どもの英語学習の為に、小さいうちから英語に馴染める環境を作ってあげている、

 

作ってあげたいと思う親が増えてきているようですね。子ども英会話教室に通わせたり、

 

英語の絵本を読み聞かせたり、海外の子供番組を見せたり、英語のアプリで遊ばせたり、

 

英語の遊び歌を一緒に楽しんだり、色んな形でみなさん工夫をして、頑張っているようです。

 

 

 

『自分の母国語ではない言語を、その言語が母国語ではない環境で

 

子どもに教えることの難しさ』(例えば、日本人が日本で英語を教えることですね)は

 

実際に試みた人たちでないとわからないと思います。その気持ちは、様々な人たちの経験談や

 

失敗談を読むと良く伝わってきます。

 

 

 

私たちの場合、英語圏に住んでいて、子どもが英語を母国語として学んでいるので、

 

英語習得において日本の親の苦労が良くわかっていない、ということに今日気づきました。

 

頭では理解していても、同じ気持ちは、自分で同じ体験をしてみなければ、

 

やはり理解できないものです。

 

 

 

「興味を持って欲しいし、環境を作ってあげたいけど、どうすればいいのか」、それはどういう

 

気持ちだろう、と考えていたら、今ここ(カナダ)で、うちの子達に日本語や中国語を教える時

 

の気持ちと同じなんだ、と気づいたのです。

 

 

 

英語教育に携わっている者として、恥ずかし過ぎて大声では言えませんが、

 

実は私、子どもたちをバイリンガルに育てることに失敗しています。

 

(この話は、長くなるので、また別の時にシェアします。)

 

 

 

うちは、末っ子でも、もう7歳を過ぎていて、長男はあと2週間で15歳になるし、次男もあと

 

一ヶ月で13歳です。三人ともバイリンガルになれる黄金期を過ぎてしまったかもしれませんが、

 

末っ子はまだなんとかなるかも!と少し楽観的に思えました。なら、

 

今からでも中国語で話すようにしてみようか、と思いつき、早速試してみました。

 

 

 

苺をあげる時に中国語だけで話しかけたら、「ハァッ?」って顔をされました。

 

ジェスチャーも入れて、「自分でフォークをとってきて。」「はい、苺。座って食べなさい。」

 

と全て中国語で話しかけたら、「Mom, stop speak in Chinese!」と嫌がられました。

 

 

 

こういう気持ちなんだ、日本で日常生活に英語を取り入れるというのは! 

 

こっちの根気がないと続けられません。

 

でも今回は、慣れるまで嫌がられるのは覚悟で頑張ってみようと思いました。

 

そのうち馴れてくれることを祈りつつ、末っ子の(そしてお兄ちゃんたちもできたら)

 

中国語習得の道を再開してみようと思います。

 

 

 

過去の失敗から、ビジョン無くして成功はない、ということが心にしみて分かりました。

 

ビジョンがないと、苦しい時、大変な時ギブアップしてしまうからです。

 

息子たちのチャイニーズ習得に最初に取り組んだ時に犯した間違いのように。

 

今回はビジョンと目的について良く考えて、取り組みたいです。

 

 

 

黄金期は過ぎてしまったかもしれませんが、少しでも今よりはチャイニーズ

 

(そして日本語も!)に興味を持ってもらえたら、それだけで努力した甲斐があると思います。

 

7歳(半)からの再出発、頑張ってみます。

 

Entrepreneuer。日本語訳は、Weblio によりますと、「企業家」「事業家」となっています。

 

「企業家」や「実業家」だとものすごく立派に聞こえるのですが…

「起業家」の方がどっちかというとぴったりな感じがします。

 

 

「entrepreneuer」という名称をとてもカジュアルに使える人もいれば、

起業家としてすごく成功しているのにも関わらず、「自分はentrepreneuerだ」と言い切れるのに時間がかかる人もいるらしい。

 

 

私は「entrepreneuer」を目指しているわけではないので、自分のやりたいことがそのカテゴリ

ーに含まれるというコンセプトさえも違和感があります。私はただ、頭の中にあるアイディアと心に感じるデザイアーを形にしたい、そういう思いが原動力になって動いているだけ。

 

 

そのアイディアを簡単にまとめると、こんな感じです。

 

