何かしら「地図」がらみの展示があると聞きますと、ついついぴくんとしてしまったり(笑)。なかなかに「地図」というものは想像を掻き立てるようなところがあるわけでして(大いに個人差はありましょうけれど)。

 

で、久しぶりに東京・渋谷にあります國學院大學博物館に出かけてきたのですな。「マラッカを越えて極東アジアへ-ポルトガル地図学の16世紀」という企画展が開催中だもので(会期は2024年2月12日まで)。

 

 

先に「地図には想像を掻き立てるようなところがある…」と申したですが、地図を作る側にしてみれば、その場その場を実見というか、実測してみないことには地図は作れないわけですな。自らの身の周りを越えて、その向こうには何があるのかを知るには調べさせる必要がある。調べさせるには当然にひと、もの、金がかかるわけでして、それ故でもありましょうか、地図作り、地理学と言っていいのかもしれませんけれど、昔々は「王侯の科学」とも呼ばれていたのであるそうな。

 

ヨーロッパ・ベースの話になりますので欧州大陸は地中海などの近隣地域を詳らかにしていく歴史の先に、さらに広がる大地の向こう、大海原の向こうには何があるのか、はたまた何もないのか…地図が想像を掻き立てる以上に掻き立てられた想像を地図に記していったようなこともあったようで。それこそ、訳の分からない土地には訳の分からない怪物やら魔物やらが住まってもいるといったような…。

 

少しずつ近辺を確たるものとして固めつつ、遠方は想像で補う。そんなふうにして中世ヨーロッパで作られたのが「Mappa mundi」(要するに世界地図の意ですな)であろうかと。さりながら、これに対して新たな知見?として影響したのがプトレマイオスの地図であったとか。中世ヨーロッパより遥か昔、2世紀頃に造られた地図ではあるものの、ルネサンスの中で古代ギリシア・ローマの見直しが進むと、この古い地図にも改めて光があたったようで。

 

円形という収まりのいい中に(当時知られた)全世界を配置した「マッパ・ムンディ」とは異なって緯度経度が記された「プトレマイオス図」は、古い古い時代のものとはいえ、実測値によることを想像させたか、その後の地図に取り入れられたりも。ですが、インドのベンガル湾あたりに大きな入り江が描かれてその先の陸地は、南に続いてあたかも今なら南極大陸のように南の底辺を覆い尽くし、果てははアフリカ大陸と混然一体となっている…とは、プトレマイオスの知り得る限界であったのでしょう。

 

 

そんな流れで来た中に登場するのが(本展の主人公たる)ポルトガルなのですな。スペインともどもいわゆる大航海時代の先駆けとして知られるわけでして、世界の海を渡り歩いた航海によって得た成果を地図作りに反映していき、より詳細なものが作られるようになっていくのでありますよ。プトレマイオス図とそれに影響を受けた当時の地図が東南アジア以東は皆目分からん状態にあったところを、インドのゴアに続いてマレー半島のマラッカを拠点したポルトガルはさらにその先へと航海を続けることで地図の空白を埋めていったのであると。

 

ポルトガルがマラッカを手に入れたのは1511年ですけれど、日本との関わりでいえば種子島への鉄砲伝来(1543年)も、フランシスコ・ザビエルによるキリスト教伝道(1549年)も、マラッカという足がかりがなければ起こっていたことなのかどうか。ともあれ、だんだんと東アジアのようすを把握していって、それを地図にも反映させていきますが、まだまだ日本の形がみょうちきりんなものであった頃(もっとも日本自体でも地図はぼんやりしていたものと思いますが)に東アジアでひと際目立つ存在であったのが「Lequios」であったようで。

 

レキオス、すなわち琉球王国はとかく明と日本の間でどっちつかずの外交政策をとっていた小さな国といったふうに(やまとんちゅ史観?)思われがちながら、16世紀当時は海をまたいだ周辺の諸都市と交易を行う勢威ある国であったのですな。しばらく前にそのあたりをテーマにした小説『エクアドール』で読んだことが思い出されます。

 

また、「イングランド女王メアリ―1世がスペインのフェリペ2世への贈り物として用意した地図帳」(1558年)のアジア沿岸を描いた一葉では、「東海上には「Mare Leucorum」(琉球海)、大陸には「Leucorum provintia」(琉球地方)と大きく書かれ、島の名称以外にも琉球の名が使用され」たりしているのであると。いかな勢威を誇ったにせよ、さすがに大陸に領土は持ってなかったのではと思えば、かの地図は誤りと言ってしまえるわけですが、海も大陸までもあたり一帯に対して琉球は影響力があったと西洋人に思わせるものがあったとも言えましょうね。

 

ただ、残念ながら琉球の交易はポルトガルが出張ってきたことで結果的に陰りを見せていくようになるとは、実に皮肉なものであるような…。もっとも、そのポルトガル自体、やがては日本に出入り禁止をくらい、世界の海でも英国やオランダにとって代わられていってしまうとは、盛者必衰の理でもありましょうか。

 

とはいえ、「ポルトガルが日本にもたらした当時のアジア図は、その後日本人によって模写され、ポルトガルが十分に描けなかった日本列島や朝鮮半島の図形などを修正した日本製のアジア航海図(御朱印船航海図)が生み出された」となりますと、鉄砲ばかりでなくその後の日本の歴史に影響のある代物をポルトガルは残していったとは言えましょう。その基礎の上に、伊能忠敬の精細な日本地図などもあるのでしょうし。