命の大切さ・・・・とネットで検索すると、
そ・れ・ら・し・い・レポートが散見されます。
それらしいというのは、生きて欲しい・・・・生きるためにはどうすればいいのか・・・・
自己肯定感を育む、命は一つであり、不可逆性であること・・・
生きているという事は輝いている事、そして評価表など様々だ。
しかし、その大切さを証明する言葉は見受けられない。
つまりそれは、誰もが生きている意味が分からないから、
レポートに出来ないことを意味しているのに等しいと思うのだ。
こういうのは何だが、死んだ人しか生きている意味や命の大切さと云うのは分からないものだが。
つまり、それを昔の先人たちはどうやって生きている人々に教え伝えようとしたのか?
を考えてみた時に
三途の川や地獄の閻魔の架空話、そしてキリスト教における天国と地獄の世界観が
生み出されたのではないだろうかと、個人的には思うのだ。
つまり無宗教にとっては、生きる意味などは無いのだ、もしくはそれに等しいのだ。
ただ自分のエゴの実現の為、友人たちとバカげた冒険を試みてみたり、
親を喜ばせるために生きたり、または子供たちの為に生きて年金で生活を助けようとしたり
という動機があるから生きられるのだ。
その生きる動悸が無くなった時、どうやって生きて、命を大切に扱っていけば良いのだろう。
人は何かの目的や、動機、信念、信条なしには生きられない。
宗教に入れと言っている訳ではないのだが、何らかの死ぬまでに貫ける
自分自身だけの心の支えが必要なのではないだろうか?
グッドドクターというドラマがあるのだが、韓国版、日本版、アメリカ版があり
私はアメリカ版が好きでDVDも購入し見てもいるが、セカンドバージョンでは拒食症の女性が患者として現れる。
栄養失調による心弁膜症に陥り、新・心弁膜形成の為には栄養を1200Kcal毎日摂取しなければ
基礎体力が無く、手術にも耐えられない。
単に食べるだけなのに、脳が萎縮して食べることを受け付けなくなってしまっているのだ。
しかしながら、例え手術が出来たとして、
つまり心弁膜症を改善したとしても、死は免れない状況なのだ。
何故なら拒食症が治らない限り次々に病変は現れてくるからなのだ。
そこで、ドクターは拒食症対策の為に、脳への電気刺激手術を提案する。
一見何の関係もないであろう本体の拒食症へとアプローチする試みだ。
確かに目前の心弁膜症だけを治療しても、もっと違う部分が影響を受けて、
外科医にその都度、切り刻まれた上に体力消耗が激しく、結局は息絶える事だろう。
そうはさせまいと本人は、
自分の命を大切に思う気持ちが芽生えてきて、生きようと脳への電気刺激手術へと生きるために向かうのだ。
ここまでして生きたいのか?だったら何で拒食症になんてなったんだ。
何で痩せる事や美容を優先したのだ。・・・というこちら側の気持ちもあるが、
自分自身が命を大切に思わない限り、命を守る行動へとは発展していかない。
以前、東京に住んでいた時に御縁で、電話相談室長さんとお話しさせていただいた時、
リストカットした女性を一時事務所で一晩預かってくれないかという依頼が病院から
年に2-3件来るそうなのだが、事務所のソファーで毛布に包まり一夜を過ごし、
朝になりコンビニの前でサプリメントを買わせて、飲んだことを確認して見送るそうなのだが、
自傷行為に陥る第一に脳の栄養失調があると断言していた。
我々は、日々こんなにも飽食な時代に於いて、ウェストを気にする女性が多く居て、
絶食や減食で次第に思考回路と脳自身が萎縮していき、
その結果として命を守る行動が出来なくなるというのだ。
これは一例であるが、個々にそれぞれの人生の中でターニングポイントになるときが必ずあって
それが一度の人もいれば何度の人もいる事であろう。
その時に、命を軽く扱わずに、自分の為の命というだけではなく、
家族にとってのかけがえのない自分の命であることも同時に気付かなくてはならないと思うのだ。
JP7FRMのmy Pick
私は、エリザベス・キューブラ―・ロスさんの著書で、死生観を学習したときに
人は死ぬ
その事を前提に生きて行くことが大切ではないだろうかと悟ったのだ。
何故そう思ったかというのは、無宗教だからだ。
いや失礼、ウソついてました。
科学信仰教と云っても過言ではありません。
統計や平均寿命、健康寿命などと云う数字を信じて生きている節があり
きっと85歳くらいまでは生きるだろう。
という安心感をもって人生を緩く生きている節があるからです。
現実には、明日事故で亡くなる方もいるし、半年後に膵臓癌でこの世を去る人もいます。
つまり生きている時間は貴重だという事です。
85歳くらいまでは大丈夫だろう・・・・などと
永遠だと思われていた時間ですが、実はそんなに長くはありません。
その長くない時間の中で、喜びを見いだせない事、幸せを感じられない事こそが
自分の命を大切に扱えなくなってきているのではないでしょうか?
