ナポレオン戦争のさなかに、

ネルソン提督率いる英国艦隊がフランス・スペイン連合艦隊を打ち破ったトラファルガー海戦

取り上げた番組を見て、たまに見ると面白いものだと思ったヒストリー・チャンネルですけれど、

勢いというのか何というのか、見るときは見るという具合で一昨日、昨日と見ておりましたですよ。


ひとつは「関が原の合戦」、もうひとつは「日本海海戦」を取り上げた番組で、

いずれを見ても日本史は、どこからも切り離されて単独で日本史たるものではないなぁと、

よおく考えれば当たり前なんですが、そんなことを思ったのでありました。


まあ、後者は日本とロシアとの戦争の中で起こったわけですから、

日本だけの話じゃないことは明らかではありますけれど、

では前者は…ということになりますですね。


そもそも関が原の戦い(1600年)を語り起こすのに、

その半年ほど前にオランダ艦船リーフデ号が現在の大分県・黒島に漂着したというところから始めるのは

そうはない切り口なのではなかろうかと。


オランダを出航した後、マゼラン海峡周りで太平洋に出たものの悪天候に見舞われて漂流、

たどり着いたのが日本であったそうな。


そもそもどこへ向かっていたのかは不詳ながら、

積荷として鉄砲や火薬、甲冑などを相当数積んでいたそうですが、

これに時の五大老筆頭であった徳川家康は大層関心を抱き、

特に見慣れぬ西洋の甲冑(お城の中で夜中にひとり歩きしちゃうようなやつですね)には

リーフデ号乗船員から詳しく説明を受けたらしくもあるという。


その乗組員というのが後に三浦按針を名乗ることになるウィリアム・アダムスで、

同乗者の中には東京駅の西側の地名(八重洲)にその名を残したヤン・ヨーステンがいたのですね。

これだけでもすでに世界史の中の日本史的な要素はあるように思いますけれど、

こたびは関が原のお話。


ともかくリーフデ号に積まれていた西洋の甲冑がどうやら鉄砲の弾をも寄せ付けないことを知った家康は

これをまねて作らせた南蛮甲冑なるものを着込んで関が原に望んだといいます。

(家康が着用したと伝えられる南蛮甲冑は、和歌山の博物館に所蔵されておるそうな)


関が原では敗色も漂う中、寝返りの約束を守る気配のない小早川秀秋に鉄砲を撃ちかけさせ、

これに慌てた小早川が西軍側に攻撃をしかけたのを気に劣勢挽回、

戦いは徳川東軍の勝利に…というのが、よく聞かれる話。


ですが、ここではこれに加えて、南蛮甲冑に身を固め、敵の鉄砲など怖くないと

総大将である家康自らが最前線で叱咤激励したことが東軍の士気を高め、

勝利を得る大きな要因になったと紹介しているのですね。


関が原の勝因をどう分析するかはいろいろと考え方もありましょうけれど、

この南蛮甲冑の話は初めて聞きましたですねえ。


と、関が原の話だけで長くなってしまいましたが、お次は日本海海戦の方。

ご存知のとおり日露戦争での天下分け目みたいな戦いなわけですが、

海軍力ではロシアに遅れをとる日本が対ロ戦を想定して新造艦2隻を手に入れます。


が、これは日本が新たに発注したというよりも、

作られたものの要らなくなってしまったものの横流し品のようなもの。

元はアルゼンチン海軍が隣国チリとの国境紛争にあたり建造依頼されたものながら、

出来上がる頃には紛争は終結、これが日本の連合艦隊に入り、

装甲巡洋艦「日進」「春日」として活躍することになるのだとか。


そして、これも知らなかったことですけれど、

日本海海戦にはアルゼンチン海軍の士官が観戦武官として参加しており、

その関係からアルゼンチンの海軍博物館には日本海海戦に絡む史料展示があるばかりか、

かの観戦武官は日本海海戦に関する克明な記録や分析を残していたということが、

日本側では比較的近年になって知れるようななったらしいのですね。


いやはや何ともですが、本当に知らないことばかりでありますなあ…。