英語絵本(や子供本)の読み聞かせ(日本語訳入り)の動画を含めて、英語習得に関するコンテンツを配信し、子供と一緒に楽しみながら、英語本の読み聞かせを通して、一緒に英語を学びたいお母さん(やお父さん)たちのお手伝いをするオンラインコミュニティを立ち上げたい。

 

そこで、このアイディアは形にできるか、形にするためにはどこから始めて、何をどうすればいいか、「起業」の勉強をしながら準備を整え始めています。

 

起業に関する知識、ノウハウ0から始めていますので、何もかもが新鮮でワクワクして楽しい反面、実現までの道のりは長く、得るべき知識が山ほどあり、やることがいっぱいあって、分身の術が欲しい今日この頃。せめて脳みそがあと5つ、一日が100時間くらいあったら!と痛切に思います。

 

「起業家」「企業家」「事業家」のみなさん、心から尊敬します。

 

 

さて、あなたは子供に英語の絵本を読み聞かせてあげたいですか? 子供に英語絵本を読み聞かせるって考えた時に一番のチャレンジ、高いハードルとなることは何ですか? してあげたいけど、できないかも…と思ってしまう理由は何でしょうか? 

 

私の場合、初めて長男に英語で読み聞かせた時、発音と分からない単語や英語の表現が自信のなさに繋がりました。(子供の絵本なのに…ってちょっと落ち込んだのも覚えています。)幸い、長男はたった4ヶ月でしたので、笑われることもなく、徐々に慣れていくことができました。

 

寝る前の読み聞かせは、私も息子たちもとても楽しみにする毎日のルーチンとなったのです。みなさんが英語絵本の読み聞かせについてどういう考えや気持ちを持っているのか、ぜひ、コメント欄でシェアしてください! 

 

 

 

「沈黙〜サイレンス」を図書館で見つけ、江戸初期の日本でのキリシタン殉職について、実話に基づいて書かれた話だと知り、早速借りて来ました。

 

すごいタイミングで、ブログを読ませていただいている「こころのブログ」さんの更新記事で、

日本で「沈黙」のDVDレンタルが開始したことについて書かれていたので、さらに興味が湧いて来ました。

 

殉職死する話を聞くと、一クリスチャンとして、自分がそういう選択と面した場合どうするか、考えさせられます。

 

世界各地でクリスチャンの虐殺のニュースが流れる度、普段は生活とかけ離れているように思える話題も、ぐ〜んと身近に感じられ、自分ならどんな逆境にいても神を選べるか、と問う自分がいます。

 

そういう意味で、この映画を見たら、きっと心が重くなるだろう という心の準備はできていました。そして160分後、予想通り、心がすごく重くなったのです。

 

でも、心が重くなる理由が思っていたのとは違いました。自分ならば、という過酷な現実問題と面したからではなく、「沈黙」という映画の主旨にとても困惑を感じたのです。

 

結果的にいうと、主人公の宣教師は恩師がしたように、「仲間のクリスチャンを愛する」ゆえ、棄教、そして背教までします。もっともな理由に思われるかもしれませんが、クリスチャンの観点からすれば、それは正当化でしかなく、私は納得できませんでした。

 

実際彼らの立場にいなかったら意見を言う資格もないのではないか、と思うこともあります。宗教、思想自由のある国に、のほほんと住んでいる平和ボケのクリスチャンは何を言っても到底きれいごとでしか聞こえないだろう。パーフェクトな理想論にすぎない、と思われるだろう。そういう思いもあります。

 

だから、 死ぬよリも辛い過酷なにいる仲間たちが 自分が棄教することで救われるのなら、それは妥当ではないか。そういう結論を出した人を裁く権利なんて私にはありません。裁けるのは神だけ。と思うのも事実ですが、だからと言ってそれを受け入れられるとも違います。

 

モヤモヤとうまく言葉で整理できないでいる気持ちが

「こころのブログ」さんのブログ記事『小説「沈黙」論(論文)小畑進』 で紹介された

東京基督教大学の教授だった故・小畑進牧師の論文でうまくまとめられていました。

 

小畑牧師は、聖書の中から、小説「沈黙」にある3つの問題点について応答しています。(「こころのブログさんの記事に小畑牧師の論文のPDFがありますので、興味のある方は上のリンクでご覧ください。)

 

その3つの問題点とは、

1、神への忠誠か隣人への愛情か 

2、強者に対する弱者の救い如何 

3、日本の体質は基督教に向くか

 

これらの問題点に対しての解釈、描写が聖書を基としているのではなく、宣教師たち、強いては作者遠藤周作氏の個人の思いに基づいているということが、私が困惑を感じた理由でした。

 

「沈黙」についての感想や批評が様々なのは理解できます。

 

ただ、もしクリスチャン思想と名乗るのなら、やはりその基である聖書と一致しなければならないのでは?