言っている意味としては、山登りでの崖に張り付く剣岳のカニのタテバイや↓
カニのタテバイは、鉄の杭が垂直の岩に打ってあるだけで怖いです。
画像は平蔵のコル付近で、手を離せば1Km下まで真っ逆さま
平蔵のコルなどをトラバースする時には、↑
↑
そっちの例えの方が分からないよという人が多いかも?
ちょっと手を離せば1Km下の崖に転落死を脳裏によぎりながら、必死に岩を掴み
↑
手足と頭と胴体がバラバラに、ちぎれて見つかるレベルの高さという状況で岩にしがみつきます
こんな所で死んでたまるかと自分を奮い立たせて、
死の最も遠い方へと希望の光を見出して、足を一歩一歩と進ませるときには、
自分はやっぱり死にたくないんだ!
生きたいんだ!
と改めて自分を推し量ることが出来るのです。
しかし、何度もそんな危険なことをしていれば、岩ですので、
いつか手が外れて転落死することは目に見えていますので、何度も試すところではありませんが、
危険なシーンに直面して、足が震えて、まるで削岩機のように貧乏ゆすりが始まると、
今度は全身が寒くなり、冷汗が吹き出し、目眩も始まり
このままふわぁ~と倒れて崖下に落ちてしまうかも?という不安が出てくると、
今度は心臓がドキドキしてきて、
痛いほどに胸が苦しくなってきて、目眩やら動機やら足の震えやらで
どういう風に自分がその場に立っているのかさえも分からなくなってきますが、
とにかく、岩にしがみつき、
岩の冷たさと痛さに、顔や体を押し付けているうちに
次第に心と心臓の鼓動が落ち着いてきて、地震のような揺れが収まってくるのです。
そのようになってみて初めて生きる事って「それだけで素晴らしい」という気持ちにさせられ
だからと云ってそれを感じる為には、危険な場所には行きませんけ・れ・ど・も・、
そこまで体験できなければ、生きるって素晴らしいとは思えないんじゃないかと思うのです。
そういう体験を通じて、手を失おうとも、手術で臓器を失おうとも、今生きている素晴らしさ
そして命ってありがたいことに気付けると思うし、
また今後の人生も喜んで苦労しようという気持ちも現れてくるんじゃないかと思うんです。
ちょっと壮絶な・・・ショック療法的な・・・命の大切さの獲得概念でしょうか
とにかく体験からしか、命の大切さと云うのは実感できないものだから、
冒険や失敗、痛い思い、苦しい思いを通じて、気付けたら
生きる方向性や内容のベクトルが今とは違って見えてくるんじゃないかと思うんです。
もう一つとしては、こういった番組もあるかとおもいます
この番組に出てくる子供たちは、おじさんという和尚さんに思春期、反抗期に
命を絶とうと考えて、彷徨い救われた物語です。
この番組は何度も目にしますが、人は心の支えがどこかにあれば、必ず自らが復活していき
またそういった人助けの優しい心が輪となって広がっていくという、
近年稀にみる素晴らしい本物のドキュメンタリー番組ですが
和尚が、なぜそこまでして生きることにこだわるのか?という意味がストレートに伝わってきます。
などと
かなり偏った訴え方ではありますが、
本日もご覧いただきましてありがとうございました