ちょいと前に歌川広重の「名所江戸百景」を集めた展覧会をたましん美術館@東京・立川市で見ましたですが、お隣の国立駅近くにも姉妹館(といっても、国立駅前の方が歴史は長いのですが)であるたましん歴史・美術館がありますので、このほどはそちらの方へ。なにせ、たましん美術館の入場券を提示すれば無料入場ができますのでね(もっとも、元よりこちらの入館料は100円ですけれど)。開催中であったのは「コレクションでめぐる 季節のかたみ展」でありましたよ。

 

 

タイトルにある「季節のかたみ」という表現は聞き慣れないと思うところですが、フライヤーによりますれば、由縁のほどはかようなことで。

随筆家の幸田文は、過ぎ行く季節の残り香を「かたみ」という美しい言葉で喩えました。美術作品も、季節をテーマに描く作品のほか、モチーフがひっそりと季節感を醸し出すもの、それ遺体が季節に寄り添う工芸作品など、様々な季節の気配を「かたみ」のように潜ませて時を経ています。

どうも「かたみ(形見)」と聞けばお葬式ばかりな気がしてしまいますけれど、亡くなった方ばかりでなしに「過去を思い出させるもの」(コトバンク)全般にも使うのでしたか。とはいえ、日本には当然にあると思ってきた「四季折々の季節感」さえもが、昨今の乱調な気候・天候を前にしては、もはや過去のものとして懐かしむようなものになってきてしまってもいようか…と思ったり。やはりフライヤーに書かれた「四季、二十四節季、七十二候と、日本人は古来、季節の移ろいを敏感にとらえ、様々に表現してきました」というあたりも、一年のうちに暑いか寒いかしか無いような状況ばかりが続きますと、感覚は鈍ってしまいましょうねえ…。

私たちは、四季折々にある草花や生き物の姿だけでなく、空の色、影の強さ、色彩といった様々な要素から、描かれた時期を想像することができます。

展示解説にはこのようにも記されておりまして、確かに描かれたものばかりでなく、描かれたものを取り巻く空気感と言いますか、そうしたものも、絵を眺めることで呼び覚まされるところではありますね。例えば五十嵐祥晃という作家による「がくあじさい」という小品(画像が無いのは残念ですが)は、画面に見えるのは正しくがくあじさいばかりなのですけれど、それが梅雨の時季であってしとしと雨が降っているであろう情景とか、傍らの葉っぱの上にはもしかしてカタツムリがいるかもとか、付帯情報がたくさん浮かんできたりしたものなのですね。

 

ですが、今年(2024年)のあじさいの実際は、かんかん照りの中で花を咲かせ、そぼ降るどころか時折のゲリラ豪雨に降りこめられたりしながら、ぴーかん天気の中で時季を終えて行ったのですから、思い描いた季節感はすでにして過去のものとも。本展主催者にその意図はないにせよ、なるほど季節の「かたみ」になってしまってもおるなあと思ったものでありますよ。

 

また、木村圭吾描くところの「三春の滝桜」を目の前にしたときには、当然にして静止画である画面に桜の花びらがはらはらと舞い散る姿が浮かんできたのですな。これは全くもってたまたまですけれど、この美術館へ来る直前に立ち寄った建物に誰でも弾ける街角ピアノが置いてあり、ユーミンの「春よ、来い」を弾いている人がいたのですなあ。ここで聴いたメロディーが耳に残りつつ「三春の滝桜」を目の前にしたとき、ふわっと春風に煽られるような感覚になった。おまけに絵の中では花びらが舞い散る姿を見た…ような気になったという次第。

 

そんなこんなのことからも、季節感というのものがすでに思い出の中だけのも、絵画にせよ音楽にせよ、そうした媒体を通じて呼び覚まされる(呼び覚ましてもらわねばならない?)ものになってしまいつつあるのかもしれんなあと、しみじみしたものでありますよ。辛うじて、過去にそれなりの季節感を体感したことのある者はそれを振り返ることができますけれど、暑いか寒いかという気候の中で育ってきた子供たちには思い出にさえないことになりましょう。

 

時代が移り行くことによって失われるものを懐かしむのはただただ懐古趣味のように言われたりもすることがありますですが、やっぱり何か変だよなあと思ったりすることになる展覧会なのでありました。