ということで、クアラルンプール到着翌日はとりあえず、ゆったりとKLCC近辺の散策のみを敢行したわけですが、それでも1万2~3千歩くらいにはなりましたかね。どうやらそんなことも災いのたねになったようで。

 

それと言いますのも実は、出発前から腰の具合に「おや?」と思っていたという。それがいつしか、「いたた…」と口について出るようになってきていたのですが、散策くらいと出かけていったのはやはり芳しからざることであったか。翌朝までには「いたた…」であったものが(腰を起こそうとするたびに)「いってぇ!」となっていたわけです。

 

ことここに至っては療養するにしくはなし。アパートの本来の主が例によって仕事に出かけていった一方で、終日アパートに籠り、多少室内をうろうろするほかはもっぱらベッドに横たわっておることに。これを三日も続けたのですから、タイトルどおりにクアラルンプール停滞という次第でありますよ。

 

幸いにも旅のお供として持参していったのが結構読みでのある本でしたので、これをひたすらに読んで過ごしたという。出かけるときには「向うで読み終えることはあるまいなあ」と思っていたのが、すっかり読み切ってしまった…。ともあれ、マレーシアの旅に相応しく?『マラッカ物語』という一冊です。

 

 

古来、マラッカ海峡が船舶交通の要衝として知られるわけで、西洋の大航海時代に至る以前、海峡を押さえてマラッカ王国なる国が繁栄した…てなことが、かつての教科書的知識となりましょうか。ただ、学校の授業で東南アジア史の扱いはなかなかに微妙なところですので、どうも思い込みを刷り込んだまま、ずっと来てしまっていたようでありますよ。

 

確かにマラッカはマレー半島の沿岸に位置する都市として今もあるわけでして、それが故にマラッカ王国とはマレー半島に一定領域を抱えていたものとばかり受け止めていたのですが、実際には海峡を挟んで対岸にあるスマトラ島とマレー半島側と両方に跨る版図を有していたようですなあ。現在では半島側がマレーシア、スマトラ島はインドネシアと国が異なっていることも思い込みに繋がったのでありましょう。

 

マレーシアの言葉とインドネシアの言葉が極めて近しいものとはよく知られたところですけれど、そもそもは海峡を挟んで同じ国だった当時、地域では海峡マレー語なる言葉が使われてもいたそうな。それが、枝分かれしたのでしょうなあ。

 

結果として国が違うことになったのは、やはり西洋の植民地支配の関係なのでしょう。独立直前まで半島側は英国支配、スマトラ島ほかはオランダ支配だったわけでして、後にインドネシアになる島嶼部側が先に独立の機運を高める中ではマラッカなどの半島部も「独立するなら一緒に」という心づもりが双方にあったそうなのですね。

 

ですが、運動を指揮したスカルノらはオランダから独立するにも大騒ぎであるのに、半島側も同時にとなると英国までも敵に回さねばならないことで断念したのであるとか。世が世なら、海峡をまたぐ国が出来上がっていたのかもとは、思いもよらずでありました。

 

ここで独立の機運はのちのインドネシア側からと申しましたですが、そもそも沿岸部はマングローブに覆われて、その後背部は高い山となるマレー半島側は漁業も農業も細々と行われ、必ずしもたくさんの人が住んでいたわけでもなさそうでして、スマトラ島の方が豊かな土地だったとはいえましょうか。

 

インドネシア側でオランダが展開したのは、以前『マックス・ハーフェラールもしくはオランダ商事会社のコーヒー競売』で読んだとおり、コーヒーのプランテーションだったりする一方、半島側で英国が手掛けたのは錫の採掘、後にはジャングルに持ち込んだゴムの木の栽培だったりするわけで。

 

マラッカ王国の首都たる都市マラッカが半島側にあったのは船舶交通に利便性があったことによるのかもですが、都市としては自給性は全くなかったようで交易に頼るばかりだったといいます。ひたすらに貿易立国だったと。自給性を欠いた国が亡国の憂き目を見ていたのであるとは知っておいてよいことのような…。

 

そんなこんな、クアラに停滞して束の間、読書に勤しんだ三日間を経、アパートの主も休みを取ったというところで、見切り発車ながらマラッカへと一泊旅行に出かけることに。次からはしばし、マラッカの見聞を振り返ってまいりたいと考えておりますよ。