てっきりミステリー小説の評論というか、歴史の一端をたどるというか、その類の本と思って手に取ったのですけれど、どうやら思惑違いであったようで。ですが、それはそれとして大層興味深く読んだ『モダニズム・ミステリの時代 探偵小説が新感覚だった頃』なのでありました。

 

 

時代としては、もっぱら大正から昭和初期ということになりましょうか。いわゆる「モダニズム」が日本(の知識人?)を席巻した時代に、探偵小説(今ならば推理小説、ミステリーと言うところでしょうけれど)は「新感覚」だったと、当初はそんなふうにタイトルを読んだわけでして。日本に探偵小説を根付かせた立役者に江戸川乱歩がいますけれど、乱歩が雑誌『新青年』に『二銭銅貨』を発表して鮮烈デビューを飾ったのが大正12年(1923年)だったのですものね。日本に本格推理小説(謎解きメイン)が登場したことで新感覚、即ちフレッシュな感覚がもたらされた時代、そんなふうに。

 

さりながら「新感覚」という言葉は、これと同じ頃である大正13年に創刊された『文藝時代』に集った川端康成や横光利一らの作家たちが「新感覚派」と呼ばれたこととも関わるのですな。今ではかなりはっきりと、江戸川乱歩は探偵小説作家、川端らは純文学作家と区分けて受け止められているものと思いますけれど、明治以降、欧米思潮の流入にともなって模索された日本の近代小説が、試行錯誤を繰り返す中で「モダニズム」の影響かにあった一時期があり、その中では探偵小説もまた心理的な側面や技巧的な側面、さらに当時の科学的知見を組み入れ、またそれを拡大して空想するところまでをも含めて、さまざまな実験小説(とでも言える作品)が創出されていたのですな。

 

その点では探偵小説も、そして先読みするならば後に空想科学小説、SF小説といわれるものもまた近代文学の一部であって、実際に川端らもその手の短編をいろいろと手掛けていたという。そういう位置づけに気付かされてようやっと、川端が『片腕』といった短編を手がけたり、はたまた『狂った一頁』なる映画脚本に携わったりしたことが得心されるように思えたものです。これまでは、いかに纏綿たる日本情緒を描く文豪といったふうにだけ見ていたか…ですなあ。考えてみれば『片腕』などは1963年の作で、あの『古都』(1961年)よりも後の作品なのですから、上っ面の理解でしかなかったわけで。

 

こうしたあたりを本書の一文で見てみると、こんなふうになります。

大正・昭和初期は戦前で最も一般文壇と探偵文壇が接近した時代だった。この時期、探偵作家では小酒井不木・江戸川乱歩・森下雨村・甲賀三郎・夢野久作らが登場。同時期に文壇では横光利一、川端康成、龍膽寺雄、そして堀辰雄らがモダニズム文学を模索し、新感覚派・新興芸術派と呼ばれた。新感覚派が探偵雑誌「新青年」に執筆し、探偵小説が新感覚派の雑誌「文藝時代」や新興芸術派の「文學時代」で特集されるなど、両者の関心は重なっており、各作家たちもそれを自覚していた。

これを見て、『風立ちぬ』の堀辰雄も…と思ったりするのも木を見て森を見ない思い込みであったと思うわけですが、それにしてもモダニズムのインパクトたるや大、何らか影響されない書き手はいなかったのではと思えるところです。で、その「モダニズム」ですけれど、このことについても、理解の助けとしてちと本書から引いておこうかと。

モダニズム(近代主義)の語は、一九世紀にも伝統主義に対抗する思想を指す語として使用されていたが、狭義には第一次世界大戦から一九三〇年代に及ぶ戦間期にみられた多様な前衛芸術運動を指している。ダダイズム、シュルレアリスム、フォービズム、フォルマリズム、キュビスム、表現主義、新即物主義、……。未来派は一九〇九年にイタリアではじまったが、この運動もモダニズムに加えていいだろう。モダニズム様式の建築や、モダニズムの名の下に総括される様々な芸術運動が日本でも試行されるようになるのは大正期からであり、最盛期は昭和に入ってからだ。

てな一文をも含めて、本書を読み進む中でようやっと「だから表紙カバーが…」と遅まきながら思い至るわけですね。本書の表紙を飾っているのは、東京国立近代美術館のコレクションとして見慣れた古賀春江の『海』ですけれど、シュルレアリスムの画家として日本を代表する古賀の作品は時代の雰囲気を伝えるものでもあったわけですね。

 

先にもちと触れましたように、当時の思潮に大きく関わったこととして科学の発展や機械文明もいったものもあるわけですが、古賀の『海』に飛行船やら潜水艦やらが描かれていることには、やはり時代背景への理解があって「なるほどなあ」となるのでもあろうかと。上の引用に並んだ○○スム、○○主義といった言葉はもっぱら美術関連として受け止めてしまいがちながら、それだけではないということもまた、今さらながら。もちろん、美術、文学などには普遍性で語る部分もありましょうから、背景を知ることが反って視野を狭めることになるかもしれませんけれど、ま、何につけ、複眼的思考は必要ですものね。そうした点でも興味深く読んだ一冊でありましたよ。