垣間見えたライオンの丘 に近付いて行きますれば「ようこそ」の看板。

間違いなくワーテルローの古戦場に到着でありました。



近付けば近付くほどに大きくなるライオンの丘、そしてその手前には円筒形の建物。

この建物がパノラマ館というらしく昔ながらの展示施設のようです。



それにしても天気がよろしくない…と、それはともかくとして、パノラマ館とは別に

今では新しい展示施設ができておりまして、古戦場の見晴らしを遮らないためか、

建物は何と地下にあるのですね。



パノラマ館手前の階段を降りたところ、つまりこの施設の天井の上には

ワーテルローの草はらが広がっているというところに「Mémorial 1815」はありました。

開館して2年余りということですが、まだまだどこもかしこもぴかぴかでありますよ。



真新しいゲートを抜けて、さらに下の展示室へ。

そこにはフランス革命からナポレオン戦争終結までをさまざまに紹介するものが

並んでいたおりました。最初は「啓蒙の時代」として、このような展示物が。



印刷機でありますね。

これがあったからこそ、広く民衆にも革命思想を伝えられたわけで。

と、こうした始まりの始まりから逐一触れていってはきりがなくなりますので、

ざくっと端折り気味にまいるとして、これはフランス革命時のカレンダーです。



革命を推進する側としては旧体制に属するものは何でも変えてしまおうと思ったか、

暦を変えてしまいましたですね。歴史の教科書で目にしたブリュメールとかテルミドールとかいう

あれですなあ。


1年365日を12の月に分け、ひと月は全て30日として

余った5日は全部年末にまとめてお休みとして置いたということですので、

この点だけをみると年末年始休暇が一定の長さで確保されるなあと思ったりも(笑)。



話は飛んで、こちらは1812年段階、ナポレオンの帝国が最大版図となった時期とのこと。

赤い部分が直轄領で、イタリアやスペインの辺りと同じ色の部分が関係国ですな。


ずいぶん前に触れましたように、スウェーデンには王位継承に絡んで

ナポレオン配下の将軍ベルナドット将軍が送り込まれ、

前王の養子となってやがて王位を継いだのだけれど、地図上では白かと思ったりしますが、

よくよく思い返してみれば、このベルナドット将軍はすっかりスウェーデンの立場になって

ナポレオン軍と戦ったりもしている。だから、白でいいのでしたっけ。





とまれ、ナポレオンの軍勢は行軍を続け、大砲を打ち、そしてモスクワで敗走することに。

この後のことは、この施設のリーフレット(日本語付き)からちと引いておくとしましょう。

欧州各国の圧力の下で、ナポレオン皇帝は1814年に退位し、エルバ島に追放されました。主要な国々はヨーロッパの分割を図ってウィーン会議を開催しました。
1815年3月1日、ナポレオン・ボナパルトはゴルフ・ジュアンから上陸して、パリに進み…6月18日、ブリュッセルから15Kmの地点でウェリントン公…の指揮する連合軍…と交戦しました。

この戦いがワーテルローの戦いでありますね。

ここでの敗北がナポレオンの運命にとどめを刺すことになるという、歴史の大舞台。

それに纏わる展示解説を集めたこの施設はじっくり見れば相当な時間が必要かと。

館内シアターで上映されている4D映画で、眼前に騎馬が迫ってくるのを見るだけでも

入館する甲斐はありと思いますけれど。


ところで、近年になって耳にするようになった「世界三大古戦場」とは、

このワーテルローとアメリカ南北戦争の激戦で知られるゲティスバーグ

そしてもうひとつが関ヶ原 であると言われるおりますなあ。


些か関ヶ原に下駄を履かせすぎなのではと思ったりするところですが、

「Mémorial 1815」の片隅でこんなものを見かけると、嬉しいような恥ずかしいような(笑)。

果たして、ワーテルローでも「世界三大古戦場」が認知されておるのでありましょうや…。



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