…てなことで、最上川三難所舟下りに乗れず仕舞いとなりましたが、山形県村山市では是非とも訪ねておきたい場所が他にもあるところでして。前日の雨降りから一転、空は晴れ上がってぐんぐんと気温が上昇する中をてくてく歩いて15分ほど、たどりついたのはこちら、最上徳内記念館でございます。
「最上徳内(1755-1836)は、江戸時代後期に活躍した村山市楯岡出身の北方探検家です」と同館HPに紹介される郷土の歴史的人物として記念館が設けられているという。ただし、村山地方の有名人というだけではなしに、山形県立博物館でもかようにちゃあんと紹介されている人物なのですなあ。
個人的には『北冥の白虹 小説最上徳内』やら『六つの村を越えて髭をなびかせる者』やらを読むほどに、至って関心大であるわけですが、おそらくは歴史の教科書にも載っておりましょうものの、全国区的な知名度とまではいかないのが実際ではありましょう…。あいにくと、その事績を紹介する館内展示は撮影不可ですので、県立博物館と同館HPの紹介を織り交ぜて、人物を振り返っておくとしましょうかね。
(最上徳内は)27才で江戸にのぼり、著名な学者、本多利明に、天文・測量・航海を学び高弟となりました。やがて、幕府の巡検使の一員として蝦夷地に赴いたことをきっかけに、その後天明5年(1785)から文化5年(1808)まで8回に渡り、蝦夷地(北海道)・千島・樺太に渡り、各地を調査しました。その範囲は、エトロフ島などの北方諸島やカラフトなど広範囲に及び、また、「蝦夷草紙(蝦夷国風俗人情之沙汰」などをあらわして、北方探検の先駆者といわれています。
そんな徳内の業績を紹介する記念館には、「徳内が使用した測量器や描いた北方の地図、エトロフ島に建立した標柱(複製)などの資料を展示」しているわけですが、ここでは主に屋外展示の方を見ておくことに。半地下のようになった展示スペースから通路を裏手に抜けていくと庭園が広がっておりますよ。
生れは農家という徳内だけに、市内から移築した古民家で昔の生活を想像してくださいということかもですが、思うにこんなに立派な住まいで育ったのではないような気がしますですね。で、この庭園で目に止まるのは古民家の縁側から望める池の方ではなかろうかと。
収まりが悪いのでイメージしにくいかとは思いますけれど、池の中の陸地は北海道の形をしているのでありますよ。手前側のとんがりが襟裳岬で、奥の方には宗谷岬とその先に樺太の南部が表されているという。で、古民家の傍ら、かつて地元の小学校に立てられていたという顕彰碑の奥には「茅葺きのアイヌの住居(チセ)を模した建物」を展示施設として復元し、アイヌの生活を垣間見ることができるようになっておりましたよ。
松前藩がアイヌを見下してあからさまに差別していた当時、北方の探査はもとより蝦夷地を開拓するにも維持するにもアイヌの人々の共生(むしろ教えを受けること)は欠かせないと考えた徳内ですので、こうした展示も当然ではありましょうね。
ちなみにアイヌの言葉で、家を「チセ」というようですが、これが3軒集まると「コタン」(村・集落)と呼ぶとは、結構小規模グループでも活動するのがアイヌの人たちだったのですかね…。
と、チセ内部の展示のようすはこちらです。アイヌらしい意匠の衣類が壁面に掛けられていて、囲炉裏のところには貴重な食料である鮭が燻された感じで吊り下がっておりますよ。その囲炉裏に関わる説明には、こういうのがありました。
アイヌはいたる所に神(カムイ)の存在を信じ、大切にしてきた。最も身近な神は「火の神」で、家の中にはいろりを置き、何事もその周りで行った。次に大切なのは「水の神」で、流れる川に汚水を捨てることは絶対にしない。
ヒトの原初的な信仰として、万物に神(精霊)が宿るという考え方があろうかと思いますけれど、時に自然は全くヒトには歯が立たないような力で迫ってくることがありますから、畏敬の念を込めてそのように考えても不思議ではありませんですよね。
それを今でも言葉どおりに受け止めることは適当ではないにせよ、自然への畏敬と感謝といいますか、そのあたりのことを全く忘れてしまうとすればそれは傲慢なことなのかもしれません。アイヌの人たちの生活ぶりもかつてとは異なるものになってきているとは思うも、根本精神とでもいいますか、今風の理解でもって受け継がれているのではと思ったりするところでなのでありました。また、ともすると異なる習俗というか、文化というか、そうしたことを受け入れて共生する徳内的発想の方も忘れてはいけんなと改めて…。