ということで大阪城公園 をふらふらしたわけですが、

次に向かいましたのも実はまだ大阪城公園の中…なのでしょうなあ。

もはや森ノ宮駅に近い、はずれの方にあたりはしますけれど。

たどり着いたのはこちら、ピースおおさか 大阪国際平和センターでありました。


ピースおおさか 大阪国際平和センター

これがなかなかに斬新な建物でしたけれど、それはともかくも、

「大阪における平和の情報発信基地」として、常設展的には

第二次大戦下の大阪大空襲を語り継ぐことを中心にしているとのこと。


さりながら、ここを訪ねたのは特別展に興味を抱いてのことであったながら、

ついでといっては何ですが、常設展の方を見て回れば「そうであったか…」との思いが。

確かに大阪大空襲もまた、大阪の歴史の一部であることは間違いないところなわけで。



東京大空襲から遅れること数日、1945年3月13~14日を皮切りに

大阪の町は都合8度にわたって米軍機の空襲を受け、焼け野原とされてしまいました。

使用されたのは焼夷弾ですけれど、その破壊力のほどを展示解説から引用してみましょう。

焼夷弾は、発火性のある薬剤を詰め込んだ爆弾で、落下直後に出火して攻撃対象を焼き払うものである。油脂を使ったM69焼夷弾(約2.7キログラム)は木造家屋が多い日本の攻撃のために開発された。焼夷弾は束ねられた状態で上空から次々と投下され、時限装置によりばらばらになるようになっていた。また、屋根などを突き抜けやすくするため、まっすぐに落ちるようリボンが付けられていた。大量にばらまくことで消火活動を無力化し都市を焼き尽くした。

東京でも大阪でも、また他の都市でも同様ですけれど、

一応爆撃の本来的な主眼は戦争遂行能力を砕くことなわけでして、

軍需施設などが狙われたものとは思います。

実際に大阪城の近辺だけでもこんなに軍事施設はあったわけですし。



ですが、先ほどの展示解説にもありましたように

焼夷弾は木造家屋の多い日本向けにわざわざ開発された兵器であって、

「木造家屋が多い」とは即ち民家のことでありますよね。

こうなりますと、端から無差別爆撃を念頭に置いていたということになりますなあ。


古来、戦争は兵士たちが戦場という特定のエリアで相対し、優劣を競う形で行われたですね。

ナポレオン戦争 のころまではそんな形が続いていたような。


それが、産業革命後の飛躍的な科学技術の進歩は戦争の形も変えてしまった。

大量殺戮が可能な兵器が生み出され、航空機の利用もまた被害の甚大化に拍車をかける。

そんな結果として、スペイン内戦に際してナチス・ドイツがゲルニカを空爆、

無差別に市民を巻き込んだ爆撃に、ピカソ は強い憤りを感じて「ゲルニカ」 を描くのですよね。


衝撃的と思われた1937年のゲルニカ爆撃も、ほんの数年で当たり前のことになってしまう。

もちろん戦時下においてではありますけれど、個々の空爆に憤っていては

いかに精力旺盛なピカソでも身が持たないほどの頻度で無差別爆撃が行われたわけです。

戦争なるものがヒトを麻痺させるといいますか、適切な言い方ではないにせよ

カタルシスに陥らせるところがあるのかもしれませんですね。



と、こうしたことはともすると、

被害に遭ったという点ばかりを強調してしまいそうになるわけですけれど、

展示全体を見回したところでは、変に被害者意識を募らせるばかりでない、

それこそ平和の希求に繋げる配慮が感じられたりしたものです。


その点、先の戦争の記憶を失ってはならない的な展示内容の施設は東京にもあるものの、

どうも視点に普遍性が欠けているように思えてならなかったところが、

ここでは展示の組み立て方に芯の通ったものがあるように思えたりしたのでありました。


という具合に、大阪大空襲からも歴史の一面に思いを馳せたりした後は、

大阪の歴史そのものからはまたちと離れますけれど、

ピースおおさかでの特別展の話に移ることにいたします。