死生学?の勉強 その1 | 独学の道Ⅲ

独学の道Ⅲ

自分で自分を変えることは、到底無理なことかもしれないが、それに望む気持ちの自力論は高尚で偉大である。
仮にその結果が甚だ振るわなかったとしてもだ。
By幸田露伴(努力論より)

今日のテーマはちょっと重い。

フェイスブックのように良いことだけをいいね!するのとは棲み分けて、ヤフーブログには両局面を載せていこうと思っている。
私の職業は「いかに生きるかを援助する職業」でもある(当然医師でも病院関係者でもない)が、と同時にその「生という時間が」を大切にする職業である。(文字で表すと何か胡散臭くなるね)


私達の年代はちょうど高度成長期の親に育てられてきて、いまでいうところの「ゆとり教育」ではないが「甘やかし教育とでもいうのか」なんでも買ってもらえた。故に物質的に豊かには育ってきたものの、心の育ちが不足して育ってきたとも言えるのではないだろうか。
(あくまでも私を見つめた時の話)

ちょうど40代は色々と定説がある。わがままで結婚できない世代。CDを勧んで購入する世代。好きなものには金を惜しまない世代。などなど

私が20代の頃はまだ障害を持つ方々が表社会で活躍することを許されず、また死者を子供になるべく見せないように包み隠す時代であった。そんな時解剖実習で検体を見せていただいた時は・・・・なんという精神状態だったことであろうか。

その時初めて「死」というものを知り、また「生」ということに向かう職業を歩んでいるのだと自覚した瞬間でもあった。

何十年も知ったつもりでいたが、やはりわからない。ということでアマゾンの力を借りて格安でそれらの本を購入。今回は手始めに死ぬときに人はどうなるという心に残った一文を紹介したい。


緩和医療の医師が患者さんと向き合って感じたこと、それによって感じたことを、幾つかのパートに分けたテーマで紹介している。詳しくはアマゾンの中古で\96と送料のほうが高く付くほど安くなっている。

私の目線が今でも「生」に向いているのだから、偏ったピックアップしか出来ないのは残念だが、
 
「大多数の人間はビクビクせず生きている。つまり人間というのはこの点では生来ポジティブな生き物だと理解される。私はこれは長所だと考える。なぜなら、生と死は実は{まさに隣り合っている}ため、それをことさら強く意識するような人間は、日常生活を送るのがなかなか困難だからだ。しかし一方で、このいつまでも行きられるという楽観が、時に様々な悲劇を引き起こすのである。なぜなら永遠の生などない故に、人はいつか死と向き合わなければいけないからだ。その時、初めてその超難関と格闘しなければいけない人間と、それまで様々な例題、類題に取り組んだ来た人間、どちらが問題を解きやすいであろうか。受験勉強もせず難関校を受験する受験生はいないだろう。難関を解くには、トレーニングが必要なのである」<148ページの一文を引用させていただきました>



以前、バイク事故で時速100Km/hで車にぶつかり何とか急死に一生、その前も凍結路面でバイクで転倒、後ろからトレーラー、九死に一生、
最近では雪山で樹氷に沈む事件、雪山歩きで水を汲めるなーと思って音で近づいたら実は滝の上のスノーブリッジだった事例・・・などなど
私には死を感じる局面はいくつかあった。その度に一秒、いや一瞬間違っていたらあの世に行っていたな~と思うことはあった。・・・ま~この様に不慮の事故で考えずに逝けたなら何も心配は要らないのだが・・。

こういった事はしばしば私にとって死という事を考えさせられるトレーニングであったのかもしれない。

そういう意味でいつも思うことは、「生きててよかった~」である。
事故の時も手と足付いていてよかったー。手と足が動いてよかった~と病院で何度思ったことか。

そういう意味で、癌などの病気に罹った場合でも、生存できる最善の方法を選び生きててよかった~と病院で思うのだろうなと今から思っている。最終的には乙武さんのようになってでも生きていきたいと思うのだろうなとこの本を読んで感じたことであった。


次回は「死ぬ瞬間」という本を読み終えたら、感じたことを書いてみたい。

大変私事の文章になって申し訳ありません。ご覧下さりありがとうございました。