東京・渋谷の國學院大學博物館に出向いたわけですが、その目と鼻の先に白根記念渋谷区郷土博物館・文学館という施設があるのですな。國學院の博物館には何度か出向いているものの、こちらにはかつて一度立ち寄っただけで14年も前のことになりますので、ちと覗いてみることに。

 

 

ちなみに「白根記念」というのは、渋谷区議であった故白根全忠という方から土地の寄贈を受けて開館した建物であるからということですが、都民とはいえ、渋谷区議会議員までは知らんですなあ(失礼)。ただ、もそっと来場者が見込めるような場所は渋谷区内にたくさんあろうものの、博物館がこの地にある謂われはかようなものだったのでありましたか。

 

奥渋と言うと山手線の外側方向になるようですけれど、博物館のあるあたりは渋谷の奥座敷的に至って静かな住宅地(それもかなり広い)だものですから、人通りは少ない。斜向かいには大層に警備された広い区画があるなと思えば、皇室所有の常盤松御用邸であると。ともあれ、そんな場所なのでして、長きにわたり相変わらず進められている渋谷駅前の喧騒とは全く異なる世界となっているのでありますよ。

 

で、単に渋谷と言えばその喧騒をこそ思い浮かべるところながら、ちょいと前に映画『五日市物語』を見た折、映画の中で「五日市は渋谷が村だったころから町だったのだ」てなことが言われておりましたので、そのあたりの歴史的経緯でもたどってみられようか…と思ったこともあって、博物館へと赴いた次第です。

 

最初に疑問部分にフォーカスすれば、五日市村が五日市町になったのは明治12年(1879年)であって、これに対して渋谷は?ということを展示に探ろうとしたところ、どうも判然としないのですなあ。ただ、はっきりと渋谷が町になったのかいうことではないのですけれど、博物館に併設された文学館の方の展示でみますと、与謝野鉄幹・晶子夫妻が居を構えた明治34年(1901年)頃の住居表示は「渋谷村」であったようで。これが、幼少の大岡昇平が移り住んだ明治45年頃には「渋谷町」となっていましたので、やはり渋谷よりも先に五日市が町になっていたというのは、確かなことのようですなあ。

 

やはり文学館の方の展示になりますが、「(明治)二十九年の秋の初めから春の初めまで、渋谷村の小さな茅屋に住んでいた」国木田独歩が近辺(といっても小金井あたりまで足を延ばしたようですけれど)を散策して『武蔵野』と書いたことは良く知られた話ですので、その田舎感が偲ばれようかと。確か(年明けに「総集編」で見た)『らんまん』で、夫の助けにと茶屋を開く物件を得た渋谷のようすに目を丸くしていた(つまりは、こんな寂れたところと)のもまた思い出されたり。

 

ともあれ、そんな渋谷のあたりは江戸時代を通じて江戸市中が広がりを見せるにつれ、多くの大名が下屋敷を並べるようになったようで。主に山手線の内側に広がる台地上で、現在の青山学院大学も国連大学も大名屋敷の跡地利用ということになるようです。が、その前に明治となった段階で、かつての大名屋敷の跡地では、(殖産興業を推進する)明治政府はお茶の栽培を奨励したことからお茶畑が広がることになったそうな。併せて、生活の洋風化につれて広く牛乳が飲まれるようになったことに応え、「都市近郊に位置し、大きな土地が空いていた渋谷には乳牛を飼う牧場がつくられてい」ったのでもあると。現今の渋谷の「所狭し」感とは全く異なる風景だったのでありましょう。

 

一方で、渋谷が(取り分け若者に対して)文化発信を担う礎となったのは代々木公園なのかもしれませんですね。明治42年(1909年)、軍用地としてあった青山練兵場(ここも大名屋敷の跡で、現在の神宮外苑あたり)が手狭になったことから、移転先になったのが代々木練兵場であったと。これが戦後、進駐軍に接収されてワシントンハイツと呼ばれる進駐軍軍人・家族の宿舎が建てられるわけです。つまりはそこにはアメリカがあったわけで。

 

(1964年の)東京オリンピック開催にあたり、返還された土地は競技場などを擁する代々木公園となって今に至るのですけれど、あたりはきっと福生や横須賀のような町でもあったのかもしれませんですね。てなことで、「ふ~ん」と思いながら、思いのほか新参者(?)であった渋谷の歴史を辿ってみたひとときとなったのでありました。