こんにちは。久しぶりの更新になりました、直江じょうすけです。

 

早いもので立春も過ぎ来週からは10年に1度の高温だとか。この枕詞ここ最近使い過ぎなような気がしますが・・新潟ではたまにそんな冬もありがたいものです。

 

さてフリースクールなんくるないさでは基本的に何をしても自由、その上で百人一首、バドミントン、座学、勉強を4つの柱として掲げました。

しかし色々なご家庭のお話しをお伺いした結果、現代では子供が不登校になった時まだまだ学力の遅れということに対し不安を持っている方が多いということを認識し、改めて方針をもう一度見直すことにしました。

 

そこで読み書き算盤という教育の古典的な言い伝えを軸として、中でもまず読書をすべての基本として重視します。

 

自分で読みたい本を選び探して読む

その行為には 生きるための全てが詰まっています。極めて能動的でありそこに受け身の要素は一切ありません。それだけで 集中力、考える力、聴く力、語彙力を養います。

 

また漫画と違い活字だけの文学は侘び寂び、花鳥風月、友情思いやりといった日常の延長にある繊細な情緒や感情の豊かさも育てます。

漫画が即ダメだというわけではないのですが視覚から来る情報は激しく感情を揺らし過ぎます

小さいうちから漫画を読みすぎることは毎日激辛カレーを食べ続けるようなもので、やがて何も感動や喜びを感じない無痛症になってしまうことを懸念しています。

学業や趣味仕事など何をやっても長続きしないなどは典型的な現代病とも言われてますが、これは本人に忍耐力がないのではなくそこに喜びを見出す感性が鈍化してしまってそこまで達する前にやめてしまう、ということも一部あるのではないかと思います。

 

以前にも書きましたが実際に僕も小学校高学年になってから本を読むようになり、それだけで小学校から中学校にかけてはあまり勉強せずとも教科書の内容は楽に理解できました。特に勉強自体が苦だと思ったこともありません。この時の集中的な読書の習慣は現在に至るまでの学力の基礎になりました。コナンドイル先生と江戸川乱歩先生が僕の真の国語の先生ですね。

 

ただ読書感想文は苦手でしたがあんなものは必要ないと考えています。

本来国語の授業なんかも書くことは別にして本を読むだけでいいと思います。〇〇活用だとかしょーもない品詞分解なんかしてないで1冊丸ごと楽しく読んだらそれでいいのです。なぜ教科書はいつも部分掲載なのでしょうか?

そして最大の疑問は答えは一つしかないということ。この時なぜ主人公はこう思ったのですが?その理由を〇〇字以内で抜き出しなさい、などナンセンスの極みとしか言えません。

 

しかし今の時代はひとりで静かに本を読むという行為はかなりハードルが高いように感じます。だからその点は一緒に図書館に行って本を読んでくれる人がいるといいと思います。

なのでなんくるないさでは基本的な活動として一緒に重図書館に行き読みたい本を探します。そこでコーチングをしながらどんな本を読みたいか考え一緒に読む。そして時には感想やあらすじを聞く、というのを基本的な活動にしたいと考えています。

 

具体的な活動場所としては阿賀野市立図書館、新発田市立図書館、胎内市立図書館を予定しています。