ちょいと前にトッパンホールでランチタイムコンサートを聴くついでに印刷博物館のP&Pギャラリーを覗いたお話をしましたですが、その際、印刷博物館そのものの展示も見ていたのでありますよ。「地図と印刷」という企画展だったのですけれど、すでに会期は終わって(12/11まで)またも遅まきながらのお話になりますが、まあ、取り敢えず。

 

 

そも日本における地図作りの始まりは、諸国に「風土記」を編纂させるにあたって、国郡図の作成と提出を求めたことにあるとか。元明天皇による「風土記」編纂の詔は和銅六年(713年)なわけですけれど、印刷物となりますと、それからずいぶんと時を経た古活字版『拾芥抄』所収の行基図ということになるようで。

 

古活字版『拾芥抄』は国立国会図書館デジタルコレクションで見られますが、この写本自体は慶長年間のものらしく、原典は鎌倉から室町の頃にできたようですな。そこに掲載されていたのが行基図なれば、地図はさらに時代を遡ったものでありますね。もっとも、本当に行基が地図を作ったのかは定かではありませんけれど。

 

ともあれ、地図は古いものとしても、こと印刷となると戦国期を待たねばならなかったということなのでしょう。ただ、印刷術としては(中国大陸由来であるとしても早い段階に伝わって)奈良時代には日本にもあったわけでして、「百万塔陀羅尼」が世界最古の印刷物とも腐れて、ドイツ・マインツのグーテンベルク博物館にも展示されているくらい。その気になれば、木版とはいえ(木版だからこそ?)地図を印刷物にすることもできたのではなかろうかと思うところですけれど、印刷本来の役割として知識の広い伝播が地図に及ぶのは印刷文化の花開いた江戸期を待たねばならないようで。

 

1645年には、マテオ・リッチの作成した地図などを参考に『万国絵図』が、日本で初めて印刷された世界地図として出回り、「江戸初期の人々に海外の知識を広めることに役立った」のであるとか。

 

また1666年には、「幕府事業の『寛永十五年図』を拠る『日本分形図』が日本で初めて刊行された地図帳として、展示解説に曰く「印刷・出版されたことで多くの人びとに伝わり、日本の国土の認識を促したであろう」と。ですが、ここで思い至ることは、シーボルト事件を思い出すまでもなく、地図って当時は国防上の機密事項だったのではないかいねということでしょうか。

 

伊能忠敬による『大日本沿海輿地全図』(いわゆる『伊能図)が完成したのは(忠敬の没後ながら)文政四年(1821年)でしたですね。この頃は日本近海で外国船が不穏な動きを見せていたわけですけれど、江戸初期段階ではまだまだ直接的に外国の脅威といったものを意識していなかったのか。はたまた、ぼたもちを積み重ねたような行基図はともかく、当時の地図の出来がさほど精細なものでなかったことでいまだ重要性を持つに至らなかったのでありましょうか。

 

ただ、そうではあったとしても、なんとなあく日本はこういう形という地図らしきものが印刷を通じて市中に出回っていたとすると、映画『大河への道』で完成した伊能図の献上を受けた将軍・家斉(映画では草刈正雄でしたな)が「日本はこんな形をしていたのか…」てなことをつぶやくのはどうよ?と思ったり。まあ、それまでにあったどの地図よりも精緻に作られていたことに対する感心なのかも。だからこそ、トップシークレットにもなったわけで。

 

この地図に対する扱いの流れは明治になっても、陸軍参謀本部に陸地測量部が置かれたことに繋がるのでしょうなあ。こちらの活動の一端は映画『劒岳 点の記』に描かれておりましたっけね。

 

ちなみに、展示の中には(複製ながら)日本で初めて作られた地球儀なるものも展示されておりましたなあ。現物は安政二年(1855年)に製作されたものということですが、考えてみれば「地球が丸い」ということに対する日本人の受け止め方はどうだったのですかね。西洋世界ではキリスト教との絡みで、ガリレオが難儀した話などが伝わりますが、海に囲まれた日本としては、水平線の彼方から船がやってくるときに、その帆柱の先端から見え始めたりすることを知っており、地球が丸いことに「そういえばそうだな」と考えられたりしたでしょうか。どうですかねえ。

 


 

てなところで、またまた月例行事になっております両親の通院介助に出かけてまいりますので、明日はお休みを頂戴いたしまして、また明後日(12/16)にお目にかかりたく存じます。よしなに。