 

子供達にも「クリスチャンであるということがどういうことか」を再認識してもらいたいという思いで「沈黙」を見せたい、と思っていましたが、実際に見終えて、過酷なシーンがあるのも今は見せられない理由の一つですが、それよりも、描写される宣教師たちの信仰心の葛藤、物事、神の御言葉に対しての解釈など、聖書と一致していないところが多く、混乱してしまいかねないという思いの方が強いです。

 

 

 

 

セミの鳴き声をララバイに、鳥のさえずりを目覚ましに。

あっ、それからガチョウさんも忘れてはいけなかった。

 

大自然の中にいる心地よさ、人工の快適さではなく、自然の気持ちよさ。

長い間、先進文明の中で生きている私たちに自然の素晴らしさを思い出させてくれる一晩でした。

 

そんな一晩が明け、私たちの一周旅行の3日目が始まりました。

 

時差がまだあるのか、夫は日の出の前に起き、付近を散歩して来たらしい。6時前は気温もまだ高くなく、海をバックグラウンドとした日の出も見れたようでとても満足そうでした。

 

前日「麵包與超克力倉庫」で買ったホームメイドのパン、冷蔵庫の中に用意されてあったおもてなしの果物と手作りヨーグルト、手作りアップルジャム。

卵をゆで、コーヒーを入れ、妹と二人で朝食の準備。簡単な朝食の出来上がりです。

 

 

 

コーヒーを片手に歩いていると、手作りカバーが付いているノートを発見。

ゲストのメッセージ用でした。

中をパラパラめくってみると、いろんな宿泊客のいろんな思いが綴られています。

民宿のささやかな心配りに暖かさを感じます。

 

 

あと一晩はここでゆっくりしたいという思いを心にしまいながら、荷物を片付け、

優しい管理人さんにお礼と別れを告げ、「三間屋」を後にしました。

 

今日の目的地は、アウトドアが大好きな夫がずっと楽しみにしていた「太魯閣國家公園」。

 

三日目:台東県長濱鄉ー花蓮県太魯閣

 

北回帰線を通り、さらに続く綺麗な海岸線を右手に見ながら、花蓮に向けて車を走らせ、本格的に山の中に入ります。

 

 

 

 

 

平地の海岸線も美しかったのですが、山道も言葉にはできない感動がありました。

何よりも、神の創られたこの雄大な自然から神の壮大さを目の前にし、自分がいかに微々たるものか、再認識しました。

 

そして、「こんな微々たる私たちを神は愛してくれている」という思いが感動を呼び起こす。山道のカーブを回るたびに見えてくる山の絶壁に「わぁ〜、神はすごい!」という言葉以外出ませんでした。

 

出発の頃は快晴だった天気も、山の上に登るに連れ、雲行きが怪しくなって来る。

 

 

 

「沙卡噹步道」についた頃は、雨もパラパラと降り始めました。

 

歩道の入り口は、駐車場から赤い橋を渡って、階段を降りたところにあります。

 

 

 

 

心配した雨も、幸いそれ以上激しくなることなく、1.5kmの歩道を歩くにはちょうどいい曇りの天気。いざ出発!

 

 

 

「沙卡噹步道」は日本時代末期に水力発電のために作られた歩道で、後になって、観光客が増えた後、修復されて今の歩道となったものです。

 

 

 

途中いろんな箇所で「立ち止まり禁止。落石注意」のサインをよく見かけます。

実際「今地震がきて、落石で戻れなくなったらどうしよう」といった心配を振り払り、

安全を祈りながらのハイキングでした。

 

 

 

日差しもないので、楽チンかと思いきや、やはり汗びしょびしょになる始末。

折り返し地点までの1.5kmも思ったより距離を感じました。

 

 

 

やっと、折り返し地点に着いて、さて戻ろうか!と元気を取り戻した私。

ところが、夫にはまだ物足りなかったのか、末っ子と一緒にさらに奥に進みます。

もちろん、私と上の息子二人は折り返してきましたよ。

 

