8月も下旬となってきますと、だいぶ戦争回顧の流れは退潮となってきますけれど、そんな折に読み終えた一冊が『戦火のバタフライ』でありました。NHK『映像の世紀 バタフライエフェクト』なんつうあたり、意識しているタイトルでしょうか。まあ、バタフライエフェクトは普通に使われる言葉ですけれどね。

 

 

ともあれ、戦争の悲惨さを伝える手段はいろいろあるところかと思いますけれど、生々しい映像や写真にインパクトはあるもなかなかに直視しかねることもありましょう。「そんなことではいけん、正面から向き合うべし」てなご意見は「そのとおりなのですが…」と。

 

ただ、人間には想像力というものがあるわけでして、その想像するところは人それぞれに委ねられるところではありますけれど、直接的な視覚に頼らない文章で描かれた場面、それも必ずしもどこまでが本当なの?と眉に唾することもありそうは創作物、つまりノンフィクションでない小説として描かれた場面であっても、極めて強い印象を残すことがあるとは否定できないのでもあろうかと。

 

本書で細かく描写された東京大空襲のようすは、その後の話の展開に出てくる戦場なのか、銃後であるのかといった区分けに対する疑問を導かれているようでありますね。もちろん作為的なのでしょうけれど、これまではとかく太平洋戦争末期に、東京のみならず日本各地の都市が米軍の空襲に晒されたことを事実として知っているばかりであったような。例えば、大阪の空襲で言えば「ピースおおさか」の展示を通じてなどして。

 

それでも、この地域にはたくさんの焼夷弾が落とされて、こんなにも広いエリアが焼け野原になったのですよと伝える展示パネルに、「なんてこった…」と思う一方で、空襲下を逃げ惑った個々の人々のことにまで思いを馳せていたかといえば、そうではなかったと言わざるを得ない…そんな個人的現実を思い知らされたりもしたわけでありますよ。

 

歴史上、戦争というもは日本でも他の国でも、必ずしも戦うのが他の国というばかりでなしに内戦状態(戦国時代とか)のようなものも含めて、悲しいかな、繰り返されてきていますけれど、大きな戦いは(選定の妥当性はともかくも)世界三大古戦場と言われるのが、ナポレオン戦争のワーテルロー、南北戦争のゲティスバーグ、そして関ヶ原であるように、広い野っぱらで敵味方の兵士が一大会戦に及ぶという形であったような。その段階では戦場である場所と戦場でない場所(つまりは太平洋戦争時の銃後)がはっきり区分けられていたのではないかと。

 

ですが、第一次世界大戦で航空機やら毒ガスやらが登場し、総力戦の様相を呈してくると、どこでもが戦場になってしまう可能性が出てきたのでもありましょう。明治になって近代化する中、日清戦争、日露戦争を戦った日本では、むしろ近代戦、総力戦以前の形こそが戦争と思ってしまっている人たちがたくさんいたのかもしれません。なにしろ戦場と銃後は異なるものと思っていたからこそ、日中戦争の拡大をあまり意識せず、対米戦争の開戦がお祭り騒ぎになったりしたのかも。もっぱら戦場は中国大陸であり、太平洋上であり、南方でありと考えていたのかもしれませんなあ。

 

さりながら、だんだんと文字通りに雲行きが怪しくなって、日本の上空はB29で覆い尽くされることに。その段になっても、戦場は兵隊さんのいるところという意識で、銃後の感覚は生き続けたのでもありましょうかね。

 

と、銃後にこだわるのは本書のその後の話の展開の故でありまして、空襲被害者(つまりほとんどは民間人)を国家補償の対象とするか否かで政争が繰り広げられるからなのですな。作者の伊兼源太郎という作家は(全く知りませんでしたが)ミステリー系の作品を多く書いている人のようで、怪しげな犯罪の影がそこここに出てきて、「そういう話だったか…」とは思ったものの、それが本筋であろうことはともかくも、東京大空襲に晒された多くの人たち、さらに空襲被害者を国家補償から切り捨てようとする国のありよう(そこには国そのものが、近代戦はどこもかしこも戦場になり得るという認識を欠いていたろうかと)に思いを馳せる点で読み甲斐のある一冊であったと思ったものなのでありました。