「京阪淀川紀行」が大阪の造幣博物館のお話にたどり着いたところで、ちと横道に入りまして。未だ館内展示に触れるところまで行っておりませんので、部分的に少々先走ることにはなりますけれど、さまざまな記念硬貨が並ぶコーナーでこのようなものを見かけたのでありますよ。
昭和61年(1986年)、当時の昭和天皇在位60年を記念して発行された金貨のデザイン原画でして、右隅を見てみれば「郁夫」とサインがしてある…ということは、日本画家の平山郁夫ですなあ。こんな仕事もしていたのであるか…と、久しぶりに平山画伯の絵が見たくなってきたという次第。で、夏の間にちょいと足を延ばして、平山郁夫シルクロード美術館へと出かけたという。開館20周年展「平山郁夫-仏教伝来と旅の軌跡」が開催中でありましたよ。これを遅まきながら(というのも会期は9/9までで…)振り返っておこうかと思っておりまして。
平山郁夫は1930年に広島の瀬戸内海の島(現在の尾道市瀬戸田町)で生まれ、熱心な仏教徒の家庭で育ちました。中学生時代には広島市内で被爆し、九死に一生を得た経験もあり、生涯を通じて、仏の道と平和への祈りをテーマにした作品を数多く制作しました。(館内展示解説より)
美術館の名称にもありますとおり、平山郁夫といえばシルクロードとの結び付きが強く思い出されるところですし、晩年には日本画界の重鎮になっていたことも。さりながら、展示作品でもあって改めて画業をたどってみれば、平山郁夫も一日にしてならずであったことがよおく分かるのですな。
世に出るきっかけとなり、本展フライヤーに使われている「仏教伝来」(1959年)以前、デッサンなどで残されているところを見れば、ごくごく普通に人物画であったり、花鳥画であったり、自らが描くべきものを暗中模索していたことが窺い知ることができるような。自伝的画文シリーズには、「鳴かず飛ばず」時代の悶々がありありと出ておりましたよ。
そんな中、29歳となった平山に原爆症の症状が忍び寄る。被爆後、十数年経って現前する後遺症で暗澹とした頃に「仏教伝来」が立ち現れるのですな。これで一躍画壇で知られる存在となるものの、「仏教伝来」による院展入選もう一度とばかり翌年に銅傾向の作品「天山南路(夜)」を出品したとなりますと、やはり若さの故だったのかも。
玄奘三蔵を題材に「仏教伝来」は旅する姿を描き、次作は夜の旅寝を描いているわけですが、後年になって平山自身「(前作の)継承で、新しさがなかったと述懐している」そうでありますよ。一度の成功の後には、見る側もおそらくは新進画家に対して、新進らしい新しさを期待し、それが裏切られたということなのかもしれませんが、今になってみれば、これはこれで玄奘三蔵シリーズとして「あり」の絵だと思いますけどね。
ともあれ、その後には平山の代名詞とも言えるシルクロードに関わる作品、しかも大作群が生み出されていきますけれど、自身の画風といいますか、描く方向性がひとつ確固たるものになってくると、絵に迷いがなくなるのか、素人目線で単純に見ても「これ、いいね」的なものが描かれるようになってくる。そんな万人向けとして手掛けられたのが、かつて中央公論社から刊行されていた文芸誌『海』の表紙絵でもあろうかと。
印刷物になったものも(ちと偉そうながら)「それなりいい」ですが、原画で見るのは「なおのこといい」わけでして。
シルクロードを扱った大作などの方が、背景が砂漠だったり岩山だったりしますので、より分かりやすいのですが、岩絵具を幾重にも塗り重ねて生まれるざらっとした質感は平板な、絵らしい「絵」と見るのともまた異なる感興があろうというものでして。
こちらは、アトリエ再現コーナーの片隅に置かれたイーゼルでして、立てかけられた作品は「2010年の春の院展に向けて、入退院を繰り返す中制作を進めていた未完の作品(遺作)で」あると。病室の窓辺とそこから望める風景を描いているようですが、日常感が漂う景色だからこそなお、この空の向こうに、平山はシルクロードを見ていたのではなかろうかと思ったり。松尾芭蕉ではありませんが、「旅に病んで夢は枯野を駆け巡る」てな思いであったかもしれませんですね。