 

 

ちなみに、この歩道を妊娠7ヶ月の妹がほぼ完歩したことも記録しておくべき事です。

(途中で陣痛が起きないかとハラハラしたことは知らせていません。)

「彼女ができるのなら、私にだってぇ!」と自分を励ましてたのも事実です。

 

 

 

雄大な自然に感動、感嘆し、危険を恐れつつ、視野から消えて行く子供達の安否に不安を感じ、妹の切迫早産を心配し、所々で高所恐怖症と闘いながら、複雑な気持ちでハイクした1.5kmは実際より長く感じました。でも、完歩した後の爽快感は例えようがありません。そう、汗びしょびしょで汗臭いのにも関わらず、です。

 

 

無事車に戻ることができ(神様、ありがと〜う!!!)、

この日の宿泊先である「晶英ホテル」へ向かいました。

夫と子供達は、バイキングでの夕食後、夜11時まで開いているプールへ。

 

 

 

私は、プールサイドで読書。(のはずが、うたた寝してしまいました…)

 

 

こんなんで、三日目も充実した一日となりました。

 

 

 

「昨日のホテルよりもいい」と言われて、想像したのは人離れた山の中腹にある山小屋ではなかったです。想像してたのと差がありすぎて、正直絶句してしまいました。車から出たあとはさらにショック!管理人さんの飼っている二匹の猫が野放しになっているので、あっちこっちで「用を足した跡」が!!! どこをどう歩いていいのやら、足の裏からもぞもぞ。

 

子供達に「猫のふん」を踏まないように気をつけて歩くことを伝えながら、スーツケースを小屋の中に持って行く。

 

ところが、中に入って、目の前に広がる空間が素敵すぎてこれまた絶句。

外からは簡単な山小屋にしか見えなかったちょっとみすぼらしいこの建物のインテリアは

なんとも心を和ませてくれるアットホームな居心地の良さそうな配置でした。

自分の家もこんな風にしたいと思わせるようなインテリアです。

 

 

 

 

もう日も暮れ始めた夕方だったのですが、冷房がないため、蒸し暑い。

暑がりの父なんかは、一台の扇風機を独り占めしているのにも関わらず、汗がだらだらと止まらない。

 

この民宿は「自然」がテーマで、大自然の中にあるだけではなく、自然を満喫してもらうために冷房もテレビもwifiもありません。あるのは、壁一面の窓ガラスの向こうに見える山、CD、本、そして絵を描く道具。

 

ちょうどうちの息子たちも甥っ子たちも(そして妹も)絵を描くのが大好きなので、みんなで鉛筆を持つだし、絵を描くこと2時間。普段はスクリーンに目がくっついている息子たちも絵に夢中。今までに宿泊したお客さんの作品もきちんと残していて、妹たちが10年前新婚当初に来た時に描いた絵もちゃんとありました。

 

 

 

そのアーティスト達が忙しく筆を動かす側で、夫と私はラーンチェアで横になり、一面の窓ガラスから見える大自然を前にリラックス。忙しい毎日ではなかなかないひとときです。

 

(すみません、こんな写真…)

 

 

この後、1時間ほど離れた町で何かのフェスティバルがあると聞き、お祭り騒ぎにちょっと参加して来ました。そこで出している屋台で、飛び魚の卵が入ったソーセージや、飛び魚の串焼き、秋刀魚の塩焼き焼きイカなどを味わい、普段なら行かないだろうフェスティバルを体験。

 

民宿に戻って来た頃には、空気もだいぶ冷えていて、シャワーでスッキリした後にラーンチェアで憩う夜のひとときは至福のひととき。山の中のセミの鳴き声は格段に大きく、小屋の周りを巡回するガチョウのSoloとセミの大合唱をバックミュージックに聞きながら、のどかな夏の夜を満喫。ここだけ時間がゆっくりと流れているように感じます。

 

あと一日くらい、ここでゆっくりと流れる時間を楽しみたかったですね。

「三間屋」は、大家族で泊まるにはぴったりなところです。ホテルだとそれぞれが別々の部屋に入っていき、夜の交流はできないのですが、こういうところだと、アットホームで、もっと一緒に過ごせる時間が持てます。

 

終わりに、この日見た太平洋をシェアします。