大阪・桜宮橋のたもとにある造幣博物館にたどり着いておきながら、ちと平山郁夫の絵の話へと逸れたりしましたですが、改めて博物館の展示を振り返ろうと言う次第でありますよ。

 

 

博物館の建物はこんな感じですが、左上の円形オブジェは造幣局だけにコインのイメージでしょうなあ。予約は不要、入場無料の敷居の低さはふらりと立ち寄ることができますですね。取り敢えず中へ。

 

 

主たる展示スペースは2階と3階。まずは2階に上がってみます。まずは造幣局の成り立ちを見ておくといたしましょうか。

 

明治新政府は、徳川幕府時代の金座・銀座・銅座・銭座を廃止すると同時に、混乱した幣制を立て直し、近代国家としての貨幣制度の確立を焦眉の急として、様式設備による造幣工場を建設することを決定し、1869(明治2)2月、政府機関のひとつとして造幣局が設けられました。

とまあ、成り立ちのそもそもがこのように説明されておりますが、その創業に功あったという人物たちのレリーフが並んでいるあたり、なんだか長年議員を務めた人たちの肖像が会議場の廊下に飾られているような感じがしてしまいましたなあ…。

 

 

顔ぶれをみれば、由利公正井上馨、T.J.ウォートルス、大隈重信五代友厚、トーマス・グラバー、伊藤博文と、明治の近代化を語る上では必ず名前の挙がる人たちだとは思いますけれど、ここまでするかな…と(は個人の感想です)。

 

ともあれ、そんな人たちの尽力あって造幣局が設けられることになったわけですが、建設地は旧幕府御破損奉行役所の材木置き場跡一帯(そのまま現在地のようです)が選ばれることに。御破損奉行役所というのは「大坂城内外の建築物の造営、維持管理」を行っていたそうですけれど、ひとえに5万7千坪という広大な土地が必要だったが故なのでしょう。1871年(明治4年)に造幣寮として創業(6年後に造幣局と改称)した当時のようすは、1階エントランスに模型が置いてありましたですよ。

 

 

 

ちなみにこちらは創業式当日の写真(部分)だそうですが、仰々しい和装礼服がいたり洋装がいたり、なるほど明治初年のできごとなのですなあ。同じ頃、遣欧使節に出かけていく岩倉具視がまげを残し、和装で旅立ったことが思い出されたりするところかと。

 

まだまだそんなご時世だったものの、近代化の先駆けを担う造幣局としては明治維新以前のあれこれにこだわってもいられなかったようですな。

…(当時の造幣局で)近代的な技術などが取り入れられたのは、工業技術だけではありません。文化の先駆者として、洋式帳簿や電信、洋服着用・断髪などをいち早く導入しました。また、お雇い外国人の意向を理解し、新しい作業の方法を体得するため、英語や工学の基礎知識を身に付けなければならないことから、自力的経営による「日進学社」と称する学校も構内にありました。

そも創業の功労者にウォートルスが挙がっているのは造幣局建設の設計監督にあたったからですけれど、先にも触れたように機械を香港(つまり英国)から輸入し、実際に工場を稼働させるにも、お雇い外国人頼みになるののですよね。むしろ功労者はこちらの方かもしれません。

 

 

こうした人たちの助けを借り、かくて大阪造幣局は日本の貨幣を造り始めたのでありました…と、展示室のほんの入り口部分でひっかかってしまいましたので、造幣博物館の振り返りは今少し続くものと思われますです、はい。