先日訪ねた「三鷹市吉村昭書斎」では、展示の年表から吉村が学生時代に重篤な肺病によって肋骨5本を切除するような大手術を受けた…てなことを知るところとなりましたですが、作品の中に医師を取り上げたものがいくつかあるのは、そうした経緯があってのことであるのかなとも。先に映画で見た『雪の花』の主人公も種痘の普及に邁進する蘭方医・笠原良策でしたし。

 

でなことで、書斎を訪ねて以来、吉村昭作品の何かしらを久しぶりに読んでいるかいねと思っていたときに、「こんなんもあったか」と手に取ったのが『夜明けの雷鳴』でありましたよ。

 

 

主人公はやはり幕末の医師・高松凌雲でして、函館にある五稜郭タワーの展示にその名を見出して記憶に残っていたのが、今回本作をチョイスする決め手となったという。全体的には高松の生涯をたどっていますけれど、若き日に一橋家お抱えとなって慶喜に仕え、弟の昭武がパリ万博に派遣されることになると随行することになるあたりは、いささか凌雲そっちのけでパリ万博のお話になったりも。

 

よく知られるように、幕府が日本を代表して数々の品を出展する一方、薩摩藩の展示がかなり目立つ存在として独立性を諸外国に知らしめるようなことにもなっていたあたり、結構細かく叙述されていたりして。慶喜が将軍になるなったのち、幕府がパリ万博へ出展わけでして。

 

パリ滞在中に日本では戊辰戦争が起こってしまい、日本に帰国するも、もともと慶喜に仕えていた凌雲は函館を目指す榎本艦隊と行動を共にすることになりますが、このあたりまたしても凌雲そっちのけで箱館戦争の話となってもいたような。

 

ですが、洋式の備えで行われた箱館戦争は数多くの負傷者が出て、これを凌雲たちが治療に努める中、敵味方を区別せずに負傷者は負傷者としたり、箱館の町が戦火に曝される中にあって負傷者には矛を向けないことを西洋の良いしきたりと解して敢然、新政府軍の乱暴狼藉を許さないあたり、のちに同愛社という民間組織の救護団体を組織して「日本における赤十字運動の先駆者とされる」(Wikipedia)ことにつながっていくのですなあ。

 

さりながら、あくまで「日本における赤十字運動の先駆者」であって、日本赤十字社との関わりは無いのであると。かなり前になりますが、熊本に赴いてジェーンズ邸という洋館(お隣に夏目漱石が熊本で3番目に住まった家があるものですから)を訪ねた際、その洋館こそ「日本赤十字発祥の地」と紹介されていたのでありますよ。

 

館内展示によりますれば、戦火による負傷者を敵味方なく救護するため、佐賀出身の元老院議員・佐野常民が「博愛社」の設立を有栖川宮に願い出、その許可を得たのがこの洋館の2階のひと間であったとか。そして、この時に設立された「博愛社」は明治20年(1887年)に国際赤十字社に加盟、名称を「日本赤十字社」と改めることになるという経緯から、日本赤十字はここから始まるのであると。

 

ただ、佐野常民は凌雲にも博愛社に加わるよう求めたものの、凌雲がこれを固辞したことが本書にも書かれてありましたなあ。発端が西南戦争であったせいか、陸海軍主導で官がらみの組織であることが凌雲には得心しかねるところだったようでありますね。

 

後々、国がらみとなると補助金を盾にしてやたら活動に口出しするといった、今やさまざまな団体にうかがえるようなありようを、凌雲は見抜いてもいたのかもしれませんですね。

 

ただ、同愛社の活動は民間運営で行うには膨大な資金を必要としたでしょうから、パリ万博随行で知り合った渋沢栄一や箱館戦争を共にした榎本武揚などが凌雲に惜しまぬ支援をしているうちはよかったのでしょうけれど。これまたよしあしは別として、ああ、幕末明治の人脈の姿だなあとも思ったものなのでありました。