先日読んだ『モダニズム・ミステリの時代 探偵小説が新感覚だった頃』では、大正・昭和のモダニズム文学の書き手たちが当時どんどんと上書きされていった科学的知見、その最先端に興味津々であったことが触れてありましたですなあ。そこから、後の空想科学小説、要するにSF小説も誕生したのであると。

 

ミステリにしてもSFしても、今ではジャンルの区分けから純文学とは違うところに位置づけられているようでありますけれど、探偵小説の類いに潜む人間心理の描きようは犯罪に絡んだものであるからこその探偵小説に区分けされ、またSF小説にも宇宙の果てという科学の謎とともにそこには哲学的な要素が込められた利するのですよね。もちろん、いずれのジャンルにおいても冒険活劇的な部分が強調された娯楽的な小説もあるにしても。

 

とまれ、そんなふうに文学世界が混沌としてさまざまなありようが並立していた時代、先端科学の世界として着目されたのが人造人間やロボットというものでもあったようで…と、このあたりを読んでおりますときに「そういえば、また八王子でムットーニの展覧会をやっていたっけ」と思い出すことに。ご存知のようにムットーニはオートマタ作家でありまして、大きいもの小さいもの、いろいろあるもコンパクトなボックスに収まって劇場型式のようで、その中でオートマタが展開する世界は実に実にレトロな印象なのですな。その大正・昭和的なるレトロ感にまた触れるべく、「ムットーニワールド からくりシアターⅤ」展@八王子市夢美術館に出かけてきたのでありますよ。

 

 

大正・昭和のモダニズム作家たちが思い描いた未来予想図の時代はすでに時を経て到来していたりする部分もあるかもしれませんですが、こと人造人間やらロボットやらという分野では、その未来予想図に合致しているかどうかは別にしてかなり進んできているのでしょう。例えば人体の機能の一部が失われたときにそれを機械によって補完するようなことも進んでおりましょうし(これを即座にかつて考えらえた人造人間に擬えるのは適切でないかもですが)、またロボットでいえば犬型ロボットは飼い主との感情面での交流さえできるところまで来ているとなれば、それが人型に反映されるようにもなっていくのでしょう(果たしてネコ型は?というと話は違うものになりそうな…)。

 

そうした時代だからこそムットーニのオートマタは、こう言ってはなんですが、いかにも機械仕掛けであることは自明であって、そのあたりもレトロ感を抱く理由なのかもしれませんですね。ただ、これを古い時代の懐かしさというだけで片付けてはいけんな…と思いましたのは、『鉄腕アトム』と『鉄人28号』の違いに関わるとも言えましょうか。前者の初出は1951年で、後者の初出は1956年ですので、昭和の漫画としていずれ変わらぬ懐かしさといったものはあるのかもしれませんが、方や自律的に動く人型ロボット、方や人間がリモコンで操らないと何もできない機械(形こそ巨大な人型ですが)という違いは大きいわけですね。つまり、アトムの方はAI搭載の、今現在でも時代の先を行く存在であることがレトロ、懐かしさとは違う感覚を抱かせるのでもあろうかと(ただし、アトムを扱ったアニメがその時代なりのコマ送り的であって、それはそれでレトロですけれど)。

 

ともあれ、ムットーニのオートマタもまた、その完全に人間を再現しているわけではないところにレトロ感、懐かしさがあること意識してなのかどうか、オートマタを使ってムットーニが描き出す世界そのものがレトロ的、懐古的なのですなあ。その懐古的感情を湧き起こす、それこそがムットーニ劇場(美術館で展覧会として開催されているわけですが、劇場公演を見にいくような感覚ですしね)が観客を集める要素でもあろうかと。館内の照明を落としてそれぞれの作品がそれぞれに放つ灯りに視線が誘われるという形もまた、少々の妖しさを醸して雰囲気を作り上げる一助にもなっておりましょう。昔々の遊園地などの片隅に、双眼鏡を覗くような形の機械でもって、コインを入れると中で幻燈が展開するといったものに近い印象でありますね。

 

こうした今は昔の娯楽は、モダニズム文学を担った人たちが大いに関心を示した浅草を思い出させるものでもあろうかと。今とは異なってというか、今よりもずっとというか、浅草は大衆娯楽の牙城であり、その延長として享楽の園、ともすれば怪しげな人たちが潜む魔窟であったのでして、そこには「人間」のさまざまな側面(邪悪な、淫靡なところも含めて)があったとなれば、人間心理を掘り下げようとする作家たちにとって、浅草は格好の材料を提供してくれる場でもあったでしょうし。

 

まあ、ムットーニの作品世界がそこまで邪悪で淫靡なわけではありませんですが、時代感覚の再現という点では相当に近しいところがあるように思ったものでありますよ。ですので、鑑賞者は入口で配付されるタイムテーブルに従って、時間をずらして次々に動き出す作品を渡り歩く形になり、ともすると次の作品、次の作品と人だかりともに移動することにもなったりも。されど、ひっそりとこっそりと楽しみたい。そんなふうに無いものねだり感を抱かせるのがムットーニの作品でもありましょう。触発されて思い描いた懐かしさには、もしかすると人には言えないような思い出の封印と解くことになったりもしましょうね。