いわゆる谷根千(谷中根津千駄木)地域、取り分け谷中銀座とか夕焼けだんだんとかは昭和の日本を感じさせるからであるのか、外国人観光客にも人気があるようで。先に訪ねた知り合いの古書店はエリア内とはいえ至って静かな落ち着きを残しているも、それでもちらりとインバウンドの影が見られたのですな。
個人的には喧騒を避ける傾向が強いものですから、帰りがけに山手線の駅まで歩く道筋は谷中の墓地を抜けていくルートを採って鶯谷へ下ることに。以前、墓まいらーらしき探訪をしていたことがありまして、谷中霊園では徳川慶喜やら渋沢栄一やら横山大観などなどの墓所を巡ったりもしたですが、考えてみれば畏敬の念なりなんなりの思いも無くして、墓地を巡るのに遅まきながら「?」を感じてからは遠ざかっておりましたよ。有名人の墓所には亡くなってからも有名税は付きまといましょうけれど、周囲にあるごくごく普通の方々に不遜かなと思えてきてしまい…。
と、墓まいらーの思い出はともかくとして、谷中霊園を突っ切って鶯谷駅に出ることにした(日暮里や西日暮里に出ることも可)のは経路上にひとつ、立ち寄りポイントがあったのでして、台東区立書道博物館という施設。会期終了間際ながら『漢字のはじまり』という企画展をやっていたものですから(会期は12/15まで)。
墓地からは山手線ほかJRの幾本もの線路を越える跨線橋を渡りますと、ごちゃごちゃとした建物が並ぶ細い路地の町になりますが、その片隅に書道博物館はありました。
中村不折記念館と併記されておりますように、この場所には画家であり書家でもある中村不折の旧宅があったということで。そも書道博物館の創設者が中村不折だということなのですなあ。明治期にフランスへ留学し、ラファエル・コランやローランスから学んだ、いわばこてこての洋画家…であるはずの不折ですが、「明治28年正岡子規とともに日清戦争従軍記者として中国へ赴いた」ときに「漢字成立の解明に寄与しうる考古資料を目にし、それらを日本へ持ち帰ることを得た」ところから不折の漢字研究が始まったと、同館HPには紹介されておりましたよ。てなことで、開催されるべくして開催された展覧会と言えましょうね。
館内は写真撮影不可でしたが、常設展(といっても、企画展の内容と大きく関わる展示)の方でごく一部、「写真撮影はこの枠内で行って下さい」という場所が二カ所ありましたので、「それではお言葉に甘えて」と。
ところでこの注意書きの文字ですが、こんな文字遣いが館の内外、至るところで見られるのですなあ。例えば、こんな駐輪場所を示す案内にも。
最初は、正直なところ「なんだかへたくそで読みにくい…」と思ってしまったものの、こうしたあちこちの表示に使われている文字は、中国で漢字が作られ、現在に至る長い歴史の中でときどきに考案されていった書体を利用しているのであろうことに、はたと気付かされたのでありますよ。そう考えれば、これもまたいかにも書道博物館らしいところではありませんか。
ともあれ、「ここからなら撮影して構わんよ」となっていた場所から撮った常設展展示室はこのような。建物自体は、不折が書道専門博物館として昭和11年(1936年)開設したままであるようです(同じ敷地の不折の居宅は空襲で焼失…)。
展示ケースに並ぶのは古美術品か考古学史料かとも見えるところながら、全て古い古い漢字の文字が刻み込まれたものばかり。「中国と日本の書道史研究上重要なコレクション」なのだそうでありますよ。かような収蔵品に文字の年代や特徴を紹介する解説を付して、より詳しくしてあるのが企画展ということでありました。ということで、企画展「漢字のはじまり」を振り返っておこう…というところながら、思いがけずも前段で長くなってしまいましたので、恐縮ながらよもやの次回送りにいたしたく。