迷子状態になりかかりつつもなんとか?抜け出すことのできた佐倉城址公園をあとにして、かつては広小路と呼ばれたらしい真っ直ぐな道をたどることしばし、大手門跡に到達しました。

 

 

写真では右手の直線路を進めば城内奥深くへと…なるわけですが、お城ってこんなにまっすぐな道でいいの?とも。もっとも、このあたり「広小路の通りには、佐倉藩の重臣を含む藩士たちの武家屋敷が立ち並」んでいたそうで、辛うじて?大手門自体、「シャチホコが屋根に乗った二層の瓦葺の城門」と堅固さを備え、門の前には「升形」を設けてあったといいますから、守りがお留守になっていたわけではなさそうです。

 

で、大手門を出はずれたちょいと先、今では市民体育館のあるところにはかつて佐倉藩の藩校成徳書院があったのであると。これまた妙に大きな看板ですなあ。

 

 

この藩校が紆余曲折を経て、現在の千葉県立佐倉高等学校につながっていくわけで、いわば名門、そして進学校と言えましょうけれど、卒業生ですぐさま思い浮かぶのが長嶋茂雄では、どう評価したらいいのか…。

 

ともあれ、広小路から長く続く道をここで右に折れて少し行った先に「ひよどり坂」という坂道があると、京成佐倉駅近くの観光案内所でもらった「佐倉さんさく まちあるきミニマップ」で見当をつけていたですが、それがよもや登り坂であろうとはちと予想外でしたなあ。高台にあるお城から歩いてきただけに、この方向からはてっきり下るのだとばかり予想しておりましたが…。

 

 

ともあれ、車はもちろん自転車も通れないひよどり坂は「サムライの古径」とも呼ばれるようで、「江戸時代からほとんど変わらない美しい竹林に囲まれています。緩やかに曲がる坂道には、四ツ目垣、御簾垣、鉄砲垣などが効率的に配され、今にも侍が出てきそうな雰囲気です」と、佐倉市HPが紹介するそのまんまの道でありましたよ。

 

 

登り詰めた先は「武家屋敷通り」となりますので、佐倉藩士たちが日々、このひよどり坂を下って(その後また登り返して)お城へと出勤(?)していったのでありましょうなあ。武家屋敷通りそのものは今では車も通れる舗装路となっていますですが、往時の姿を偲ぶ武家屋敷の中を見学できるようになっておりました。ほぼほぼ隣接して寄り添うように立つ三棟が公開中で、入口はこちらの旧河原家住宅で、ここで入館券を買うと三棟全て見て回れるということで。

 

 

 

 

旧河原家住宅、旧但馬家住宅、旧武居家住宅と三棟とも外観を見て気付くのは、土塁のように盛土して生垣を差し回してあるということでしょうか。どうやらこれは「馬上から屋敷内を覗かれないようにするためだと伝えられてい」るようで。ということは、ここら辺の藩士は騎乗で登城したということなのですかね。当然に先ほどのひよどり坂も騎乗のまま?と。

 

まあ、講談『寛永三馬術』に曲垣平九郎が江戸・愛宕神社の石段を騎乗のまま上り下りしたという武勇伝がありますけれど、これがもとで「出世の石段」と呼ばれるようになった愛宕神社の階段よりは、ひよどり坂はゆるやかですからなあ。

 

とまれ、邸内には復元工事のようすですとか、佐倉藩に伝わる文書の紹介ですとか、そういったものがありましたけれど、文書関係のところで解説文にあった一文が印象的でしたですね。

…これらの資料からも「武人」としての「士(さむらい)」というより、公用に追われ遠方まで出張に赴く「一人の事務官」、さらに極論するならば、当時の一地方公務員」とでも呼べる姿が浮かんできます。

紹介されている文書は1800年代前半ですので、江戸後期のものになりましょう。相変わらず刀は差していたものの、事務仕事の日常はやはりお城に「通勤」する感覚ではありましょう。ところで、旧河原家住宅の向かいの広いお宅の生垣にこんな看板を見つけたのですなあ。

 

 

「児玉源太郎旧宅跡」であると。日露戦争に際して総参謀長となったことで知られる人ですな。佐倉城は明治になって陸軍が利用したことには触れておりましたが、周辺の武家屋敷まで兵隊用に使われていたのでしょう。要するにこちらの敷地にあった屋敷を佐倉におかれた歩兵第二連隊の連隊長の官舎とし、当時中佐であった児玉源太郎が赴任してきたようで。

 

向かいの武家屋敷に比べて目を止める人もおよそいない解説板ですけれど、さらっとこんなエピソードも紹介しておりまして。

陸軍の演習において、児玉が佐倉歩兵第2連隊長として佐倉の兵を率い、乃木希典(後の大将)率いる東京の第1連隊を奇襲によって破ったというエピソードは大変有名です。

やっぱり(といってはなんですが)乃木大将はあまり戦上手ではなかったのかも。それよりも、児玉大将の方が一枚も二枚も上手だったといえましょうかね。ともあれ、ひよどり坂を登ってたどりついた場所だっただけに『坂の上の雲』を思い出したりもしたものなのでありました。