「沈黙〜サイレンス」を図書館で見つけ、江戸初期の日本でのキリシタン殉職について、実話に基づいて書かれた話だと知り、早速借りて来ました。
すごいタイミングで、ブログを読ませていただいている「こころのブログ」さんの更新記事で、
日本で「沈黙」のDVDレンタルが開始したことについて書かれていたので、さらに興味が湧いて来ました。
殉職死する話を聞くと、一クリスチャンとして、自分がそういう選択と面した場合どうするか、考えさせられます。
世界各地でクリスチャンの虐殺のニュースが流れる度、普段は生活とかけ離れているように思える話題も、ぐ〜んと身近に感じられ、自分ならどんな逆境にいても神を選べるか、と問う自分がいます。
そういう意味で、この映画を見たら、きっと心が重くなるだろう という心の準備はできていました。そして160分後、予想通り、心がすごく重くなったのです。
でも、心が重くなる理由が思っていたのとは違いました。自分ならば、という過酷な現実問題と面したからではなく、「沈黙」という映画の主旨にとても困惑を感じたのです。
結果的にいうと、主人公の宣教師は恩師がしたように、「仲間のクリスチャンを愛する」ゆえ、棄教、そして背教までします。もっともな理由に思われるかもしれませんが、クリスチャンの観点からすれば、それは正当化でしかなく、私は納得できませんでした。
実際彼らの立場にいなかったら意見を言う資格もないのではないか、と思うこともあります。宗教、思想自由のある国に、のほほんと住んでいる平和ボケのクリスチャンは何を言っても到底きれいごとでしか聞こえないだろう。パーフェクトな理想論にすぎない、と思われるだろう。そういう思いもあります。
だから、 死ぬよリも辛い過酷なにいる仲間たちが 自分が棄教することで救われるのなら、それは妥当ではないか。そういう結論を出した人を裁く権利なんて私にはありません。裁けるのは神だけ。と思うのも事実ですが、だからと言ってそれを受け入れられるとも違います。
モヤモヤとうまく言葉で整理できないでいる気持ちが
「こころのブログ」さんのブログ記事『小説「沈黙」論(論文)小畑進』 で紹介された
東京基督教大学の教授だった故・小畑進牧師の論文でうまくまとめられていました。
小畑牧師は、聖書の中から、小説「沈黙」にある3つの問題点について応答しています。(「こころのブログさんの記事に小畑牧師の論文のPDFがありますので、興味のある方は上のリンクでご覧ください。)
その3つの問題点とは、
1、神への忠誠か隣人への愛情か
2、強者に対する弱者の救い如何
3、日本の体質は基督教に向くか
これらの問題点に対しての解釈、描写が聖書を基としているのではなく、宣教師たち、強いては作者遠藤周作氏の個人の思いに基づいているということが、私が困惑を感じた理由でした。
「沈黙」についての感想や批評が様々なのは理解できます。
ただ、もしクリスチャン思想と名乗るのなら、やはりその基である聖書と一致しなければならないのでは?
子供達にも「クリスチャンであるということがどういうことか」を再認識してもらいたいという思いで「沈黙」を見せたい、と思っていましたが、実際に見終えて、過酷なシーンがあるのも今は見せられない理由の一つですが、それよりも、描写される宣教師たちの信仰心の葛藤、物事、神の御言葉に対しての解釈など、聖書と一致していないところが多く、混乱してしまいかねないという思いの方が強いです。