千葉県の龍角寺古墳群にあって最大なのは「墳丘長78mの浅間山古墳」という前方後円墳(第111号墳)なのですけれど、予め目を通した本であったか、何かしらのサイトであったか、近付く道がどうにもよろしく無いといった情報を見かけていて、「んじゃまあ、やめとくか…」と。

 

 

その代わりに風土記の丘資料館の説明には目を通していたわけですが、規模が大きいだけあって石室もまた。これは資料館内に再現されておりましたよ。

 

 

ところで、上の写真に見えますように資料館の展示解説では「前方後円墳から方墳へ」となっておりますね。このあたりの説明を、ちと引いておくとしましょう。

6世紀の終わり頃になると、前方後円墳を象徴としたヤマト王権の政治体制に変革の気運が高まる。前方後円墳が近畿地方の中心部でいっせいに築かれなくなり、まもなく西日本一帯で造営が停止する。王族や豪族の墓は、当時の先進地域であった中国や朝鮮半島の王陵にならって方墳や円墳に変わる。しばらくの間、前方後円墳の威光を保ち続けた房総でも、7世紀になると各地の主な首長墓が方墳へと変わっている。

ということで、円墳である復元第101号墳を見たのちには、龍角寺古墳群の端に巨大な方墳があるということでしたので、そこへ足を向けたのでありますよ。が、こちらの古墳群ではおおむね小ぶりなものばかりを見てきましたので、さほどの期待感も無く近づいていったところ、遠目に見えてきただけでも「こりゃ、でかい!」と思ってしまいましたですよ(なかなか写真では伝わりにくいでしょうなあ…)。

 

岩屋古墳(龍角寺105号墳)
古墳時代終末期の方墳としては、全国第1位の規模を誇ります。龍角寺古墳群中、最後の前方後円墳である浅間山古墳(龍角寺111号墳)に後続して築造されたと推定され、龍角寺の創建に係り、後の埴生郡司につながる印波国造一族の墓と考えられています。

まあ、最盛期の前方後円墳、例えば大仙陵古墳とか、そこまでいかずとも今城塚古墳とかなどに比べれば、さほどでもないとはなりましょうけれど、方墳では直近で見たのが岐阜県土岐市の乙塚古墳で方墳の一辺の長さが30m弱であっただけに、岩屋古墳の一辺78mは倍以上、それだけ当然に高さも高いことになりますな。ちなみに、Wikipediaではこんな紹介のされ方もしておりましたよ。

同時期の大方墳である春日向山古墳(用明天皇陵)、山田高塚古墳(推古天皇陵)をもしのぐ規模であり、この時期の方墳としては全国最大級の規模であり、古墳時代を通しても5世紀前半に造営されたと考えられる奈良県橿原市の桝山古墳に次ぐ、第二位の規模の方墳である。

とまあ、そんな古墳だけに高さがある。当然に登りたくなる。さりながら、龍角寺古墳群に一様な心遣い?として登ってはいけないのですなあ。

 

 

遠目であっても近くから見ても、間違いなく墳丘頂まで踏み跡がしっかり残っておるわけで、周囲を見回せば誰もいない…と悪魔の声が耳元でささやくのですなあ。ま、そうはいっても見晴らしが良さそうなと思うところは、周囲からも見通しがいいということですので、気まずい思いに陥る可能性は排除して、方墳の周囲をめぐるにとどめたのでありました(苦笑)。

 

 

岩屋古墳のある場所は下総台地の際も際のようでして、向こうは「あぶない」と案内されるほどに切れ落ちた崖になっていると知れば、登りたい気持ち再び…となるも、我慢して(笑)大人しく一周を続行。「よく作ったなあ」感を抱いたところで、風土記の丘資料館にあった「岩屋古墳をつくるには」という解説が思い出されました。

 

スーパーゼネコンのひとつ、大林組に計算してもらった結果だそうですけれど、現代工法で大型重機をフル稼働したとしても(たぶん)これだけ掛かるとはビルを建てるより余程たいへんなのでしょう。「土砂はすべて人力で運搬」したようでして、石材は辛うじて印旛沼(かつては香取海)が近いので舟で運んだのでしょうなあ。というところで、石室を覗いてみることに。特徴として石室がふたつあるそうで。

 

 

右側の埋もれたトーチカの様に見えるのが東石室、左側のいかにも管理されてるふうが西石室になります。いずれの石室も筑波山系の片岩が使われているということですが、築いた際の強度の違いか、はたまた断層の近さの問題であるのか、東石室の方は関東大震災の地震で入口付近の天井が内部崩落したということでありますよ。つうことで、ちと西石室の方を覗き見に。

 

隣の東石室との共通点は、入口付近の両側に「ハ」の字に開く筑波石を立て、短い羨道(せんどう)をもつことがあげられます。相違点としては、玄室に入るためにまたぐように設置された 閾石(しきみいし)が西石室では見られません。これは東石室で行われた追葬が西石室でみられず、構造の改変も行っていないことを示唆しています。

つうことは東石室の方が使用期間が長かったということになりましょうか。ともあれ、先にみた解説で「印波国造一族の墓と考えられてい」るとして、古墳の規模から想像を逞しくすれば、神話時代の神武天皇の皇子・神八井耳命(かんやいみみのみこと)の八世孫である伊都許利命(いつこりのみこと)が応神天皇の時代に印波国造に任じられていますので、その系譜が葬られているのかもと。岩屋古墳の成立は7世紀中頃とも言われますので、下総地場の豪族に国造が移るのはもそっと後となれば、なおのことでもあるような。

 

まあ、神話時代にどれほどの歴史的信憑性があるのかは眉唾ものながら、岩屋古墳に想像が膨らんでやまないことには間違いありませんですねえ。