは思いが寄せられるとともに、自らのことのように嬉しいことでもあります。しかもテーマを変えながら、「JAPAN DESIGN」をコンセプトに「2016年、2018年、そしてオリンピックイヤーの『2020年』へ3回にわたる展覧会」とは楽しみです。
パッケージデザイナーのプロたちが、日本人に本来的に存在する精神や心遣い、繊細さ、大胆さなどを「パッケージデザインを通して表現する」ことで、新しい日本のデザインの方向性が探る試みのようです。「パッケージデザインを通し」とはいえ、実際に足を運んでみると“パッケージデザイン”を超えたものばかりです。
また「超えた」とはいっても、やはり“パッケージ”といったものにしっかりと足場を置いているからこそ、社会性や生活感、個性といったものが匂い立っているように感じました。社会に足して強いメッセージ性を放つものや、自然の一部を切り取ったようなもの、またそのまま商品化できそうなものなど、どれ一つとして同じ匂いのするものはありません。
単に、それぞれの創作意図を推量るというではなく、それらの創作品が自身に語り掛ける言葉(必ずしも元になった言葉ではなく)に心を傾け、そこから自らの言葉を紡ぎ出し、新たな次の創作につなげてゆくという、世界観の連鎖が広がっていけばよい。そんな風に感じました。
創作展の概要は、http://jpda.or.jp/nihon-tsutsumu/exhibition.html
先日聴講したセミナーのなかで、なかなか共感できるプレゼンに出会った。仕事がら日頃から、現今のパワポ主体のセミナーやシンポ、プレゼンの仕方が惰性に堕していることが気に障る。
かといって、奇をてらわずに何か、本来の面白みを蘇らせる策は無いものか、と考えている。要はやり方でもなく、内容でもなく、主体者の熱意や思いが表われることが大事なのだ。
自らが主催するときは、人物を選ぶことと、できればパワポを使わないことを心掛けているが、なかなかむずかしい面もある。
先日のセミナー全体はいつに変らないものだったが、なかの一つがプレゼンター(SOMA)の視点にユニークさがあり、その熱意が伝わってきた。ただ、それが一つのパワポの使い方にも表われおり、確かドイツ人だといったが、話しは英語だったが、パワポの資料は日本語であった。
通訳の力量にもよるところだが、日本語の使い方はフレーズ、また書体やレイアウトなども、なかなかのものであると思った。これはその最初のページで、タイトルの右上に小さな文字のようなものが並んでいるが、それらが次々のページでフォーカスしたりしながら進んでいく。
特別な技法を使わず、極シンプルで自然でありながら、何となく注意を引いていくというような感じだ。こうしたプレゼンが欧米では使われることも多いのかもしれないが、私は今まで観たことがない。
ある海外通の日本人曰く「欧米では専ら映像(ビデオ)を組み込んだプレゼン!」などというが、「それこそ芸がない」と思うのは私一人だろうか。もちろん必要に応じて色々な手法を用いることは大事だが、根本的なところでセンスが問われているのだ。
そのセンスはどこから来るのか。私は誰にもあるものだが、それを引出すのは何かに対する情熱であり、その何かを誰よりも楽しむことだと思っている。「好きこそものの上手なれ!」。
台風一過、晴天の暑い一日でしたが、吹く風と肌に感じられる季節はもう秋ですね。今年の8月は例年になく、悲喜こもごもが満載の感慨深い一月であったとしみじみと感じます。
8月も終わり、明日から何かが変わるわけでもないでしょうが、何かの節目であるようです。学生は始業を迎える人も多いでしょうが、一月前とは何も変わらない一面と、また何かしら大きく変わる一面があります。
変わるのはむしろ心の方かもしれません。善きことは変らず、そしてどうせ変わる心ならば、(悪しきことはなく)善き方向に変わることだけ考えたいものです。ついつい秋の気配が感じられると、漂泊の詩心が湧くようです。
不易流行、いく先は遠く道のりは長いのだから、一時のことに心をとらわれず、流れゆく先の未来は楽観視してケセラセラと生きてゆくことも大事です。誰にも明日のことは分からないのだから、せめて自分くらいは善きように考えてもいい。
どんなときでも、その考えは容易には変えない。楽観主義とは信念です。「いにしえの/奇しき縁に/仕えしを/人は変われど われは変わらじ」とは私の好きな句です。
一見して善きように思いても、また悪しきように思いても、人や物事との出会いは、奇しき縁によるもので、もちろん縁には浅深もあるでしょうが、春夏秋冬の人生を振り返れば意味のないことはないように思います。
「仕える」とは古風な言い方ではありますが、「人生は劇のごとく」といった西欧の哲学者がいたかと思いますが、人生は様々なものに「仕えている」と思うくらいで丁度いいのではないでしょうか。「仕える」というは、けして強制ではなく自分の意志です。
ましてや「奇しき縁に」仕えているのだから、目の前の現実(人やモノ)にではないのです。そう感じられれば、腹も立たず、少しは穏やかに日々を過ごせるのではないでしょうか。それらのことが、振り替えてみれば、ちゃんと人生の春夏秋冬を彩っているということにはならないでしょうか。
秋の気配にそんなことを感じています。